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小説のカタチ 「書く」と「読む」の間に

 E.Vジュニアさんが「プリントアウトしてnoteを読む」という記事の中でわたしの小説『サイカイカフェ』を紹介してくださった。

 なんとE.Vジュニアさん、わたしの作品をわざわざプリントアウトして読んでくださっているとのこと。その方が読みやすいの、とてもよくわかる。でも正直とても手間がかかりますよね。そこまでして読んでいただいたことに本当に感激しました。ありがとうございます。

 さて、このE.Vジュニアさんの記事に触発されて、わたしもひとつ、これに関連する話を書いてみようと思う。

伝え方の変化について

 デジタルの写真が一般的になって久しい。今やほとんどの人がデジタルで写真を撮っている。アナログの写真とデジタルの写真。違いはたくさんある。デジタルだと撮った写真がすぐにその場で見られる。フィルムよりもはるかにたくさんの写真が気軽に撮れる。いろいろな違いがあるけれど、個人的に、もっとも大きな違いは、

「作り手が、作品の受け取られ方を制御できない」

という点だと思う。

 このことを拙作『雪町フォトグラフ』の中で書いた。

  深雪はこれまで写真の大きさのことなど気にしたことがなかった。そもそもデジタルカメラで撮影した写真は、画面のサイズや解像度が異なれば違った大きさで見ることになる。フォレストにアップロードしたものだって、表示する端末が違えば大きさは変わってしまう。深雪には写真の大きさを気にするという発想自体が全くなかった。

※[引用註]フォレストというのは作中に登場するInstagram のような架空のサービスのこと

 これは主人公の深雪(みゆき)が、ある喫茶店に飾られていたアナログプリント(フィルム撮影して印画紙にプリントされたもの)を見たシーンだ。アナログの時代には、写真家はプリントまで責任を持って、受け手に届けていた。出版物になるのであれば、紙の質やレイアウトデザイン、色に至るまで作家自身による校正が入るのは当然であった。

 それが今はどうかというと、デジタルでオンライン公開という形になると、どんな大きさで見られるかはもちろん、写真にとって重要な要素である色さえも、作り手はコントロールできない。(そのため、作家性の高いものほど、現在でも紙媒体の写真集として出版される)

 写真に起きたこれと同じことが、少し遅れて文筆の世界にやってきている。

文章の伝達とは

 よく、紙の本と電子書籍、といった具合に比較される。ここではもう少しその境界をはっきりさせるべく、データ化を経由するかしないかという分け方をしたい。

 データ化を経由するというのはどういうことかというと、ある文章をなんらかの方法で符号化し、その符号化されたものを記録し、受け取る側はその符号化されたものを受け取り、復号して読むという方法のことだ。これは一般にあまり意識されないけれど、電子書籍を始め、皆さんが今読んでいるこれも、一旦データになったものが記録されていて、その復号されたものを読んでいる、という状態なのだ。note のサーバに記録されているデータは、厳密には文字ではない。符号化されたバイナリとして記録されたものをブラウザが受け取り、復号してテキストにしたものをレンダリング(描画)している。皆さんが今読んでいる文字は、皆さんのそのデバイスで動いているブラウザというソフトウェアが復号して描画したものなのです。

 ここが、旧来の伝達方法と、現代の伝達方法の最も大きく異なる部分であろう。

 データを経由する方法にはメリットがたくさんある。もっとも大きなメリットは、それをどんなふうに表示するかを、読む側で選ぶことができるということだ。例えば目が悪いから文字を大きくしたい、色弱だからハイコントラストにしたい、明朝体を判読しづらいからゴシックにしたい、といったことが自由自在である。

 この記事にしてもわたしが書いて表示している状態と、いまあなたが読んでいる状態は大きく異なるはずだ。表示しているデバイス、モニタの大きさ、使用しているフォント、その他いろいろな表示設定などにより、文字の大きさやスタイルはもちろん、一行に表示されている文字数、行間の広さ、段落間の広さ、画面の明るさ、背景や文字の色等、あらゆる要素に差がある。

 見る側が見やすいように調整できるというのは、大変大きなメリットだ。特に視覚に問題を抱えている人は、この自由度によって紙の本では読めなかったものを読めるようになるかもしれない。そのぐらい大きなメリットだ。

 しかし、書き手にしてみると大きな制約でもある。どこで改行させたい、といったことをコントロールしたい場合や、表示する文字そのものに仕掛けをしたい場合、版組で表現をしたい場合などがある。実際、紙の本ではそういう表現をされた小説もたくさん出ている。こういったものは電子書籍化することはできない。少なくとも作者の意図通りに電子化することはできないのだ。

 例えば比較的近年の作品では『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』などがこのタイプと言える。

 こういうものは電子化することができないか、または電子化すると作者の意図と違ったものになってしまう。(※この作品は電子書籍化されているけれど、どのような形で電子化されているのかわたしは知らない)

 文章表現というのは文章そのもの、つまりここでいうデータとして抽出される内容だけの表現とみなすこともできるけれど、その文章をどう見せるかという、ビジュアル表現としての要素もあるのだ(そこにまったく依存しないという作品もあるだろう)。

 重要なのは、どんなふうに表示するかによって、本来作者が伝えようとしたことが伝わらない、あるいは違った伝わり方をしてしまう可能性がある、ということ。極端な話、単行本だったものが文庫化されると印象が変わるし、それがまた全集に収録されて二段組になったりするとぜんぜん違う感触になったりするのである。もちろんそこまで行くともう作り手のコントロールを超えてしまうのだけれど、やはりそれによって感触が変わるという事実は、間違いなくある。

