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レアリティ

 犬神星華《いぬがみせいか》。
 年齢:十七歳。
 職業:高校二年生。
 座右の銘:「能ある鷹は爪を隠す」。
 特技:人命救助。
 趣味:人殺し。


「———連絡事項は以上。あと既に聞いてる人もいると思うが、近ごろウチの学校の区内で不審者の目撃情報が増えてるらしいから、部活動がある人も含めて、あまり遅い時間まで居残るんじゃないぞー。クラス委員」
「起立。礼」
 午後のホームルームを終え、特に部活動にも委員会にも所属していない私はそそくさと席を立って教室を出た。
 私は友達が少ない。嫌われているとか避けられているということはない。多分。
 私が嫌いなんだ。他人を。
 そんな友達付き合いの少ない私に声をかける奇特な男がいた。
「星華」
「………なに、タクヤ」
「もし用事がないならこの後お茶でもどう?」
「せっかくだけど、この後用事があるの。じゃあね」
 それ以上の言葉を交わさず、私は逃げるように昇降口を出た。
 もちろん用事なんて何もない。ただ気乗りしなかっただけだ。

 学校からの帰り道。特に理由も目的もないけれどなんとなく真っすぐ家に帰る気になれなかった私は、通学路を少し外れた場所にある噴水公園に足を運んでいた。平日の園内にはそれなりの人々がいて思い思いの時を過ごしていたが、その有象無象の中、園内を流れる水路沿いに私は自分と同じ制服を着た誰かを見つけた。
「その鳥、いま何したの?」
「えっ、あの、その、えっと………」
 両手に大事そうに何かを抱えるその姿は、数日前に私のクラスに現れた転校生のものだった。とはいえこの数日で特別彼女と深い仲になったわけでもないし、まだ業務連絡さえしたことがない相手だ。本来であれば見なかったことにしていたところなのだが、彼女の両手が遠目に見ても分かるほど“見慣れた”真紅に染まっていたことと、次の瞬間彼女の手から羽ばたき去った小さな野鳥に、私は声をかけずにはいられなかった。
「そんなに緊張しないでよ、鷲尾さん」
 慌てふためく彼女に私は言葉を重ねるが、彼女の目は依然泳ぎっぱなしで、動揺の波が鎮まる気配はない。
 鷲尾心美《わしおここみ》。数日前に私のクラスに転校してきた女生徒。名前くらいは憶えている。どういう人となりかは詳しく知らないが、この数日間で悪目立ちしたとか浮いた話を聞いた覚えはない。新しい環境に馴染めない大人しい性格なのか、私の知らないところで他のコミュニティと上手く馴染んでいるのかまでは分からないが、そう悪い人でもないのだろう。
「とりあえず、さ。その手、洗った方がいいよ。ああでもここからじゃ公衆トイレまでは遠いか。これで軽く拭いておこ」
 私は通学用鞄からハンカチを取り出して彼女に渡す。
「え、でも汚れちゃうし」
「洗って返してくれればいいから」
「………ありがとう」
 本当は自分のものを汚されるのは嫌なので彼女自身のハンカチを使ってほしかったのだけれど。

「私、人や動物の傷を治すことができるの」
 公衆トイレで手についた血を洗い流したあと、公園の噴水傍のベンチに並んで腰かけながら、鷲尾さんはぽつぽつと語り始めた。彼女が持つ“異能”について。
「はっきり自覚したのは小学三年生の頃。学校で飼っていたウサギをクラスメイトの男の子が遊んでる時に事故で怪我させちゃって。血まみれになって弱っていくウサギが見てて痛々しくて可哀想で、思わずその子を抱き寄せたんだ。そうしたら、さっきまであったはずの傷がどこにもなくて、衰弱して今にも死にそうになっていたのが何もなかったみたいに元気に跳ね回ってね」
 学校の皆に愛されていた飼育動物の命は一人の少女が起こした奇跡によって救われました、めでたしめでたし。
 とはならなかったのだろうということは容易に想像できた。社会というコミュニティの中で生きる人は、自分に理解できないことやイリーガルな存在を忌み嫌う生き物だから。
「私は周りから気味悪がられて、遠ざけられた。化け物だって呼ぶ人もいた。それからはもう、私の力を誰かに知られちゃうたびに引っ越しと転校を繰り返す日々だよ」
「転校して数日で私に見られちゃったわけだけどさ、鷲尾さんは力を隠そうとか思わないわけ?」
 力を使わずに普通に生活することだってできるはずだろうに。
 そう尋ねるが彼女は静かに首を振った。
「犬神さんが言う通り。そうなんだけどね。なんだけど、苦手なの私」
「苦手?なにが?」
「見ないふり」
 あぁ、この子は馬鹿だ。そう思った。
 誰にでも手を差し伸べて助けようとするその姿勢はきっと道徳的に正しい。でも正しさと利口であることはイコールじゃない。力あるものの責任―――ノブレスオブリージュっていうんだっけ―――なんて、力を持っていることを他人が知らないなら好き好んで背負う必要もないだろうに。
「犬神さんも、私のこと怖い?」
 彼女はそう私に尋ねた。何の期待も込めていない瞳でまっすぐこちらを見ながら。
「ううん、怖くないよ」
 馬鹿だとは思うけど。
 でも。
「だって、私もあなたと同じだから」
 仲良くはなれそうだ。


