君と僕の知らない物語 第3話、あるいは第1話

 子供の頃に母の遺骨を墓へ納めに行ったとき、雨が降った。その日の天気予報は晴れ。雨が降るとは家族も親戚も誰も思っていなかった。母の実家の前を車で通りかかった時にだけ、雨が降った。ほんの少しの間だった。ほんの十数秒程度の時間。その時僕は、これは雨ではなくて死んだ母の涙なのだと思った。
 以来雨を見るたびに悲しくなるのは、母を思い出すからではない。
 誰かがどこかで泣いている。そう思うからだ。

「傘、よかったらどうぞ」
「えっ?」
 横断歩道の赤信号で待ちぼうけを喰らっていた時、雨が降り始めた。何呼吸かするうちに雨はたちまち大粒に変わった。所謂ゲリラ豪雨。それまで見ていた空の青を疑っていなかった通行人たちは大勢いて、皆が手や鞄を頭の上に置いていた。そんな中で僕がたまたま隣に立っていた彼女に傘を差しだしたのは傍から見て不公平に見えたかもしれない。しかし僕の持っていた傘は大きめのサイズと言っても周囲の人すべてを雨から守れるほど広くはない。人ができることには何事も限界がある。たまたま雨に打たれる彼女が隣に居て、僕が少し大きめの傘を持っていた。彼女に声をかけた理由は本当にそれだけ。
「ここの近くなら送りますよ。せっかく綺麗な格好しているのに雨に濡れちゃ大変だ」
「いえ、大丈夫です。近くのコンビニで傘買うので」
「“近くなら”って言ったじゃないですか。コンビニまで送りますよ」
「分かりました、それじゃあお言葉に甘えます」
 普通に考えれば知らない男に傘を差されて警戒しない女性はいないだろう。そのくらいは僕にも理解できる。でも雨に濡れる女性を放っておくことも後味が良くないのだ。見知らぬ相手だとしても。
 それになんとなく、雨に打たれる彼女の顔が悲しそうに見えたから。
 僕らは道中これといって会話することもなく、数百メートルほど歩いた先にあったコンビニで別れた。去り際に彼女は本当にありがたがっていそうな笑顔で「本当にありがとうございます」と言っていた。
 僕もこれといって彼女に深い感情は持ち合わせていなかったし、ただ『彼女が雨に濡れなくてよかった』としか思わなかった。

 彼女と街中で偶然再会したのはそれから約二週間後のこと。
 その日はよく晴れた暖かい一日だった。仕事が休みだった僕は家に居るのも落ち着かなくて、かといってこれといった目的もなく街を歩いていた。最寄駅からほど近い公園のベンチに座ってぼんやりと芝生のスペースで戯れる家族連れの姿を見て、それにもそろそろ飽きてきた頃に彼女が現れた。今度は彼女の方から声をかけてきた。
「あの、もしかして先日傘を貸してくださった方ですか?」
「?―――あぁ、あの時の」
 その時点で彼女のことは忘れかけていた。もう二十代も後半に差し掛かっているが、昨日の朝食のことだって覚えていられなくなっている。前職で一緒に働いてそれなりに仲良くしていた同僚の名前さえ思い出せなくなっているのだ。だから二週間も前に会っただけの彼女のことをまだ覚えていられたことが自分でも少し嬉しかった。
「良い天気ですね。今日はさすがに雨に打たれる心配はなさそうでよかった」
「はい。先日はありがとうございました。今日はお休みなんですか?」
「見ての通り、公園の家族連れを見ながら一人孤独を噛みしめていますよ」
「なんですかそれ」
 クスクスと彼女が笑う。あの雨の日に感じた寂しい何かは微塵も感じさせない表情だった。
「私も今日はオフなんですが、友達にドタキャンされて予定が白紙なんです。よかったらランチでも付き合ってくれませんか?この前のお礼も兼ねて」
「せっかくですが、お断りします」
 そう言うと少しだけ彼女の表情が曇った。『私の誘いを断るなんて』『ここは乗る流れでしょ』とか、そういう気持ちが透けて見えるような気がした。
