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It's a Truth World

 一度読んだ小説を読み返すことは二度となかった。
 何も小説に限った話じゃない。テレビドラマ、映画、アニメ、ゲーム。思えば交友関係についても同じことが言えるかもしれない。とにかく僕は一度終焉を迎えたものに未練を残さない性分だった。そうだと思っていたのに。

 一期一会という言葉がある。出会いは一生に一度のものという意味だが、いろんな人が意味をきちんと調べたこともないのに使い倒しているその言葉が、僕はあまり好きではなかった。それが世の中で流行っているものと知ると途端に興味を持たなくなる人種が存在するが、きっと自分もそれにカテゴライズされるのだろう。理由はともかく僕は一期一会という言葉が好きではない。
 なので、ここでこの出会いを言葉で表現するのに使うのは『一期一会』ではなく、『合縁奇縁』とさせてもらいたい。意味を知らない人は各々調べてほしい。
 小さい頃から人並みに本は好きだったし、休日に特に予定がない時は近所の書店に行って新刊のコーナーを物色する程度には読書家だった僕だが、その本はそれまでに読んだ他の物語とは決定的に何かが違っていた。作者の文章力が既出の作家のそれとは明確に一線を画するものだったとか、物語の内容が過去前例のない斬新さに溢れていたとかそういう意味ではない。どう言葉で表現すれば伝わるか判断に迷うが、端的に言うとするなら“相性が良かった”、ということになるのだろうか。
 タイトルと表紙のデザインに惹かれてたまたま手に取ったその本に書かれていたのは、孤独な物語だった。現実とも違う、時間という概念すら失われたどこかの世界で、幻想的な風景が見渡せる無人駅のホームで一人、何かを待ち続ける少女の物語。
 最初に読んだ時、この物語を知っているような感覚に襲われた。夢中になって読み進めるうち、“知っている”とはまた違うのだと気づく。
 知っていたのではなく、願っていたんだ。
 こんな物語が、こんな世界があればいいのにと。
 これは初めてその本を読んでから少し後になって気付いたことだが、それまでの僕が一度読んだ小説を二度と読まなかったのは、一度読んでしまうことで“そこに自分の求めるものは無かった”と知っていたからなのだろう。そこに無いと分かっているものを繰り返し探すことほど虚しいことはない。だが求めている“それ”が具体的に何なのかを言葉でうまく表現することもできず、“自分はそういう性分なのだ”と思い込むことで片づけていたのだ。
 だがその本には僕の求める何かに限りなく近いものがあった。そして自分でも上手く咀嚼できていなかった“何か”の正体が“世界”だったのだと、この本と出会うことではっきりと認識できた。
 思い返せば、物心ついた頃から僕は僕という人間を取り巻くすべてのものに対して言い知れぬ“ズレ”や“歪み”のようなものを感じていたと思う。決して不自由や不幸を被ってきたわけではないし、それなりの数の友人もいて家族仲も良かったが、決定的な部分で自分がこの世界に溶け込み切れていないという、漠然とした疎外感。どこかでボタンを一つ掛け違えているような、向いていない仕事に従事しているような。
 その本の世界にはただ一つのボタンのズレも、僅かな歪みも感じなかった。自分の向かうべき場所は、存在すべき世界は“ここ”なのだと、確信した。
 その日僕は初めて、終わった物語をもう一度読み返した。
 幸福とはどういうことなのかを本当の意味で理解できた気がした。