 深夜。人がいなければ車もろくに走らないこの時間は、本当に静かだ。人だけではなく街そのものが眠っているような気にさせられる。
 街が眠りに落ちたこの時間を、私は私の欲を満たすために使っている。
「………はは」
 街灯の灯りも遠い、闇に包まれたとある路地裏で、私の足元には血の海に沈む見知らぬ誰かの肉塊が転がっている。
 私がいま殺した。家のキッチンから持ち出したナイフで背後から急所を一突き。こんなことを昔から何度も繰り返しているせいで、人体のどのあたりを狙えば絶命させられるのか経験として分かるようになっていた。
 暗がりで顔さえろくに見えない中、私は肉塊の腕を掴んで確かに脈動が停止していることを確認する。
 ———スッキリした。
 ———あぁ、心穏やかだ。
 ———満ち足りている。
 ———私は特別だ。今も昔もこれからも。
 街で噂されている不審者―――通り魔、切り裂き魔とも呼ばれている―――の正体は、私だ。初めて人を殺したのは中学生の頃。いくつかの偶然と不幸が重なり学校でフラストレーションが溜まる出来事に見舞われた私は夜に密かに家を抜け出し、適当な通行人を選んで心臓を一突きした。手足を切り刻んだ。全身を滅多刺しにした。以来、日常で苛々することや暇を持て余したときには決まって誰かを殺してストレスを解消している。
 世間に露呈したことはない。というか、私は人殺しかもしれないが、命を奪ったことは一度もない。いや奪ってはいるが、奪ったものはその場で返している。
 肉塊をその場に捨て置いて、私は闇に紛れるようにしてその場を去った。
 それが息を吹き返す前に。

 物心ついた頃から、私にはある異能が備わっていた。
 失われた命を取り戻せる。
 既にある命を癒すわけじゃない。失われた命だけ。
 たとえば、車に撥ねられて骨折した人の怪我は治せないけど、車に撥ねられて死んだ人を生き返らせることはできる。手足が千切れ飛ぼうが常人なら致死量となる血の海に溺れようが、何も無かったみたいに綺麗さっぱりと(試したことはないが老衰とか寿命で死んだ人は無理だと思う)。
 人前で振るうことは決してないが、他人が持ちえないこの力の存在は私に全能感を齎すには十分すぎるものだった。私は特別だ。オンリーワンだ。誰よりもレアな人間だ。その気になれば他人の命を思うがままにできるこの異能。
 私には他人の生き死にを決める権利がある。
 だけど。
 ———まさか、私以外にも同じような力を持ってる人がいたなんて。
 鷲尾心美。同じようで私とは少し違う異能を持つ少女。
 私は失われた命を取り戻せるけど、彼女にはできない。
 彼女は今在る命を癒すことができるけど、私にはできない。
 力の用途が違えば使い方も違う。意識するようなことじゃないと思いつつも、やっぱり気になってしまう。私は今まで自分だけが特別なんだと思って生きてきたから。逆に言えば私以外の人間は全員下に見ている。私が他人を嫌う理由でもある。
 ひょっとすると私はずっと心の何処かで、私と同じ場所に立ってくれる存在を求めていたのかもしれない。
 そもそも私はとても自己中心的な人間なんだ。そう自覚している。喜びも楽しみも悲しみも辛さもすべて私だけのものにしたい。誰にも譲らない。私のものは私だけのものだ。そんな私が自分のことを誰かに話すなんて、滅多にないこと。ましてやこの天から与えられたギフトのことを。
 彼女ならもしかしたら。そう思わずにはいられなかった。