「さっき、近くでお昼を済ませてきたところなんです。なので、軽いものでよければ」
「そうでしたか。分かりました。むしろそれは私も都合がいいです。小食なので」
 我ながら意地の悪い対応をしてしまったと反省する。雨に打たれる女性に傘を差した男のすることではなかった。
 近くのカフェに入って、彼女と当たり障りのない話を沢山した。お互いの根深い部分には触れないような、ただ時間を潰すためだけの会話を。彼女は歯科衛生士で、近所のクリニックに勤めている。年齢は二十八歳で僕より一つ年上だった(年齢は彼女の方から言ってくれた)。独身で今交際している男性はいない。好物は甘いもの全般だが特にマカロンが好き。嫌いなものは牛乳だがチーズやヨーグルトといった加工されたものなら平気だそうだ。
「歯医者さんなのに甘いもの好きなんですね。虫歯の経験は?」
「ないですよ。身体は昔から丈夫とは言えませんでしたが歯だけはずっと健康。歯並びも生まれつき整ってて羨ましいって言われるくらい」
 フラットな視点で見ても彼女は特別容姿が優れているというわけでもなかったが、自身で言うように歯は本当に綺麗だった。この世界に歯並びフェチという性癖を持つ男性が存在するのかは分からないが、そんな男が彼女に口で愛撫されたならきっと常人には理解できないエクスタシーを覚えるのだろうと思うほどに。
「手のそれ、綺麗ですね」
「えっ?」
 会話の途中彼女にそう言われ、一瞬何のことかと思ったがすぐに何のことか思い至った。
「小指に指輪ってちょっとお洒落。主張しすぎないけど目を引く感じが好きですよ私。もしかして昔の彼女のプレゼントだったり」
「残念ながらそういう品ではないですよ。学生の頃からなんとなくつけてるだけで」
「ふぅん」
 それっきり彼女は指輪のことには興味を無くしたように、他のことについて語り始めた。
 この指輪は母の形見の品だ。
 別に今わの際の母に託されたとかそういうものではなく、死後しばらく経ってから母の遺品整理をしていた時に実家のタンスの中からたまたま見つけたもの。父は「きっと若い頃に着けていたものだろう」と言っていた。宝石も付いていない飾り気のない指輪だ。捨てるのもなんだかもったいない気がして、以来ずっと自分の小指に納まっている。母の死からもう随分と時が経ってしまって悲しみも寂しさもどこかに忘れてきてしまったが、当時はこれを身につけているときはどこか母に守られているような感じがしたものだ。
 優しい忘却を経て母の死を乗り越えた今となっては、母がこの世に存在していたことを示す証拠品の一つでしかなく、慰霊碑や記念碑程度のもの。ただ昔からの習慣が抜けなくて今も嵌めているだけだ。
「——さん。——さんってば」
「え?」
「ボーっとしてどうしたんですか。私の話、聞いてました?」
「あ、すみません。ちょっと考え事を」
 既にこの世を去った母に思いを馳せていたと正直に告げるほど彼女との仲が深まったわけではないので曖昧な回答をしておいた。
「もう、女性が勇気出して連絡先交換しようって言ったのにひどい。やっぱりやめておこうかな」
「本当に怖くても勇気を出した人は『勇気を出した』ってわざわざ言葉にしないと思いますけどね」
「あ、またひどいこと言った」
 こうして僕と彼女は“友人”になった。
 お互い近所に住んでいて物理的にも距離が近かったということもあって、心の距離が近くなるのもそう時間はかからず、何度目かのデートで僕たちは寝た。僕個人は歯並びに対するフェチズムは持ち合わせていなかったが、彼女のフェラチオはそれまで付き合った女性の中では一番興奮したと思う。
 二人でベッドで横になりながらやはり僕たちは当たり障りのない話をした。