 その本と出会ってから、僕の生活は徐々に変わっていった。端的に、読書の時間が増えた。学校から家に帰って最初にするのは宿題でも予習でもなく、机の引き出しに仕舞ってあるあの本を開くこと。他の本と同じように本棚に置かなかったのは、その本が特別なものだということを目に見える形で示したかったからなのかもしれない(示す相手などいないが)。勉強などそっちのけで本の中の世界に没入した。既に結末を知っている物語のページをめくり、文章を一行一行繰り返し自分の中で咀嚼するのがこんなにも充実感を伴う行為だということを僕は十数年生きてきて初めて知った。それは十歳を過ぎた頃に精通を経て覚えた自慰のそれを遥かに上回る多幸感をもたらした。本を開いてそこに書かれている文章に酔っている間、僕の心は実際に訪れたことはないがどこか懐かしさを覚える知らない世界に居る。世界の全てが水の中に沈み(深さは分からないが僕のイメージするそれは水たまり程度の浅さだ)、絶海の孤島のように水面から顔を出しているコンクリート造りの電車の無人駅のホームだけがそこに在る。朽ちかけているホームにはこの世界ではもう降ることもないであろう雨風を凌ぐための簡易的な屋根と、来るはずのない電車を待つ人のための塗装の剥がれた小ぶりなベンチが備え付けられていて、物語の主人公である少女はそこに座ってただ黙して待つのだ。
 全てが終わった世界に一人残された少女が待っているもの。物語の中でそれは“希望”と語られている。そして少女は待つことそのものが“希望”であり、自身にとっての幸福と語る。意味を成すものが何も存在しない、命あるものが自分以外に誰もいない世界で“希望”を待つその少女を、僕はなんて美しいのだろうと思う。僕の人生には、言葉で具体的に実感を持って表現できるものなんて最初から要らなかったんだ。
 学校で友達と些末な話題で笑い合うこと。
 家で両親と囲む暖かい食卓。
 どこにでもある何気ない、尊い時間。けれど僕はずっと、自分が求めているものはこれではないという筆舌に尽くしがたい小さな違和感を覚えていた。
 自分がいるべき場所は、ここではないと。

 学校でクラスメイトと肩を並べて授業を受けているとき、黒板に書かれた文字をノートに写しているときも僕の頭の中はあの本のことでいっぱいだった。学校に本を持っていこうかとも考えたが、結局は見送った。学校という人の多い場所であの本の世界を覗くことは没入感を大きく損なうだろうと思ったからだ。この幸福を貶めるような真似はしたくなかった。あの世界は、一人で浸るのが一番だ。
 少しでも本を読む時間を増やしたくて、僕はそれまで入っていた部活を辞めた。バスケットボール部。元々体力づくりのためになんとなくで入部したところだったし、試合でスタメンに入れるほど才能があったわけでも僕の不在が大きく周囲の迷惑になるようなこともなかったので、顧問に多少引き留められはしたが割とすんなり去ることができた。
 授業が終わると僕はまっすぐ家に帰り、母への帰宅の挨拶もそこそこに二階の自室に足早に駆けあがり、鞄をベッドに放って机の引き出しに仕舞ったあの本を手に取る。家に帰ってすぐに本を見ないと落ち着かないようになっていた。僕の心とか魂とか精神みたいなものはゆっくりと、しかし確実にこの本に記された世界に誘われていて、少しずつ現実との境を曖昧にし始めている。現実世界で学校に通い、家で家族と過ごす時間よりも、部屋で独り本のページをめくり、その中の世界に心を委ねることの方が僕にとっては“生きている”という実感を与えてくれていた。
 今日も僕は机に置いた本の表紙を静かに、初めて一緒に寝る女の子の身体を扱うように開き、そこに刻まれた文章の連なりから僕にとって理想的で完全なあの世界を想像する。もはやこの作業は『想像』ではなく『創造』と言ってよいものだった。僕は本という媒体を通じて僕の中にもう一つの世界を構築していた。そう考えると随分シンプルな世界だ。なにしろ見渡す限りの広い水たまりと古びた無人駅のホームに、あとは残りの空白を空の色で塗りつぶすだけだ。空の色は青と赤の入り混じった、夜明けとも夕暮れともつかない曖昧な色。曖昧な方がいい。すべての事象に道理を与えてつまびらかにするのはナンセンスだろう。そしてケーキに苺を乗せるように、駅のホームには女の子が一人いる。これで完成。これでいいんだ、僕の求める世界は。
 そして僕の心とか魂とか精神みたいなものはその世界にたどり着き、駅のホームに座っている少女の隣に在る。そこに在るだけで、何も生まないし何もできない。でもそれでいい。それで十分だ。
 その夜、僕は夢を見た。


