夢泥棒は朝に眠る 第六話
「……何やってるんですか」
「アスファルトに頭ぶつけた」
「なんでぶつけたんですか」
「夜道を歩いてたらフラ~って倒れた」
「なんで倒れたんですか」
「分かんないよ。なんか急に頭がフラ~ってなったの」
夢叶は約束の時間をとっくに過ぎてもデートとやらの待ち合わせ場所に来なかった。なんとなく胸騒ぎがした僕が夢叶のアパートに向かった時、出かけるところだったあの大家さんとすれ違ったのは本当に幸運だったと思う。夢叶がこの病院に運ばれたのを知ることができたから。
急いで病院に来てみれば、当の夢叶は白いベッドの上で点滴に繋がれて暢気にテレビを見ていた。自分から誘っておいてデートに来なかったのだから連絡の一つでもしてほしかった。見たところ身動きが取れないほどの重症でもないようだし。頭に包帯を巻いているのには少し驚いたが軽い打撲で済んだそうだ。
「だからきちんと休んだ方がいいって言ったじゃないですか」
「一応寝てはいたんだけどな~。あ、リンゴの皮剥いてくれない?」
「剥きません。というかリンゴ自体ないですし持ってきてもないですし」
「じゃ下の売店で買ってきて~、売ってるかどうか知らないけど」
こちらに一瞥もくれることなく、いつも通りの調子でテレビを見ながらそんなことを要求してくる夢叶を見て、僕はこれっぽっちも安心できなかった。
夢叶が、隣のベッドに眠っている少女について何も言おうとしないから。
この病室に入院している患者は二人。廊下の名札にも名前ははっきり書いてある。
一人は目の前にいる姫野夢叶。
もう一人が、姫野夢美。
姫野というのも珍しい苗字だ。おまけに実際にベッドで眠る顔を見ると夢叶にそっくりとくれば、無関係ではないだろう。そして先日、夢叶が見舞いに行っていたという相手。
「ねぇ、夢叶」
「……」
ベッド横にあったパイプ椅子に腰かけ、自分なりに真摯な顔を作って声をかけると夢叶は押し黙る。聞いてほしくない。そう顔に書いてあった。でも、ここまで来て聞かずにもいられない。それに、きっと今日行くはずだったデートというのはこの子に会いに行くことだったんだろう。
「……こちらの方は、夢叶のご家族?」
「……はぁ、まぁもう隠しようもないか。どうせ今日話そうと思ってたし」
夢叶は観念したようにようやくこちらに視線を向けてくれた。いつも飄々としていて自意識過剰な彼女がこんな憂いを帯びた表情を見せることがあっただろうか。きっと、夢叶にとってはとても大切で、重い話なのだろう。
「この子は私の妹の夢美。夢美はね、病気で二年前から眠り続けてるの」
「ずっと?」
「そう、ずっとね」
「重い病気なんですか?」
「……うん、そうだね。昔からこの子は病院で過ごすことの方が多かった」
「じゃあ、この間この病院にお見舞いに来てたっていうのは、妹さんの?」
「そ。毎日じゃないけどね」
ふと、夢美のベッド脇の棚に積み上げられた本や雑誌の山が目に入る。
そんな自分の視線に気づいたのか、夢叶が話してくれた。
「この子小説とか物語が好きだったの。たまに私がお土産に買ってきてあげてたんだけどさ」
「そうなんですね」
椅子から立ち上がると、なんとなくそこに積み上げられた書籍のいくつかを手に取ってみた。物書きとしては本の山を見ると気になってしまうのが性というものだろう。夢叶が買ってきていたという本は本当に様々だった。恋愛小説にライトノベル、歴史書に新書、中には耽美ものまである。本を読まない夢叶のことだから適当に買ってきていたのだろうが、それにしたって節操がなさすぎだ。下巻だけしか買っていないシリーズ物の小説を見て思わず笑ってしまう。
文庫本とは別に置いてある文芸雑誌をパラパラとめくっていると、あるページに見覚えのある文字の羅列があった。新人賞の受賞作品。自分が昔応募した短編小説だった。そのページにだけピンクの付箋が貼ってある。見てみるとそこに置いてあった他の雑誌にも同じように付箋が貼られているものがちらほらあった。確認すると、それらのページにはすべて自分の作品が載っている。
「夢美はね、あんたのファンだったの」
「え?」
「あの子雑誌を読みながらよくあんたの書いた小説の話してた」
「それは……光栄です」
雑誌には掲載されていたから不特定多数の読者がいること自体は自分も分かっていた。現に夢叶も雑誌投稿した作品で自分を知ったと言っていたし。でも、その夢叶の妹が自分のファンだったというのは、なんというか運命めいたものを感じてしまう。