「ねぇねぇ鷲尾さん、この後みんなでカラオケ行こうって話してるんだけど、一緒にどう?」
「え!行きたい!」
「やった!」
 彼女と初めて話した日からいくらかの時間が過ぎた頃。私の視線の先にはクラスメイトに囲まれる鷲尾心美の姿があった。
 ———なにが“遠ざけられる”だ。
 まだ転校してさほど日が経っているわけでもないが、彼女はすっかり新しい環境に馴染んでいる。転校を繰り返してきた経験値の高さによるものか、彼女自身の生来の気質なのか。けれどなんとなく分かるような気もした。あの日話した時から分かっていた。彼女は馬鹿だが、正しい人間だ。彼女の邪気のない心みたいなものが自然と人を惹きつけるのだろう。
 私と彼女は同じはずなのに。どうして。
 そんなことを考えているうちにふと気が付くと、一人の男子生徒が私の席に来ていた。タクヤだ。
「星華は皆と一緒に行かなくていいのか?」
「代わりにあんたが行けばいいんじゃないの」
「可愛い女子の群れに野犬一匹飛び込む勇気はないよ」
「あんたの場合野犬というかポメラニアンって感じがする」
「ん?褒めてるのかい?」
「皮肉に決まってるでしょ」
「やれやれ」
 溜息と共にタクヤはどこかへ去っていき、入れ替わるように鷲尾さんが私のところに寄ってきた。
「犬神さん、さっきの人は?」
「別に。ただの知り合い」
「ねぇ、犬神さん。犬神さんも皆と一緒にカラオケ行かない?」
「遠慮しとく」
「そっか。来たくなったら来て。駅前のお店に皆でいるから」
「気が向いたらね」
 そう言いつつ、私は私の気がそちらに向くことは決してないと理解している。
 私が他人を受け入れることなんてありえない。そう、ありえないんだ。誰であれ。


「ねぇ、犬神さんはいつ頃から使えるようになったの、力」
 ある日学校からの帰り道を二人で歩いていたとき、隣にいた鷲尾さんがそう尋ねてきた。
「覚えてない。小学校に上がった頃にはもう使えてたかな」
 とはいえ、使う相手は学校のグラウンドで見つけた弱った虫くらいで、自分の力をはっきりと自覚していなかった当時の私は必死に天に祈っていたような気がする。「この子を助けてあげて」と。今にして思えばまだ力が未熟だったのか使い方が下手だったのか、どうなんだろう。
「そっか。でも犬神さんは凄いよね。死んだ人を生き返らせられるなんて、神様みたい」
「そうでしょ」
「謙遜しないんだね」
「だってその通りだし」
 私が特別であることは誰より私が理解している。この異能を除けば自己肯定感なら誰にも負けない。
「その力ってさ、犬神さん自身が死んじゃったときにも使えるのかな」
「え?」
 不意にそう聞かれ、私は返す言葉を失った。
 言われてみれば、そうだ。この力は私自身にも使えるのだろうか。いつか私がどこかで死んでしまったとき、私は私自身の意思で自分の命を取り戻すことはできるんだろうか?
「分からない」
「そっか。でも、うん。大丈夫。もし犬神さんが怪我するようなことがあったら私が助けるから」
 だって、と鷲尾さんは付け加える。
「犬神さんは、私の大事な友達だから」
 そう言われたとき、私の中に言いようのない感情が沸き上がった。鷲尾さんが私を助ける。彼女が、私を?
 ———許せない。
 そう思った。思ってしまった。私と同じく天に選ばれた彼女に。私と同じく特別な彼女に。私と同じ場所に立っている彼女に。
 けれどそんな怒りの感情すら、私の心は他人に譲ることを認めなかった。
「———期待してるよ」
 あなたが私を助けられるのは私が死んだ時じゃなくて、命を閉ざすまでの間に限った話だけど。
 ふと思い出す。そういえば私は昔に一度、命を落としかけたことがあるらしい。まだ物心つく前のことで私自身はまったく覚えていないのだけれど、交通事故に遭って生死を彷徨ったことがあると、両親から聞いている。この歳まで成長して、当時の傷跡なんかはすっかり見えないくらい治ってしまっているが。
 もしかすると私はその時に無意識に力を使っていたのかもしれないと、そう思った。
「あっ」
 隣にいた鷲尾さんの声につられて振り向くと、道の脇に力なく横たわる犬の姿があった。赤い毛並み、というわけではない。血に塗れている。大方、車道に出たところを車かバイクに撥ねられたのだろう。
「大変、急いで助けないと」
 やがて彼女の力で元通りに回復した犬はどこかへ走り去っていき、その背中を目で追う鷲尾さんはどこか満足げな表情を浮かべていた。
 もしも鷲尾さんが異能を持つことを誰かに話したとしたらどうなるだろう。そんなことを思いながら私は彼女の横顔を見つめていた。


