写真の発明と印象派

○ ◎ ○ ◎  この記事の要約 ○ ◎ ○ ◎

・写真の発達により19世紀の中頃の人々は、すでに私たちと同じようなやり方で世界を知るようになっていた

・19世紀、科学技術のビジュアルが情報収集の方法に新しいコンセプトを持ち込んだ=リアリズム、実証主義

・写真の発明により話や絵は誰かの主観が入っているので不正確な情報であり、写真やビデオなど客観的情報ほど信頼性が高いという認識になった=19世紀の科学主義と写真の登場は、それまでの絵画を絵空事にした

・ところがリアリズムという言葉は絵画の世界が作り出したもの

・リアリズム≠写実主義(写真のように克明に描いた絵)

・リアリズム=神話的なまたはロマンティックな物語の想像の世界から、現実に画家が住んでいる世界へのテーマの変換だった

・ロマン派(中世ヨーロッパの騎士物語などをヒントに情緒的な世界を構築しようとした)は挿話的なフィクションのストーリーを物語っており、写真は許せなかった。「芸術は偉大な霊感である、ただ実物そっくりであれば良いというものではない」「写真は産業の一部であり芸術ではない」と宣言(ロマン派にとって写真は自然を忠実に再現するものという認識しかなかった)

・しかし写真が芸術に突きつけていた問題は写実性ではなかった、 「その場面に直面して写真家がいたという作家の実在証明こそが人々を説得できる」ということが問題だった

・リアリズムは画家にとっての現在を描くことで、写真家の持つ実在証明に対抗しようとした=リアリストの絵を見ると人々は画家の目になって画面を見るような気がする、絵の中で起こっていることに観客を参加させようとする手法

・画家が「写真の目」を持ち、現代に起こるであろう状況の一瞬を絵画の中に定着させたとき、人々は絵画の中に入り込み勝手な想像をエキサイトした、それは観客も同じように「写真の目」を持ち、絵が現実の時間の一部を切り取ったものであること、そしてその現場に画家がいたように自分もいるかもしれないことを理解していたから(ビジュアルショック)

・印象派の誕生=画家が画家にとっての現在の時間を描き始めた

・人間は、写真という機械の目を持つことで、人間のナマの目がどれほど想像力に満ちたものかを客観的に知ることができるようになった

・絵画は印象派を生み出したことで写真の再現力に打ち勝ち、新しいメディアとなれた

・新しいメディアは、人間のナマの目の持つ想像力とパーソナリティを科学主義の時代の人々に伝えるものだったからもう写真と競合することもなかった、写真は写真で機械の目による芸術の可能性を追求すればよかった

○ ◎ ○ ◎ ○ ◎ ○ ◎ ○ ◎ ○ ◎ ○ ◎ ○ ◎ ○ ◎ ○ ◎ ○ ◎ ○ ◎ ○ ◎ ○ ◎




冷静で客観的な現代人の目。この目を騙すことは難しい。現代美術はこのような目を持つことから出発した。それは、写真の発明だ。写真を知り、写真を越えようとしたとき、新しい美術の可能性が追求され始めたのだ。




★★★    写真と印象派の因縁の出会い ★★★

1826年フランスのニエプスにより写真が初めて完成した。

ニエプスの死後1839年にアカデミーで報告された時写真の発明が社会に認められるようになった。

この年は偶然にも、印象派を代表するセザンヌとスーラが誕生した年だった。

それまでビジュアルの領域を独占していた絵画は写真という新戦術の開発にどんどん追い詰められていった。それはメディアの縄張り争いだった。

絵画はマフィアのボスさながら、マンネリの極致のような政治的ごまかしで反撃していた。この抗争に終止符を打ったのは、写真と同世代のボスの息子、印象派だった。新参の流れ者(写真)とボスの息子(印象派)は新しい時代を感じ取る新鮮な好奇心で結ばれていた。絵画と写真の19世紀はまさにそのような歴史だった。

そこで現代美術を知るためには、写真の登場で人間のビジュアルメディアがどのように変わってきたかを考えることが必要である。

映像の定着、永久化、これこそが写真になるための条件だった。時間を切り取り、その時間を止めてしまうという写真の第一の要件は、この時代から現代まで変わっていない。



★★★ 写真が開いたリアリズムの世界観 ★★★

科学的な原理や法則など理解できなくても、ともかく新発明は素晴らしいと認めてしまうのが科学主義というものだ。

1840年代、50年代の写真の広まり方の凄まじさは、当時の人々がどれだけ科学主義的であったかを物語っている。彼らは写真の原理など知らなくとも、新時代に生きていることの証明としてすぐに写真と仲良くなって見せたのだ。