「ねえ」
 そこはいつも僕が没入しているあの本の世界だった。見渡す限り大地が水に隠れ、水平線を境に上に広がる空のキャンバスの色は青とも赤ともつかない。僕が立つのは水の世界にポツンと佇む廃駅のホーム。まるでここだけが水に嫌われているかのように。そして僕の隣には、あの少女がいた。それまではただ彼女の存在を心に“創造”するだけだったのに。
「ここで待つようになってからどのくらい経ったんだろう」
 分からない。彼女が言っているのは彼女自身のことなのか、僕と彼女がここで待つようになってからなのか。そもそも僕はいつから彼女とこの場所にいたのだろう。あの本を最初に買って読んだ時から?それともこの夢が初めてなのか?
「あなたはずっとここにいるよ」
 ずっと?
「そう、ずっと。昔も、今も、この先も」
 今も、昔も、その先も。
「それがあなたの幸せなんでしょう?」
 そこで少女は初めて僕の方を向いた。あの本の表紙や挿絵に描かれていたのと寸分違わない、むしろそれ以上に美しく見える。自分の中で一枚余計なフィルターを挟んでしまっているのだろうか。いや、むしろこれが彼女本来の姿で、あの本の絵は彼女の美しさを表現しきれていなかったのかもしれない。どちらでもいい。僕にとっては今目の前にいるのが本物の彼女なんだ。
 幸せ。僕の幸せ。この何もない、何も生まれない世界にいることが。
 彼女の言葉を否定する要素は何一つ存在しなかった。
「またね」
 僕の意識が眠りから遠ざかる前に、彼女がそう言ったような気がした。


 朝になって目が覚めると、自分がひどく間違った場所にいる感覚に囚われた。
 もはや僕にとってはあの夢で見た場所が、あの本を読む時に思い描く景色こそが本物であり現実であり真実の世界なんだ。
 早く、この夢から醒めたい。切実にそう思った。
 その日僕は久しぶりに、仮病で学校を休んだ。


「たとえば」
 廃駅のホームでベンチに座る君が、遠くの水平線を見つめるまま口を開いた。
「ここで命が尽きるまでずっと何かを待ち続けたとして」
 うん。
「何も来ないままだったとしたら、それまでここで待ち続けたことはすべて無意味だったと思う?」
 そうは思わない。だって待っている間は、これからが確定してないから。待っている間は、何も分からない。分からない、知らないということは時に罪かもしれないが、人に迷惑をかけない事柄であれば時にそれは幸福ともいえるだろう。何も分からないままでいいんだ。僕は。
「じゃあ、君は他に何も求めない?」
 強いて言えば、変わらないことを求めている。だからここが好きなんだ、僕は。
「私も」
 知ってる。あの本で君がここで待ち続ける姿をもう何度も繰り返し見てきたから。
「違うよ」
 違う?
「あなたは生まれたときからずっとここにいた。それに気づいていなかっただけ」
 そうなんだろうか。
「そうだよ」
 君が嘘をついているとは思わない。でもそうなると、僕がそれまで生きてきた世界は何なんだろう。
「こことは別の、でもとても近い隣り合った世界。たとえば、ここは卵の殻の中。あなたが居たのは殻の外になる。もしかしたら中と外は逆かもしれない」
 随分脆い例えだね。たとえば卵の殻がもし割れたらどうなるんだろう?
「きっと、二つの世界はぐちゃぐちゃに混ざり合っちゃうんだろうね。うまく想像できないけど、きっと、君が望む安心とか永遠みたいなものはどこにもないんじゃないかな」
 たとえば、君と僕以外の人がこのホームに来る?
「うん。それは私達にとって“希望”かもしれないし、“絶望”かもしれない。私にも分からないよ」
 君は、いつかここに何かが訪れることを望んでいる?
「———このまま何も訪れなくても構わない、という気持ちはあるかな」
 知ってる。君にとっても、ここで待ち続けることそのものが“希望”だということ。
 多分、生まれたときから僕は知っていた。


