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誤解に耐える力

 良い文章とはなにか、という考察に興味がある。

 ああもう、固いな。この投稿は全体的に固い文章になりそうだ。申し訳ない。ちょっと理屈っぽく読んでほしいのであえてカッチカチの文体で行く。

 あらためて。良い文章とはなにか、という考察に興味がある。

 ちょっと引っかかる言い回しを使ったのには意図がある。わたしは「良い文章とはなにか」を考えたいし、それを考えている人の意見を聞きたい。ただ、その先に、自分がその「良い文章を書きたい」という目的地は設定していない。この投稿ではそれについて、主に自分の考えを整理する目的で書いてみようと思う。そんなものがなんの役に立つのかと思わなくもないけれど、誰かが何かを考えるきっかけになるかもしれないので公開しておこうと考えた。

 先日、Youtubeで配信されているオンラインフィードバックコンテンツ、ブリリアントブルーを一通り見た。サトウカエデさんがゲスト出演された回で初めて見て、それからすでにアップされていたものを全部見た。

 これのアドバイザーである嶋津 亮太さんの視点に大変共感して、嶋津さんが主宰されている「教養のエチュードしよう」というサークルに加入してみた。もちろん「良い文章とはなにか」という考察を読みたい、という動機による。嶋津さんは視点がニュートラルで、分析は的確で、その説明はきわめて論理的だ。得るものがとても多いと思う。

 と、こんなふうに「である調」で書くともう偉そうなこと甚だしいですね。なんだかこれじゃわたしが嶋津さんを上から偉そうに評価しているみたいですがもちろんそんなつもりはなく、入門するぐらいのつもりであります。

 さて、わたしが追っているのは「小説とはなにか」という問いで、わたしはその答えを知るために小説を書いている。そして今のところ、良い文章と良い小説というのは、わたしの中でまったく別のものだ。

 わたしの好きな映像作家に、映画監督の押井守という人がいる。巨匠なのであえて敬称はつけない。わたしにとっては好きな映画監督というようなレベルではなく、敬愛する芸術家、といったところだ。その押井監督はどこかで、「誤解に耐えるものが良い映画だ」ということをおっしゃっていた。これは広く、芸術全般に言えることなのではないかと思う。文章に特化した文言にすれば、「誤読に耐えるものが良い文芸だ」とでもなろう。

 よく芸術がわかる、わからない、ということが話題になる。でも元来、芸術というのは「わかる」必要はない。なにか感じればそれでよく、自分がなにかを感じる作品を愛せばいい。わたしは文学というのも芸術だと思っていて、芸術作品としての文学は、わかる必要はないと思っている。

 こう言いきってしまうと、いやいやそんなことはない、という反論もあろう。美術にしろ音楽にしろ文学にしろ、それこそ「教養」をしっかり身につけた上で鑑賞して初めてわかることというのはある。音楽史を理解した上でワーグナーを評したり、美術史を踏まえてレンブラントを鑑賞したりすることには大いに意味がある。しかし、そんなものを何も知らない人が作品だけを見て、なんの文脈も理解しないままに感動したとしたら、それはそれで素晴らしいことだと思うのだ。その感動が作者の意図とまるっきり違う誤解によるものだったとしても、そんなことはどうでもいい。むしろ、意図や表現をまるで理解しない人の心が動いたなら、それはその作品の持っている力がそれだけ強力だということに他ならない。誤解されるような表現だからマズイということはなくて、むしろ誤解された上で感動を与えているという強さがある。

 わたしはひたすら映画レビューを書いているので、そのタイトルを眺めて見てもらうとわかるかもしれないけれど、賛否の別れそうな映画がとても好きだ。何が言いたいのかわからないような作品とか、ストーリーらしきものが不明瞭な観念的な作品など。そういうものはおしなべて誤解に強い。作り手が伝えようとしたものと、わたしの受け取ったものにはズレがあるかもしれない。わたしはレビューを書くときには、わたしの受け取ったものを書いている。わたしがどう解釈し、どう感じたのかを書く。それが正しいかどうかということは問題ではなく、ある受け手の感想に過ぎない。そういう意味で、映画のレビューなどというものはなんだって正解なのだ。そして、良い作品というのは誤解されていても高い評価を得る。

 これを文学へ翻すと、文学作品としては、必ずしも「伝わる文章」である必要はない、ということになり、わたしは今のところこれが真理であると信じている。

 これはもちろん、良い文章というのは伝わる文章であり、いかにして伝えるかを考えて書こう、という姿勢を何ら否定するものではない。わたしが強調したいのは、こと「文学」に関しては、伝わるかどうかということのプライオリティは高くない、ということなのだ。むしろ伝わりやすさを重視しすぎるとそれは文学としての幅を制約するものになりかねない。

 例えば、たびたび例に出して申し訳ないような気もするのだけれど、大江健三郎の書いた小説以外の文章というのを読んだことがありますか? これがもう大変に読みづらい。たいしたことを書いていない文章でも、読み返さないと何を言っているのかよくわからないこともある。それは「良い文章」なのかと言えば、どうでしょうかね。ノーベル文学賞を受賞している人の文章を「良い文章ではない」と評することが、できますか? わたしには難しい。でも、率直に申し上げて、読みづらいしわかりにくい。同じことをもっとわかりやすく書くことはできるだろうと思う。

 ただ、ここが重要なポイントなのだけれど、そうなればもはや、そんなものを大江健三郎が書く意味はどこにもない。読んでいるわたしも、引っ掛かりを楽しみながら読んでいるようなところがある。何を書こうとも大江文学であるというものすごい力がみなぎっているのだ。

 さあ、良い文章とはなんでしょう、ということを改めて考える必要が出てくる。良い文章という指針は、文学には持ち込めないものではないかと思う。文学は必ずしも良い文章でなくて良い。わかりやすい必要もなければ、読みやすい必要もない。意図的に誤読を誘っても良いし、文法を解体しても良い。ルールから逸脱しても良いし、なんなら読めなくても良い。(わたしは意図的にそういうことになっている作品もいくつか書いている)

 特に小説というのは、文学の中でも最も自由度の高い表現形式だ。小説というのは何をどう書いても良い文芸ジャンルである、とよく言われるぐらいなのだ。

 ただ、わたしは初めての小説を書き上げたときに、「小説とはなにをどう書いても良い文芸ジャンルではあるけれど、なにをどう書いても小説になるわけではない」ということを学んだ。最初に書いたものが実は小説になっていなかったということに気づき、「小説とはなにか」という前述の問いを己に問い続けながら模索して二作目を書いた。わたしはこれを書いたことで小説と小説に似ているけれど小説になっていないものの境界を知ったような気がする。

 Beyond the 良い文章。良い文章のさらに先にある誤解に耐えうる小説表現というのがきっとある。わたしはそれを目指して進みたい。

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