「ねぇ、口で舐められるのって結構勇気が要ると思うんだよね。される側は」
「どうして?」
「もし相手が本心では自分に恨みや敵意を持っていたとしたら、大事なところを食いちぎられたりするかもしれない」
「かもね。でもそれは何事もそうじゃない?」
「例えば?」
「私が普段仕事で患者さんの口の中を診ているときとか、その気になれば簡単に器具で口蓋を刺したりできるわけでしょ?」
「歯医者さんがそんな気持ちで施術していると知ったら、そのクリニックに患者さんが来なくなるね」
「思うだけよ。そんなことしたら捕まっちゃうし」
「でもそうだね、君に口の中を見てもらうのは少し興味があるな」
「本当に刺されたいの?実はひょっとしてMだったり」
「キスするときに舌を絡めたり唾液を交換するのと似てる気がするんだよね、歯医者で口を診てもらうのって。口の中って普通は他人に大っぴらに見せるものじゃないだろう?」
「つまり歯の医療行為はアソコを見せたりセックスするのと同じってこと?そんな心持ちで来る患者さんが居ると思うと診る気しないなぁ」
「思うだけだよ。そんなこと面と向かって言ったら捕まっちゃうし」
「もう私に言っちゃってるのに」
 そう彼女は笑い、そして僕たちはもう一度抱き合った。
 僕は彼女のことが嫌いではなかったし、彼女もフェラするとき僕のペニスを噛みちぎらない程度には僕を好いてくれていたんだと思う。
 でも、お互いにお互いのことをちゃんと知るにはまだまだ時間が必要だった。たとえば、彼女が僕のピンキーリングが母の形見であるのをまだ知らなかったのと同じように、僕も彼女について知らないことは沢山あった。
 最初に会った雨の日、彼女の表情が曇っていた理由も。

 彼女と友人になった日から数ヵ月が経つ頃には僕たちは互いの家を行き来するようになっていた。週末にはどちらかがどちらかの家に泊まることも多くなり(週末に限っては僕が彼女の家に泊まることがほとんどだった)、一緒のベッドで眠った。
 その日の夜、いつものように二人で眠っていた時に彼女が目を覚まして突然泣き始めた。隣で眠っていたのでそれにすぐ気づけたのは幸運だった。
「どうしたの?」
「弟の、弟の夢、見ちゃった」
 彼女は自分より年上だということを忘れるくらい子供のように暫く泣きじゃくり、僕はただ彼女を抱きしめて背中や頭を手で擦ってやることしかできなかった。
 しばらく経ってようやく落ち着き始めた頃に、彼女は少しずつ語ってくれた。自分に一つ下の弟がいたこと。既にこの世にはいないこと。弟は仕事のストレスが原因で自殺したこと。僕たちが最初に会った雨の日が弟の四十九日の翌日だったこと。
「私お姉ちゃんだったのに、家族だったのに、弟が苦しんでることに気付けなかった。何もしてあげられなかった。弟もきっと『なんて役に立たない姉だ』って思ってる。本当、嫌になるよ。弟を見捨てて私だけが今も生きてるなんて」
 その話を聞きながら僕は、彼女と最初に会った日のことを思い出した。彼女のことというより、あの日降っていた雨のこと。そして雨と一緒に、自分が子供の頃のことを思い出す。母が死んだときのことだ。骨壺に納まった母を墓地へ連れて行った日。あるいは置いて行った日のこと。あの時も少しだけ雨が降った。
 彼女と出会った日に振っていた激しい雨は、誰の涙だったのだろう。彼女か、彼女の弟か。それとも全く違う誰かのものか。
 耳を澄ますと、部屋のカーテンの奥の窓の向こうから降りしきる雨音が聞こえる。今も雨は降っていたらしい。
 やはり、雨は嫌いだ。
 最初の出会いの時に降った雨は一緒に傘を差してあげられた。今の彼女の心に降る雨は、濡れないように彼女を守るにはどうすればいいのだろう。
 僕が子供の頃に母を失った時は、どうやってそれを乗り越えた?