 おそらく卵の殻の外となる、両親が居て、友達が居て、コンクリートの固い地面を騒々しい車が我先にと走り回る世界を認識するたび、僕の心はひどく摩耗した。以前までよりズレや歪みが大きくなっていると感じる。とにかく気持ちが落ち着かない。自室に籠もり、あの本を開いて彼女との変わらない穏やかな時間を楽しみたい。殻の外にいるとき、僕はただ黙して目を閉じ耳を塞ぎ、なるべく周囲の存在を意識しないように耐えることしかできなかった。
 最初に僕という存在の意識が目覚めたとき、それがどうしてこちら側の世界だったのだろうかと恨めしく思う。僕はどちらの世界にも居られたはずなんだ。それこそ料理に使う卵を取り違えるのと同じくらいのほんの些細な手違いで、僕は最初にこちらの世界に目覚めてしまった。
 僕はひよこみたいに卵の殻を破って目覚めたくはなかったんだ。
 ずっと、卵の中で小さく温まっていられればそれでよかった。
 果たして僕は今日、一体どれだけの人と言葉を交わしたんだったか。よく覚えていない。殻の外にいるときも、僕の心は殻の中にあった。


「ずっとこの場所に居るとさ」
 そう君が呟いた。きっと僕に向かって言っているわけではないのかもしれない。
「まるで私がここに囚われているみたいに感じるんだ」
 囚われる?誰に?
「うまく説明できないけど、たとえば―――世界」
 君はそう言ったが、きちんと説明できていると思った。君の言いたいことは理解できる。この見渡す限り何もない、どこにも向かわず、何も訪れない静止した世界でただ無為に過ごしていることは、見方を変えれば世界という目に見えない鉄格子に囚われているような錯覚に陥ることだろう。
 でも、それは君に限らず、すべての人がそうなんじゃないだろうか。
 たとえばそれは、本を読んで自分の中にその世界を想像するとき。あるいはスポーツなどの競技に集中するとき。車好きな人がドライブを楽しんでいるとき。僕らは僕らの思う世界の中に居る。
 僕らは世界に囚われている。
 君はそれを不自由だと思うかい?
「———ううん。だって、私はこの世界が好きだから」
 そうだ。僕らは望んで世界に囚われている。そしてそれを幸福だと感じている。
 なら、それでいいじゃないか。
 誰がどうして否定できる?自分がどこに居るか選ぶのは、決めるのは自分でしかないだろう。選択の善悪も正誤も、受け取る人によって違うものだ。自分が正しいと思うことならそれが正解なんだ。
 僕が殻の外の世界より、内側のこの世界に居ることの方が正しいと思うのと同じように。
「僕も、この世界が好きだ」
 そう告げたことで、僕の中で揺れていた何かが決定的なものに変わった気がした。
 この世界が好きだと言ったことで、暗に向こうの世界に別れを告げてしまったような。
 でも、きっと僕はそれを後悔していない。
「うん、知ってるよ。ずっと昔から」
 そう言って君は笑う。僕の全てを包み込んでくれるような慈愛に満ちたその笑顔は、この世のどんなものより美しく価値があるように思えた。何もないこの世界で、その笑顔一つあれば他には何もいらない。いつまでだってここで待ち続けることができるんだ、僕は。
 僕はここを選んだ。自分の意志で。僕はここに居る。ただ一つのボタンのズレも、僅かな歪みも感じないこの場所に。これからもずっと。

 ———さようなら、僕には相応しくなかった世界。

 これから先もずっと、僕たちはここで来るはずのない何かを待ち続けるのだろう。物悲しくも決して寂しさを感じないこの世界で。
 なんて幸せなんだ。

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