写真館の備え付けの舞台装置の前で肖像写真を撮ってもらったり、写真館では有名人の写真や風景写真を販売するという商売もあった。すでに1850年にはヌード写真の販売を禁止する法律が作られたほどだから、写真のジャンルの広がりもまた急速だったのがわかる。

私たちがよく知っていると思っている過去や現在の有名人の顔も、実は写真やテレビなど複製された映像からの情報によっている。そして、外国の風景や宇宙から見た地球なども全て同じ方法で集めた情報だ。

写真の発達により19世紀中頃の人々はすでに私たちと同じようなやり方で世界を知るようになっていた。

つまり、19世紀、科学技術のビジュアルが情報収集の方法に新しいコンセプトを持ち込んできたのだ。それを人々はリアリズムと呼び、実証主義と呼んだのだ。




★★★ 現代人を疑い深くした写真のリアリズム ★★★

リアリズムとはビジュアルに関する情報処理用語だった。

ところが、散々の情報に弄ばれてきた現代人は写真などのビジュアルが真実を伝えるものでないことは充分に承知している。

写真を知る以前なら、不思議な動物は不思議な動物として人々に受け入れられた。また下手くそな絵でも想像力で修正して各人で動物らしい映像を再構成して構わなかった。怪獣や妖怪が、家内工業的に様々な場所で非科学的に生産されていたのだが、写真が発明されると話や絵では信じることができなくなる。話や絵はだれかの主観が入っているので不正確な情報に感じられるのだ。写真やビデオがあればOKだ。客観的情報ほど信頼性が高いと私たちは信じて疑わない。

19世紀の科学主義と写真の登場は、それまでの絵画をまさに絵空事にしてしまった。ところがリアリズムという写真のために用意されたようなこの言葉は、実は絵画が作り出したものだった。




★★★ リアリズムは写実主義ではない ★★★

リアリズムの絵画とは、写真のように克明に描いた絵のことではない。リアリズムとは写実主義ではない。

リアリズムとは、神話的なまたはロマンティックな物語の想像の世界から、現実に画家が住んでいる世界へのテーマの変換だった。

最初に保守派からリアリストだと言われて吊るし上げを食ったのはクールベだったが、彼はルポルタージュ写真とかスナップ写真といった感じで、そこらにいそうな普通の人々が働いているところをただなんとなく描いた。

だが、その「なんとなく」がいけなかった。

そのころの保守派とは、ロマン派だった。ロマン派(中世ヨーロッパの騎士物語などをヒントに情緒的な世界を構築しようとした)の前には古典主義(ギリシャ・ローマに題材を求め荘厳な世界を構築しようとした)がある。

どちらも挿話的なフィクションのストーリーを物語っている。どちらにしても歴史の進歩に後ろ向きだし、いつも過去のバージョンを作っているだけだった。どちらも現代の考え方から見ると似たり寄ったりだ。

そんな彼らに最も許せなかったのは写真だった。

「芸術は偉大な震感である、ただ実物そっくりであればいいというのではない」と言い、「写真は産業の一部であり芸術ではない」と宣言する。彼らには写真は自然を忠実に再現するものという認識以上のものはなかったのだ。

しかし、写真が芸術に突きつけていた問題は、写実性ではなかった。ただの写実性なら絵画にとって克服可能な技術的問題にすぎなかった。写真が突きつけていた最大の問題は、その場面に直面して写真家がいたという作家の実証証明こそが人々を説得できるということだった。

リアリズムは画家にとっての現実を描くことで、写真家の持つ実在証明に対抗しようとしたものだった。それはカメラのシャッターを切る瞬間の心情で絵を描くことだった。だからリアリストの絵を見るとき、人々は画家の目になって画面を見るような気がする。リアリズムはこのように絵の中で起こっていることに観客を参加させようとする手法だった。(1863年「草上の昼食」マネ)




★★★ 観客参加の卑猥ヌード ★★★

観客を絵画に参加させる

これは現代美術の重要なテーマだ。現代美術は、誰かの権威を象徴したり大衆を啓蒙したりするのではなく、作家と観客が対等な人間として作品を通じて接し合うことをテーマの一つとしている。

マネの「草上の昼食」はどのように観客を参加させたのか。

2人の男と裸の女が森の中にピクニックをしているらしい光景が描かれているこの絵には、女が「これ以上裸になれないくらい裸だ」というので激しい避難の的になる。

しかし、その頃画家としての階段を登りつめ上院議員にさえなっていたアングルは、「オダリスク」とか「泉」のような、ただただ女の裸を描き続けた画家だった。だから決して女の裸が問題であったわけではない。ロマンティックな物語という言い訳があればどのように猟奇的な絵画でも芸術として認められた。これが当時の保守派の絵画だった。