「はぁ………はぁ…………」
 ここ数日、私のストレス発散という名の殺しは頻度を増していた。いくら切っても縊ってもバラしてもどうにも苛立ちが収まらない。
 苛立ちの原因は分かっている。鷲尾心美。
 私と同じように特別なのに、私より馬鹿なのに、私と違う。
 ―――私と違う。
 そう心で呟いたとき、苛立ちが諦めに変わったような気がした。私と鷲尾心美はある意味で同じだけど、決して相容れない。私と似た異能を持っていても、結局は彼女も同じように“他人”でしかないんだ。
 私達はきっと、本当の意味で心の底まで仲良くはなれない。
 ―――いや、それも違う。
 ———この気持ちはきっと。
 ———嫉妬。
 そうだ。私は鷲尾心美という存在が妬ましい。疎ましい。だって彼女はきっと。
「私よりも価値がある………」
 言葉にした瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。流れ落ちた涙は足元に広がる血だまりに吸い込まれ、波紋となって広がっていく。普段はどうしようもなく凪いでいるはずの私の心の動揺を絵に描いたようだった。
 力の優劣じゃない。それとは違う決定的な部分で私は彼女に劣っている。彼女とそれなりの時間を過ごすうちにそう痛感させられた。
 私は私さえよければそれでいいけど、彼女は違う。彼女はきっと、自分がどれだけ損をするとしても他人に手を差し伸べられる人間だ。他人を認めて、許せる人だ。そんなの性格や人間性の違いでしかないと言う人もいるだろう。でも、それでも私は決定的な人としての、命の格差を感じてしまう。
 ———嘘だ。私より価値のある人がいるなんて。
 ———一番は私だけ、私だけのはず。
 ———認めない。私の世界に、私より優れた人が存在するなんて。
 
 私の心はこの時決まった。


「なぁ星華、今晩空いてるか?」
 ある日の放課後、タクヤが私の元を訪ねてきてそう言った。
「空いてない。夏祭りに行く相手なら他の子を誘って」
「バレてたか」
「当たり前でしょ」
 朝から同級生たちが浮足立っているのを見れば分かる。
 まぁ、それは私もそうだ。なぜなら。
「私はもう一緒に行く相手決まってるから。じゃあね」
 タクヤをその場に残し、私は一人家路につく。一度服を着替えてから合流する予定になっている。
 鷲尾心美と。

「あ、犬神さーん」
 日が暮れた頃。待ち合わせ場所に指定したのは彼女と初めて話したあの噴水公園だった。昼間はそれなりに人の往来があるが、夜の公園は驚くほど人の気配がない。普段頻繁に夜の街を出歩いているから、人通りの少ない場所はだいたい分かるようになっていた。
「ごめんね、遅れちゃった」
「ううん、私もさっき着いたばかりだから。犬神さん、なんというか随分夜に溶け込んでるね」
「そう?」
 鷲尾心美は夏祭りらしい浴衣姿だが、対する私は黒のパーカーにスキニーといった出で立ちだ。私からすればいつも通りの格好なのだけれど。
「それより、ここに来ることは誰にも?」
「うん、言われた通り誰にも何も言わずに来たよ。犬神さんの言ってた、花火がよく見える隠れスポット、楽しみにしてる」
「期待してて」
 もちろんそんなのは方便だ。隠れスポットなんて私は知らない。
「じゃあ行こっか。確か花火が打ち上がる時間まではまだ余裕あるよね」
「ううん、もう時間はないよ」
「そうだっけ?じゃあ急いで―――」
 鷲尾心美が振り向いた瞬間に、私は隠し持ったナイフで彼女の胸を勢いよく貫いた。それは自分でも感心するほどに正確に胸の中心を突いていた。
「な—――」
 鷲尾心美の口から言葉にならない声が漏れる。間近に映るその表情には疑問と苦痛の色が満ちていた。
 私がナイフを引き抜くと、彼女の身体が糸に釣られた人形のようにふらふらと揺れ、やがて地面に倒れ伏した。
「あなたとは友達になれると思ったんだけどね」
「か、は………」
「でも、やっぱりダメみたい」
 —――私は。
「あなたのことが、好きになれない。認められない。許せない」
 ———だから。
「死んで」
 私は手にしたナイフを天高く掲げ、それを勢いよく振り下ろした。
 
