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「好き」は闇につながっている…かも

 つい先日、呑み書きで「わたしは変態だ」って話を書いた(そんな話ではなかったかもしれない)。

 ラブがフェチに全振りされてしまっている。ピュアであるがゆえにヤバいというようなことを書いている(そんな話ではなかったかもしれない)。

 改めてここにフェチのダークサイドみたいな話を書くのに猫野サラさんのステキなイラストをお借りしたのには、実は理由がある。

 わたしは、サラさんの描く「手」が好きなのだ。もともと手の表情にとても惹かれる。上の呑み書きにも書いたけれど、わたしは人を(恋愛的な意味で)好きになるときに、箸の持ち方に惚れるみたいなことが本当にあるのだけれど、顔よりも手を見ているし、手が気に入ると好きになってしまうみたいなことが本当にある。(それでいて顔はどうでもいいわけでも、たぶんない)

 サラさんの描く手はそういう手なのですね。手の表情にとても気を使って描かれていると感じる。缶ビールを持っている男性の絵も、煙草を吸っている男性の絵も、男装の麗人の絵も、手がいい。

 わたしは人形が好きだ。先日人形師に魂を食われてしまう少女の話を書いた(そんな話ではなかったかもしれない)。

 この人形師も彼女の手に惚れた。

 手にこだわって作られた人形が好きだ。人形というのはフェチの極致という気がする。

 フェティシズムというのはもともと本来人格を伴った人であるはずの対象のごく一部(身体のパーツ)や、付随するなにか(衣服とかアクセサリなどの装飾)に強烈な愛情を持つことだ。広義ではそのパーツはセックス・アピールに直結したパーツも含むようだが、わたしはそういうものは含めない方が良いと思う。性的なパーツは普通の性欲の対象であって、あえてフェティシズムと呼ぶからには性欲の対象になりにくいパーツに劣情を感じるべきだからだ。

 いったいわたしは何を力説しているのだろうか。書いていることの変態度が上がりすぎている気がしてならない。

 フェティシズムの対象というのは、命ある対象から命を取り除いてバラバラにした一部分で、フェチの裏側には死がある。

 あ、一文でフェチから死まで急降下してしまった。大丈夫かなこれ。ドン引きして友達やめないでくださいね…。

 もともと性愛は生殖につながるもので、生に直結している。愛情を抱き、交わり、新たな命が誕生する。

 どこぞのアホが同性愛について「生産性がない」と発言したけれど、同性愛は「生」に直結はしていないかもしれないが、対象は生きており、まだ「生」につながっていると思う。

 ところがフェチには「生」はない。むしろあるのは「死」だ。

 まずいなこの話。このまま好きなように書くと有料コンテンツまっしぐらになりそうだからセーブしよう。

 人形というのは古来からある文化で、その傍らには常に死がある。究極の人形は死体だ。もし完璧に腐らず、永遠に変化しない死体があれば、それこそが究極の人形である。人形師は多かれ少なかれ、おそらくそういう地平を目指して人形を作っている。最高に美しい人から命が抜け出たその入れ物。それを作りたいという想い。ものすごく雑に言ってしまえば、最愛の人の死体が欲しい。それが人形を作ることの意味だ(と断定してしまうことには大いに問題があると思うが、その通りだと言う人形師は少なくないような気がする)。

 やはり危ない。セーブして書いてみたけれど、この後どうやってもヤバそうだ。この手の、「異常な愛情」的な話はエッセイ風にまともに書けば書くほどシャレにならない感じになるのだけれど、これを小説の中へ詰め込むと美しい小説になったりする。

 恋愛小説は書けないけれど偏愛小説なら書けると思う。なぜなら恋愛はわからないけれど偏愛ならわかるからだ。上で紹介した掌編を書いてみて、ああいうのはとても好きで、もっと書きたいと改めて思った。

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