マネの絵が問題になったのは表現技法が写実的だったからではない。観客が絵画に参加させられてしまったからなのだ。絵の中の男たちはこの展覧会場にいそうな風体だし、裸なりに地面に座って観客の方を見ている女は、トルコでもアッシリアでもなくパリの娘であるらしい。よく見ると脱いだ服と置いてある食べ物の位置関係から食事前にはもう裸だったらしい。これはとんでもなく不道徳な光景を描いた絵だった。

しかし、問題なのはこの光景ではないのだ。実はこんな不道徳な男と女が実際にいるような気がすることだったのだ。恐ろしい時代になったものだ、明日森に行ったらこんなピクニックに出くわすかもしれない、そう考えて観客は自分で不道徳な想像を膨らませ、そして怒り狂ったのだ。

画家が「写真の目」を持ち、現代に起こるであろう状況の一瞬を絵画の中に定着させたとき、人々は頼まれもしないのに絵画の中に入り込み、勝手な想像をエキサイトした。それは観客も同じように「写真の目」を持ち、絵が現実の時間の一部を切り取ったものであること、そしてその現場に画家がいたように自分もいるかもしれないことを理解していたからなのだ。

観客は画家と同じ視点から現実に直面させられた。これは確かに、写真が持つのと同じ種類のビジュアルショックだった。




★★★ 「写真の目」からの出発 ★★★

画家が画家にとっての現在の時間を描き始めたのは芸術にとって画期的なことだった(それまでは風刺画家のような卑しい身分の画家の領域と考えられていたから)。

画家が現在を描くことに躊躇しなくなれば、次のステップは簡単に踏み出せた。過去のいろいろな物語や宗教的な制約に邪魔されることがなくなったので、目に見える気に入ったものを次々に描けばいい。現在がテーマだ。

そして、絵を描いている画家に個人的に見えていたものが絵だ、と言えるようになったとき、それが印象派の誕生だった。

人間は、写真という機械の目を持つことで、人間のナマの目がどれほど想像力に満ちたものかを客観的に知ることができるようになったのだ。

ここで重要なことは、人間が機械によって視覚のシステムを客観的に利用することを知ったとき、むしろ人間が生まれながらに持っていた視覚の曖昧さをはっきりと認識したことである。曖昧さ、それはある人にとっての風景と他の人にとっての風景が、全く別のものであるかもしれないということだ。しかし、それは逆に写真のように正確な再現がなされなくても、人と人との間には風景を風景と理解ができる共通のイメージが存在するということでもある。ある人が風景を見たときの印象が、他の人の持った印象と重なり合ったとき人間同士の理解が生まれる。このとき写真のような正確さは必要ではない。印象派とはそんな意味を持っている。

この後もしつこく写真と絵画の抗争が続けられた。しかし絵画は印象派を生み出したことで写真の再現力に打ち勝ち、新しいメディアとなれたのだ。

新しいメディアは、人間のナマの目の持つ想像力とパーソナリティを科学主義の時代の人々に伝えるものだった。だからもう写真と競合することもなかった。写真は写真で機械の目による芸術の可能性を追求すればよかったのだ。

「写真の目」は現代人の目だ。印象派は現代人の目への絵画からの最初の答えだったのだ。

ところで写真は、絵画のような権威主義を生まれたときから持っていなかったから、産業の発達に押されるままにあらゆる方向に進出して行った。ゴッホやゴーギャンが登場する後期印象派には、映画とアマチュア写真、グラビア印刷という新たなビジュアルも生み出される。これはたちまち絵画にフィードバックされ、再び過激な時代へと突入して行くのだ。








★★★    写真と印象派の因縁の出会い ★★★

1826年フランスのニエプスにより写真が初めて完成した。

ニエプスの死後1839年にアカデミーで報告された時写真の発明が社会に認められるようになった。

この年は偶然にも、印象派を代表するセザンヌとスーラが誕生した年だった。

それまでビジュアルの領域を独占していた絵画は写真という新戦術の開発にどんどん追い詰められていった。それはメディアの縄張り争いだった。

絵画はマフィアのボスさながら、マンネリの極致のような政治的ごまかしで反撃していた。この抗争に終止符を打ったのは、写真と同世代のボスの息子、印象派だった。新参の流れ者(写真)とボスの息子(印象派)は新しい時代を感じ取る新鮮な好奇心で結ばれていた。絵画と写真の19世紀はまさにそのような歴史だった。

