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すばらしきこのせかい・伍

 いつも通りの朝。
 いつも通りの世界。
 いつも通りの自分。

「……いつも通りって、なんだよ」

 雑然としたこの部屋だが、一つだけ自慢できることがあるとすれば壁に関しては新築同然のレベルで綺麗で真っ平らでピカピカだということ。アニメとかアイドルとかそういうものに興味を持たない人生を送ってきたせいか、ポスターやタペストリーを飾る習慣がないせいだろう。その綺麗で真っ平らでピカピカな壁に唯一貼ってあるカレンダー、そこに赤いペンで髑髏マークが書かれてある日付。スマホを起動して念のため確認してみる。やはり今日だ。

「……今日が俺の人生最後の日か」

 そう、今日は俺に与えられた余命が尽きる日。
 俺が生まれた日であり、俺が死ぬ日。
 俺の始まりの日であり、俺の終わりの日。
 いつも通り生きてきた俺が、いつも通りでいられなくなる日。

「……眩しいな」

 窓のカーテンを開けると、冬のこの時期には似つかわしくないほど眩しい朝日が差し込む。まるでこの世界が俺の死を祝福しているかのように。
 世界の悪意を感じた。

 永眠薬。
 与えられた余命を全うした国民すべてに支給される、苦しまずに眠るように静かにこの世を去ることができる薬。
 てっきりスーツ姿の怪しい人たちが宅配にでも来るのかと思っていたが、他の郵便物と紛れてポストに投函されているのを見て、少しだけ腹が立った。まるで自分が死ぬことは誰かが動かなければならないほど大袈裟なことではないのだと、俺という存在の命の価値を軽んじられているかのようで。
 高校卒業後の俺につけられた命の値段は、二十五年だった。
 世間一般の平均と比べれば低い。低ければ低いほど、その人間は生きるに値しないということなのだと、小さい頃から周りの大人たちに散々脅されてきた自分としては、やはりショックだった。
 地方のFラン大学に入学した俺は、そこで俺なりに努力してそれなりの成績を修めたりもしたが、所詮世間から見ればFラン大学だ。その程度のことで与えられた余命が延長されることもなかった。大学院に進まずにそこそこの企業に就職して、そこで結果を出そうと努力もしてみた。でも、もうその頃の俺は二十四歳。社会のこともまだよく分かっていない半人前が逆転ホームランを決めることなどできるわけがないと、日に日に心は疲弊していった。
 半年も経たずに退職した俺は、残り少ない余生を静かに過ごすことに決めた。朝から晩まで眠った。目が冴えてしまっても布団から出ようとしなかった。いっそ通販で棺でも買って、中に閉じこもって延々眠り続けようかと本気で考えたこともあった。とにかく考えることを放棄したかった。何もしたくなかった。残り一年弱という余命を前に、自分は元々生きる価値のない低俗な存在なのだと思い込みたかったのかもしれない。

 ———一体俺は、何のために生まれてきた?

 俺が生まれてきたことで、世界に何か変化をもたらしたか?
 誰かの人生を変えることが今まであったか?
 俺は、今までの人生幸せだったか?
 すべて、ノーだ。

 お前には生きる価値がないと世界に決められた。才能はなく努力しても誰にも何も報われない。ならもうどうしようもないじゃないか。

 ———とっとと飲んで死のう。

 こんなにまともな時間に起きたのは久しぶりだ。最後の朝食くらい、少し豪勢にしたっていいかもしれない。退社以来久しく着ていなかったコートに身を包んで近所のコンビニに入った俺は、そこで財布に入っていた有り金すべてをつぎ込んで食べたいものを片っ端からカゴに放り込んだ。

「お会計が二千七百八十一円です。……はい、ちょうどお預かりします。ありがとうございました」
「ありがとうございました」

 久しぶりに声を出したが、こんな時でも律儀に店員にお礼を言う自分は死を前にしてもどうしようもなくいつも通りだと思う。あるいは体に染みついたただの習慣か。
 アパートに戻りコンビニ弁当を電子レンジで温めながら、ふと思いついた。温まるのを待つ一分四十秒の間に、俺はジーンズのポケットからスマホを取り出し、久しくログインしていなかったSNSアプリを起動する。

【今日永眠薬を飲むんだけど誰か質問ある?】

 ただの思い付きだった。もしかしたら、誰かに自分の声が届くかもしれない。もしかしたら、こんな生きる価値がない自分でも、誰かをほんの少しだけ変えることができるのかもしれない。もしかしたら、この世界に自分という存在が生きた証を残せるのかもしれない。
 俺のアカウントは所謂“鍵垢”ではないから、SNSを利用している全世界の人間が見ることができる。そこまで過度に期待しているわけではないけれど、もしかしたら。
 先程の言葉に続けて文字キーを走らせた。