 ———そんな方法、なかっただろう。
 当時の僕は悲しみという雨に対して、何もしなかった。雨に濡れて、ただじっと耐えて待っていたんだ。雨が止むのを。僕は目の前で悲しむ彼女に対して、あの日のように傘を差してやることはできそうにない。
 だから、僕はもう一度ぎゅっと彼女を抱きしめた。
「………なに?」
「僕は、君に何もしてやれない」
「うん………そうだよね」
「だから、ずっと傍にいる」
「え?」
「君が泣き止むまで傍にいる。傘が無いとき雨に打たれるのは寒いけど、誰かと一緒にいれば暖かいでしょ」
「………うん」
 僕たちは夜が明けるまで、まるで冬眠中の動物が巣に籠もっている時みたいにじっと固まってただ抱き合い続けた。
 朝日が昇る頃には、降り続けた雨は上がっていた。
「ねぇ、これあげる」
「ん?」
 僕は手に嵌めていた例の指輪を彼女の左手の小指に嵌める。サイズはちょうど良かった。自分が痩せ型で良かったと思う。
「それ、もう要らないから」
「なにそれ。私廃品回収車じゃないよ?」
「お母さんの形見なんだけど、君にあげるよ。もう必要ない」
「え、そうだったの。だったら尚更受け取れないよ」
「いいんだ。もうとっくに僕の雨は止んだし、それに—――」
 僕は指輪を嵌めた彼女の手を両手でできるだけ優しく握った。
「これからも君の傍に居ていいなら、どっちが持ってても問題ないだろう?」
 そう言うと彼女は一瞬きょとんとした顔を見せて、やがて少し意地の悪い笑みを浮かべた。
「つまり、何が言いたいのかな。ちゃんと言ってくれないと分からない」
 彼女にそう言われて、はたと気付いた。もう何度もデートしてキスもして身体も重ねていたというのに、僕たちのどちらもこの言葉を告げていなかったことに。
「好きだ」
 彼女は優しく笑って、掴む僕の両手の上から空いた右手を重ねた。
「私も」
 こうして僕と彼女は“恋人”になった。


「ごめんなさい!」
「えっ?」
 結婚式場の下見に行った帰り道に寄ったレストランで、婚約相手が急に頭を下げてきたとしたら、大抵の人間はどういうことを想像するだろうか。『実は他に好きな人がいて』とか『親が今頃になって結婚に反対して』とか。考えられる最悪のパターンはいくつかあるだろう。
 けれど幸いにも次に彼女の口から出てきた言葉はそのどれとも当てはまらない内容だった。
「前に――から貰った、お母さんの形見の指輪、無くしちゃった」
「ん?あぁ、あれ?」
 彼女と同棲を始めて既に一年以上過ぎているけれど、言われるまでその指輪のことは忘れていた。自分の所有物ではなくなったというだけでそうなるんだ、人間というのは。
「本当にごめんなさい、大事なものを私………」
「そんなに気にしないでよ。確かに少し寂しい気もするけど、落としちゃったものは仕方ない」
「でも………」
「ねぇ、左手小指に着ける指輪の意味、知ってる?」
「え?」
 彼女と出会った時点ではただの記念碑程度のものだった指輪を嵌め続けていたのは、それまでの習慣だったというのもあるが指輪によって嵌める指に意味があるというのを知っていたからだ。
「左の小指に嵌める指輪は“チャンスや幸運を掴む”って意味なんだって。あの指輪も君に運気を届け終わって次の人のところへ行ったんだよ、きっと」
「———うん、そうかもしれないね」
 ようやく彼女が笑った。いつ見ても口元の歯並びが綺麗な、良い笑顔だ。
「その代わり、この前渡した方のは落とさないでよ」
「もう、意地悪。でも、うん。落とさないよ、絶対」
 そう言う彼女の左手の薬指には、自分が嵌めているのとお揃いの指輪が煌いている。
 窓の外に視線を送ると、街の雑踏が見てとれた。もしかしたらあの中に落とした指輪を拾った人がいるのかもしれない。でも届けて欲しいとは思わなかった。僕たちはもう、十分に幸せを貰ったから。
 窓の外の景色に雨は見えなかった。きっと明日も良い天気になるだろう。不思議とそう思えた。
 やっぱり僕は、晴れが好きだ。

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