 そこからは、あまりよく覚えていない。
 私は渇いていた。一度殺したくらいでは満たされなかった。だから何度も繰り返した。殺して、生き返らせて、また殺して、また生き返らせて、さらに殺した。
 切って、伐って、斬った。
 泣いて、鳴いて、哭いた。
 笑って、哂って、嗤った。
「はぁ、はぁ、はぁ………はぁー、は、ハハ、はははっ」
 気付けば、目の前に転がっている“それ”は、もはや人の形を留めていなかった。これを見て誰が人だと気づくだろう。鷲尾心美はもういない。私より価値のある人間はいなくなった。人ですらなくなったんだ。これで私は。私だけが。
「私が、特別なんだ………」
 そう空に向かって吐き捨てたとき、唐突に私の意識はそこで途切れた。
 最後に私の目に映ったのは、夜空に咲き誇る大輪の華。まるで天が私を祝福するようだった。


「う、うぅ………」
 目を開けると、知らない男の人の顔が見えた。
「………誰?」
「起きたか」
 歳はきっと同い年くらいだと思う。それにこの声はどこかで聞いた覚えがある。確かいつかの放課後に犬神さんと―――。
「ッ!!」
 彼女のことを思い出した途端に、反射的に身体が起きあがった。それは動物の本能みたいな動き。私の身体に刻み込まれた恐怖。
「大丈夫だ。犬神星華はもういない。この世の何処にも」
「え?」
 私を覗き込んでいた男の人がそう言った。
 改めて声の主を確かめる。その姿はやはり、以前ニアミスしたことのある相手だった。
「落ち着いて。もう大丈夫だから」
「———あなたは?」
「俺はタクヤ。鷹原拓弥《たかはらたくや》。星華のちょっとした知り合いだ。いや、知り合い“だった”かな」
「何があったの。私、確か犬神さんに………」
 殺された。それも何度も。死んで意識が途切れて、また意識を取り戻しては殺されるの繰り返し。あの痛みと恐怖は、決して夢なんかじゃない。思い出すだけで、もう—――。
 思わず私が両手で身を寄せると、鷹原さんが寄り添うように背中を擦ってくれた。
「怖かったよな。痛かったよな。助けるのが遅れた。ごめん」
「助ける………?」
「どこから説明したらいいかな。俺もな、あんたや星華と同じなんだ」
「同じ?それって」
「俺は傷ついた人を治せるし、死んだ人を生き返らせることもできる。こう言うと嫌味っぽく聞こえるかもしれないが、あんたと星華ができることを俺は一人でできるってことだ」
「私と犬神さんの他にもいたんだ、そういう人。でも、それって犬神さんは」
「あいつは知らない。話してなかったからな。あいつの性格的に、話したところで受け入れてくれるとも思えなかったし」
「どういうこと?」
「えーっと」

▼▼▼

 俺が犬神星華と知り合ったのは中学生の頃だ。

「ん………、ここは………」
「目が覚めた?」
「いぬがみ、さん?俺どうして—――うわぁ!?」
 気付くと自分のすぐ傍に血まみれの誰かの死体があった。赤黒い鮮血は俺の身体にも付着している。
 そのすぐ傍に立つ犬神星華の手には、鈍く光る刃物が握られていた。
「犬神さんが、やったの?」
「うん。でも、君を殺ったのはこの人だよ」
「え?」
 そうだ、確か俺は友達の家から帰る途中で、何か、凄い痛みが身体を襲って意識が途切れた。
「不審者が目撃されてるって学校で先生が言ってたけど、この人が犯人だったみたいだね」
「じゃあ、犬神さんが助けてくれたの?」
「そうなるね」
「そっか、ありがとう」
「いいよ、ただの気まぐれだから。その代わり、この事は誰にも言わないこと。いい?」
 言葉にも表情にも俺に対する慈悲なんてものはなかった。本当にただの気まぐれだったんだろう。
 俺に不思議な力が備わったのはちょうどその頃だった。