そこで現代美術を知るためには、写真の登場で人間のビジュアルメディアがどのように変わってきたかを考えることが必要である。

映像の定着、永久化、これこそが写真になるための条件だった。時間を切り取り、その時間を止めてしまうという写真の第一の要件は、この時代から現代まで変わっていない。


★★★ 写真が開いたリアリズムの世界観 ★★★

科学的な原理や法則など理解できなくても、ともかく新発明は素晴らしいと認めてしまうのが科学主義というものだ。

1840年代、50年代の写真の広まり方の凄まじさは、当時の人々がどれだけ科学主義的であったかを物語っている。彼らは写真の原理など知らなくとも、新時代に生きていることの証明としてすぐに写真と仲良くなって見せたのだ。

写真館の備え付けの舞台装置の前で肖像写真を撮ってもらったり、写真館では有名人の写真や風景写真を販売するという商売もあった。すでに1850年にはヌード写真の販売を禁止する法律が作られたほどだから、写真のジャンルの広がりもまた急速だったのがわかる。

私たちがよく知っていると思っている過去や現在の有名人の顔も、実は写真やテレビなど複製された映像からの情報によっている。そして、外国の風景や宇宙から見た地球なども全て同じ方法で集めた情報だ。

写真の発達により19世紀中頃の人々はすでに私たちと同じようなやり方で世界を知るようになっていた。

つまり、19世紀、科学技術のビジュアルが情報収集の方法に新しいコンセプトを持ち込んできたのだ。それを人々はリアリズムと呼び、実証主義と呼んだのだ。


★★★ 現代人を疑い深くした写真のリアリズム ★★★

リアリズムとはビジュアルに関する情報処理用語だった。

ところが、散々の情報に弄ばれてきた現代人は写真などのビジュアルが真実を伝えるものでないことは充分に承知している。

写真を知る以前なら、不思議な動物は不思議な動物として人々に受け入れられた。また下手くそな絵でも想像力で修正して各人で動物らしい映像を再構成して構わなかった。怪獣や妖怪が、家内工業的に様々な場所で非科学的に生産されていたのだが、写真が発明されると話や絵では信じることができなくなる。話や絵はだれかの主観が入っているので不正確な情報に感じられるのだ。写真やビデオがあればOKだ。客観的情報ほど信頼性が高いと私たちは信じて疑わない。

19世紀の科学主義と写真の登場は、それまでの絵画をまさに絵空事にしてしまった。ところがリアリズムという写真のために用意されたようなこの言葉は、実は絵画が作り出したものだった。


★★★ リアリズムは写実主義ではない ★★★

リアリズムの絵画とは、写真のように克明に描いた絵のことではない。リアリズムとは写実主義ではない。

リアリズムとは、神話的なまたはロマンティックな物語の想像の世界から、現実に画家が住んでいる世界へのテーマの変換だった。

最初に保守派からリアリストだと言われて吊るし上げを食ったのはクールベだったが、彼はルポルタージュ写真とかスナップ写真といった感じで、そこらにいそうな普通の人々が働いているところをただなんとなく描いた。

だが、その「なんとなく」がいけなかった。

そのころの保守派とは、ロマン派だった。ロマン派(中世ヨーロッパの騎士物語などをヒントに情緒的な世界を構築しようとした)の前には古典主義(ギリシャ・ローマに題材を求め荘厳な世界を構築しようとした)がある。

どちらも挿話的なフィクションのストーリーを物語っている。どちらにしても歴史の進歩に後ろ向きだし、いつも過去のバージョンを作っているだけだった。どちらも現代の考え方から見ると似たり寄ったりだ。

そんな彼らに最も許せなかったのは写真だった。

「芸術は偉大な震感である、ただ実物そっくりであればいいというのではない」と言い、「写真は産業の一部であり芸術ではない」と宣言する。彼らには写真は自然を忠実に再現するものという認識以上のものはなかったのだ。

しかし、写真が芸術に突きつけていた問題は、写実性ではなかった。ただの写実性なら絵画にとって克服可能な技術的問題にすぎなかった。写真が突きつけていた最大の問題は、その場面に直面して写真家がいたという作家の実証証明こそが人々を説得できるということだった。

リアリズムは画家にとっての現実を描くことで、写真家の持つ実在証明に対抗しようとしたものだった。それはカメラのシャッターを切る瞬間の心情で絵を描くことだった。だからリアリストの絵を見るとき、人々は画家の目になって画面を見るような気がする。リアリズムはこのように絵の中で起こっていることに観客を参加させようとする手法だった。(1863年「草上の昼食」マネ)