わたしの書き方について

 上記のようなことを踏まえてわたしがどんなふうに文章を書いているかを紹介してみる。他のところにも少し書いたけれど、わたしはテキストエディタを使って横書きで執筆する。スクリーンショットをお見せするとこんな感じ。

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 Microsoft のVisual Studio Code というエディタを使い、LaTeX という版組システムを使って書いている。これで原稿を書いて版組成形するとこんなふうになる。

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 これはLaTeXからPDF化したものをPDFビューワで表示して、それをスクリーンショットにしたものだ。400字詰め換算はこの作品では必要なかったので入っていないけれど、これが公募に応募するものなどの場合はここに換算枚数を入れる。(枚数は400字詰めフォーマットで成形して確認したものを入れている)

 基本的に、わたしが本来届けたいものはこれです。いくつかの記事に「公募ベース」ということを書いたのは、この形式で見せることを前提にして物を考えている、という意味なのですね。

 フォントはGoogle のNoto Serif CJK というユニコードフォントを使用している。このフォントを使用している理由は、ユニコード対応のフォントかつオープンソースだから。

 ユニコード対応である必要があるのは、こういう作品を書くからです。

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 これは『ユニゾン』という作品で、自分自身から画像のような文字化けしたメールが届いて、そこから混乱が生じていくという物語。

 今や多くの人が文章をコンピュータで書いているのに、コンピュータを使わないと書けないものを書いている人はほとんどいない、ということに気づいて、じゃぁコンピュータを使わないと(ワープロでは)書けないものを書こう、という意図で書いた作品です。上のような文字化けした文章は、正常な文章を自前のプログラムに通して生成している。

※この作品は他にも仕掛けをしたけれど、今のところオンラインでそのすべてを表現できるプラットフォームはない(PDFで公開するという方法はあるけれど)。この作品は一時期カクヨムに公開していたけれど取り下げたので、今はどこにも公開していない。

 わたしは複数のPCを気分で使い分けて書いていて、そのOSはWindows とLinux。どちらのOSでも同じ環境で書けることが必須でこのようなツールに落ち着いた。なお、原稿のデータはレンタルサーバを借りて、SCM と呼ばれるバージョン管理システムを使ってリポジトリを置いている。複数のPCでそれぞれこのデータを引っ張ってくることで、あっちのPCで書いた続きをこっちで書く、みたいなことができる。

 SCMにはMercurial というのを使っているけれどあまりに専門的な話になるので割愛する。雑に言うと、バージョン管理できるため、初稿から推敲を重ねる過程を全部残しておいて、いつでも好きなバージョンに戻ることができるのです。

 以前はこのようにして成形したPDFを印刷して、そこに赤ボールペンで書き込みをしながら推敲していた。『雪町フォトグラフ』を書いたときはそのようにして書いたので、何百枚もの紙を消費した。レーザープリンタのトナーもバカにならない消費量だった。

 現在はプリントアウトはせず、このPDFをタブレット(Microsoft のSurface)に表示して、ペンで書き込みをしている。これだと印刷とほとんど同じ感覚で赤入れをすることができ、なおかつ紙もトナーも消費しない。

 私の作品は基本的に全部、このような方法で書いている。今回初めて、『サイカイカフェ』という作品はLaTeXで書くところまでは普段通りだけれど、それをプレーンテキスト化してnote のエディタに貼り付けてチェックした。この作品は最初からnote への書き下ろしだったからだ。

 プレーンテキスト化には、LaTeXデータを小説投稿サイト用にコンバートする自前のスクリプトを用いた。

これからの小説執筆は

 このようなことを踏まえて今後小説を書くという行為はどうなっていくのかを考えてみる。なっていくというかすでになっているけれど、最初からWebフォーマットとして読みやすいものを書く、というスタイルが多数派になるだろう。

 しかしここには問題があって、そのようなフォーマット的制約が、文章そのものをも制約してしまう。これまでのいわゆる文学作品の大部分は、投稿サイトやnoteのようなフォーマットには向かない。向かないものは読まれず、数は減るだろう。しかし、完全に無くなることもないと思う。

 書き手としてどうすべきか、というのは、とどのつまり「人による」。でもひとつ言えることは、これから小説(あるいはその他文芸)を書く書き手であろうとするのであれば、その表現形式、最終出力の部分がどうなっているのか、自分はどうしたいのか、といったことに関して無自覚ではいられないということ。

 わたし個人は、道具としてのコンピュータは積極的に使う方針です。執筆のためにプログラムを書いてそれを使うというような、積極的な使い方をする。しかし、最終出力は旧来の方法に寄せたい。オンライン小説の表現形式は単純にわたしのやりたいことに合わないという理由からです。

 ただ、上にリンクを張ったNOVEL DAYSのように、ブラウザ上で縦書き表示できるサイトも出てきている。より紙の本に近い縦書きが実現されれば、そこに向けて書くということは積極的にやりたい。だからそういうものが出てこないかということについてはアンテナを張って待ち構えています。

 横書き専門の投稿サイトによくある数行ごとに段落わけをしたり、積極的に空行を入れたり、3000字程度で話数を分割したり、といったことはしたくない。たとえそういうものの方が100倍読まれるとしても、やはりわたしはそうではないものを書きたい。

※ここで紹介した書下ろし習作『サイカイカフェ』は下記のマガジンでどうぞ。2020年7月23日時点では、未完、連載中です。

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