【これから最後の朝食を済ませるまで質問受け付けます。食べ終えたら永眠薬を飲むので】

 そう打ち込んだところで、目の前の電子レンジからけたたましい音が鳴り響いた。

「……いただきます」

 食事の時に手を合わせるのは、食材になった命に対する礼儀だと誰かから聞いた。確かにそうだろう。だが今だけは、まるで天への祈りのようにも思えた。どうか目の前の食材を食すことで、この先も生きていけますように、と。だとしたら、“いただきます”と言うこの行為に意味はあまりないなと、食事に手を付ける前にやや暗い気持ちになった。
 温めたばかりでやや熱いチキン南蛮弁当を口に頬張りながらスマホでSNSを確認すると、一通の返信が届いていた。

【私もあと少しで永眠薬を飲むことになります。今どんな気持ちですか?】

 知らないアカウントからだ。名前は、まぁ今は関係ない。
 今どんな気持ちか?いつも通りの穏やかな気分だ。
 だから思ったそのままを書き込んだ。

【すごく穏やかな気分です。前々から早く死にたいと思っていたので】

 返事は数秒後に届いた。

【ご本人が納得されているなら幸せだと思います】

 幸せ?幸せなんかじゃない。俺は今幸福に満ちてなんかいない。強いて言えば、何も満たされていない。空っぽだ。生まれてから何も成せず、何も残せず、何も愛せなかった。
 納得して死ぬことが幸せ?
 納得なんて、していない。
 ただ、納得できないことを諦めただけだ。

【正直納得はできていません。もし自分の余命がもっと長かったら、あるいは余命なんて宣告されなければ、自分はもっと夢とか希望とか未来とか愛とか、いろんなものを信じて生きていけただろうなって思います】

 スマホ画面を滑る指は自然とそんな文章を打ち込んでいた。ずっと狭い部屋に閉じこもって自分を蔑みながら過ごしていた俺だけど。

 ———俺、こんなこと思ってたのか。

 次の返事は、やや遅かった。チキン南蛮弁当といくつかのおにぎりを食べ終わってカップ麺に手を付け始めた頃にスマホが鳴った。

【私も正直、もう少しだけ生きていたいです。死を前にして、そう思わせてくれる人に出会って。この人のためにもう少しだけ生きていたいって思えてきたのに。どうしてこの世界はこんなに残酷なんでしょうか】

 “どうしてこの世界はこんなに残酷なんでしょうか”。
 その一文が目に留まったとき、自分の心がどうしようもなく絶望に支配されそうになった。
 この世界は残酷だ。そんなこと、ずっと前から知っている。だからいろんなことを諦めたんだ。

【仕方ないです。世界は人間一人がどうこう出来るものではないですし、逆らうことができませんから】

 カップ麺を食べ終わり、最後に残していたデザートのプリンの蓋を開けたところで、返事が返ってきた。
 とても短い一文だった。

【あなたは、この世界が好きですか?】

 プリンを口に運ぶ前に即答した。

【嫌いです】

 好きになれるわけがない。こんな世界。学業だの仕事だのそんなことで命の価値を測るこの世界。価値のないものに用はないと抹殺しようとする残酷なこの世界。もし自分がもっと能力があって恵まれていて、もっと長い余命が宣告されていたとしても、仮に百年生きることができたとしても好きにはなれないだろう。
 最後のプリンを食べ終わっても顔も知らない会ったこともない誰かからの返事は返ってこなかった。
 最後の話し相手が見知らぬ誰かというのも不思議な気分だが、どうしてか俺はその知らない誰かに生きてほしいと思った。もっと生きたいと思える誰かがいるなら、生きてほしい。俺はそれすら諦めたような男だ。たとえあと数日で終わる命だとしても、たった数時間でもあれば何かを残すことはできると、そう信じたい。俺が今そうしたように。

【朝食が済んだのでもう逝きます。初対面の人に言うのもあれですが、どうか残り少ない余命を大事に生きてください。大切な誰かがいるのなら、その人と過ごす時間を一秒でも楽しんでください。僕にはそれができませんでしたから。最期に誰かと話ができて嬉しかったです。さようなら】

 そう打ち込んだ五秒後、俺はいつも通りの寝顔を浮かべ、この世界から立ち去った。

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