 犬神星華のことを、俺は好きになりたかった。
 いつもクラスの輪から外れて一人でいる彼女のことを、ずっと見ていた。
 彼女が俺の手にした力と同じものを持っていて、人知れず殺人に手を染めていることを知って、少しずつだが会話することが増えるうち、彼女がどういう人間なのかを徐々に理解していった。彼女がこれ以上なく自分を特別視し、それ以外をなんとも思っていないと悟ってもなお、俺には彼女を咎めることも、止めることもできなかった。
 彼女がどんな人であれ、俺の命を救ってくれたことには変わりないのだから。
 だから決めた。
 俺が彼女を見限るのは、彼女が本当の意味で人を殺そうとしたときだと。

▲▲▲

 公園から遠く離れた人気のない街路樹傍のベンチに並んで腰かけながら、私は彼の話に耳を傾けていた。
「———とまぁ、そんな感じ」
「だいたいは分かった。それで、犬神さんは」
「………俺が殺した。まぁ、切り裂き魔がやったってことになるんじゃないかな。因果応報ってやつだね」
 そう告げる鷹原さんの表情にはどうしようもないやるせなさや複雑な未練が見てとれた。意図はどうあれ、一度命を救ってもらった相手だもの。彼自身、そうせずに済むならそうしたかったのだろう。
「でも犬神さんと同じことができるならまだ助けられるでしょう?お願い、犬神さんを助けてあげて!」
「自分を何度も殺した相手だっていうのに優しいねぇ。でも助けない。最終的に死なせていなかったとはいえ、あいつは自分のためだけに関係ない沢山の人を手にかけてきたんだ。今回あんたを本気で殺そうとしてるのを見て、もう看過できないって思ったよ。何より、あんたの頼みで俺が助けたと知ったときに星華自身がそれを受け入れない。プライドを傷つけられたあいつが今回と同じかそれ以上にヤバいことをするのは想像に難くないしな」
 彼の言葉には説得力があった。つい先刻あのような目に遭ったというのもあるかもしれない。
「まぁ、あいつが本当に特別だっていうなら、自分の意志で蘇るんじゃないのか?知らないけど」
 鷹原さんはそう吐き捨てたあと、寂しそうに一言付け加える。
「あいつとは、友達になれると思ったんだけどね」
「———私も」
 私だってそうだ。いろんな場所を転々として、初めて見つけた同じ異能を持つ人。仲良くしたかった。力の優劣なんて関係なく、私にとっては“特別”な相手だったんだ。
「そういえば鷲尾さん。つかぬことを尋ねるんだけど、昔どこかで命を落としかけた経験はあるか?」
「え。うーんと、あるっちゃある、かな」
 唐突な質問だったが、経験はある。幼少の頃の私は病弱で、一番ひどい時期には病院の集中治療室のお世話になっていたと聞いている。ある時期を境に体調が徐々に回復して今は健康そのものだけど。
「やっぱりか」
「やっぱり?」
「昔、星華にも聞いたことがあるけど、あいつも似たような経験があるらしい。俺も通り魔に襲われて一度死んでるし。きっとさ、俺たちの力ってそういうことだと思うんだ」
「そういうって、どういう?」
「俺たちは一度死の淵から生還して、命の尊さを知っている。その重さや儚さも含めて。神様なんてものがこの世にいるのかは知らないけど、俺達にこれが与えられたのはその証明みたいなものなんじゃないかな」
「………」
「正直な話、命に優劣はあると思う。星華が自分を特別だと思っていたように。けど、無価値な命なんてものもこの世にはないはずだ。虫だろうが動物だろうが人だろうが決して軽んじちゃいけない。もし不要な命なんてものがあるとするなら、それは他の命を軽んじるヤツのことだ、星華のように」
「———うん、そうかもね」
「さて、と」
 一息ついてから徐に彼が腰を上げた。
「今日のところは帰るといい。さすがにもう祭りも終わってるみたいだし」
「そうするよ。———ねぇ、鷹原さん」
「タクヤでいい。何?」
「私達は友達になれるかな」
 私の質問に鷹原さんは一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに口角を上げて答えた。
「そうだな。あんたとは、とりあえず星華よりは仲良くなれそうな気がするよ」
「私も」
 だって私達は互いに知っている。
 命の価値を。

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