いや、妹が僕を知っていたから、夢叶は僕のことを知ったのか。
そういえばそうだ。普段小説どころか活字もろくに読もうとしない夢叶がどうして僕のことを以前から知っていたのか。もっと早くに疑問に思うべきだった。
「道理で、活字嫌いな夢叶が僕を知っていたわけだ」
「まぁ、この子が何であんたの書いた小説が好きだったのかはよく分かんないけど」
「妹さんは、僕の書いたお話について、なんて言っていたんですか?」
「夢のあるお話を書くところが好きとかなんとか言ってたよ。あんたみたいなお話書いてみたいとか。いろいろ」
夢のあるお話。あの頃の自分は、夢のある物語を書いていたのか。
空想の世界は昔から好きだったし、夢のないリアルな作品と同じくらい夢のある話は好きだ。でも、あの頃の自分は、ただ書くことが好きだったから書いていただけで、たまたま書くことについてそれなりの才能があった。それだけ。そんな自己満足で書いていた作品を好きだと言ってくれる人は確かにいたんだ。それをこうして肌で実感できることはやっぱり嬉しかった。
「夢美さんが目を覚まさなくなったのは二年前って言いましたっけ」
「そうだよ」
「不謹慎かもしれませんが、僕がスランプになる前で少しだけよかったと思います。妹さんを失望させてしまっていたかもしれない」
「かもね」
「夢叶さん」
「なに?」
「今も、夢美さんのお見舞いに本を買ってきてるんですね」
「……まぁ、ね」
棚の上に置いてある雑誌の山の中には、僕が大学に入ってからの、さらに言えば夢叶と夢泥棒を始めてから自分が書いた小説が掲載されたものも含まれている。夢叶が奪った”夢”から生まれた物語。
「僕の邪推だったら謝りますけど、聞いてもらえませんか」
「ん?」
「最初に会った日、夢叶さんが僕に声をかけてくれたのって、妹さんのためですか?」
「……さぁ、どうだろ。さすがの私でも会ったこともない他人がどこの大学に行くかまでは分かんないし。」
スランプに陥って新作が書けなくなっていた僕のために、夢叶は僕と一緒に夢泥棒になろうと声をかけてきた。自分が他の人の”夢”から盗んだアイディアを僕に提供すれば、僕がまた妹さんが喜ぶような物語を書けるようになると思ったから。
出会いは偶然だったとしても、多分、そういうことなんだろう。
自分の書く作品は、もう自分だけのものじゃない。そのことを痛感させられた。少なくとも、目の前で眠り続けるこの夢美という少女にとっては、僕の書く物語が拠り所だったんだ。プロになるのはそういうことだってことは、自分でも分かっているつもりだった。でも、こうして目の前で直視させられると、やはり心に来るものがある。責任。そう、責任だ。僕には待っている読者がいて、読者の期待に添える作品を書く責任がある。プロとアマチュアの決定的違いはそこに尽きる。
「そうか」
「ん?」
「僕は、もうプロの作家だったんだな」
「何よ急に。私は最初からそう思ってたよ?」
「……今日初めて気づきましたよ。妹さんとお会いして。僕を妹さんに会わせようとしたのはそういうことですか?」
「え、別に。この間病院から出てくるところ見られたからってだけ」
「そこは嘘でもそうですって言ってくださいよ」
「ねぇ、恭介」
「はい?」
「この子にさ、何かお話聞かせてあげてくれない?」
「お話?」
「あんたが書いた話。朗読っていうのかな」
「朗読なんて僕したことないですよ?」
「ずっとこの子にあんたが書いた話聞かせてあげたかったんだけどさ、私がやると何回やってもすぐ寝落ちしちゃうのよね。だからお願い」
そう言う夢叶の声の調子はいつも通りの軽薄さが滲み出ているが、表情はいつになく真剣だ。本当に今日の夢叶は調子が狂う。
曲がりなりにも、お姉ちゃんだということか。
「分かりましたよ。でも、本当に素人ですから変でも笑わないでくださいよ?」
「大丈夫よ。いつもの講義みたいにきっと途中で私も寝るから」
「それはそれでなんか寂しいですけど。まぁ、いいか」
その日は結局、日が暮れるまで病室に自分の朗読する声が響いていて、帰る頃には喉が枯れていた。でも、暖かな夕日が差し込む部屋で紡がれる自分の物語は、普通に本で読む時よりも美しく感じられて。眠る姉妹が見る夢が、どうか今読んでいる物語のように幸せであってほしいと、僕は密かに思っていた。
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