★★★ 観客参加の卑猥ヌード ★★★

観客を絵画に参加させる。

これは現代美術の重要なテーマだ。現代美術は、誰かの権威を象徴したり大衆を啓蒙したりするのではなく、作家と観客が対等な人間として作品を通じて接し合うことをテーマの一つとしている。

マネの「草上の昼食」はどのように観客を参加させたのか。

2人の男と裸の女が森の中にピクニックをしているらしい光景が描かれているこの絵には、女が「これ以上裸になれないくらい裸だ」というので激しい避難の的になる。

しかし、その頃画家としての階段を登りつめ上院議員にさえなっていたアングルは、「オダリスク」とか「泉」のような、ただただ女の裸を描き続けた画家だった。だから決して女の裸が問題であったわけではない。ロマンティックな物語という言い訳があればどのように猟奇的な絵画でも芸術として認められた。これが当時の保守派の絵画だった。

マネの絵が問題になったのは表現技法が写実的だったからではない。観客が絵画に参加させられてしまったからなのだ。絵の中の男たちはこの展覧会場にいそうな風体だし、裸なりに地面に座って観客の方を見ている女は、トルコでもアッシリアでもなくパリの娘であるらしい。よく見ると脱いだ服と置いてある食べ物の位置関係から食事前にはもう裸だったらしい。これはとんでもなく不道徳な光景を描いた絵だった。

しかし、問題なのはこの光景ではないのだ。実はこんな不道徳な男と女が実際にいるような気がすることだったのだ。恐ろしい時代になったものだ、明日森に行ったらこんなピクニックに出くわすかもしれない、そう考えて観客は自分で不道徳な想像を膨らませ、そして怒り狂ったのだ。

画家が「写真の目」を持ち、現代に起こるであろう状況の一瞬を絵画の中に定着させたとき、人々は頼まれもしないのに絵画の中に入り込み、勝手な想像をエキサイトした。それは観客も同じように「写真の目」を持ち、絵が現実の時間の一部を切り取ったものであること、そしてその現場に画家がいたように自分もいるかもしれないことを理解していたからなのだ。

観客は画家と同じ視点から現実に直面させられた。これは確かに、写真が持つのと同じ種類のビジュアルショックだった。


★★★ 「写真の目」からの出発 ★★★

画家が画家にとっての現在の時間を描き始めたのは芸術にとって画期的なことだった(それまでは風刺画家のような卑しい身分の画家の領域と考えられていたから)。

画家が現在を描くことに躊躇しなくなれば、次のステップは簡単に踏み出せた。過去のいろいろな物語や宗教的な制約に邪魔されることがなくなったので、目に見える気に入ったものを次々に描けばいい。現在がテーマだ。

そして、絵を描いている画家に個人的に見えていたものが絵だ、と言えるようになったとき、それが印象派の誕生だった。

人間は、写真という機械の目を持つことで、人間のナマの目がどれほど想像力に満ちたものかを客観的に知ることができるようになったのだ。

ここで重要なことは、人間が機械によって視覚のシステムを客観的に利用することを知ったとき、むしろ人間が生まれながらに持っていた視覚の曖昧さをはっきりと認識したことである。曖昧さ、それはある人にとっての風景と他の人にとっての風景が、全く別のものであるかもしれないということだ。しかし、それは逆に写真のように正確な再現がなされなくても、人と人との間には風景を風景と理解ができる共通のイメージが存在するということでもある。ある人が風景を見たときの印象が、他の人の持った印象と重なり合ったとき人間同士の理解が生まれる。このとき写真のような正確さは必要ではない。印象派とはそんな意味を持っている。

この後もしつこく写真と絵画の抗争が続けられた。しかし絵画は印象派を生み出したことで写真の再現力に打ち勝ち、新しいメディアとなれたのだ。

新しいメディアは、人間のナマの目の持つ想像力とパーソナリティを科学主義の時代の人々に伝えるものだった。だからもう写真と競合することもなかった。写真は写真で機械の目による芸術の可能性を追求すればよかったのだ。

「写真の目」は現代人の目だ。印象派は現代人の目への絵画からの最初の答えだったのだ。

ところで写真は、絵画のような権威主義を生まれたときから持っていなかったから、産業の発達に押されるままにあらゆる方向に進出して行った。ゴッホやゴーギャンが登場する後期印象派には、映画とアマチュア写真、グラビア印刷という新たなビジュアルも生み出される。これはたちまち絵画にフィードバックされ、再び過激な時代へと突入して行くのだ。




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