[映画]ニンフォマニアック

 またしてもラース・フォン・トリアー監督の作品。この作品は前半と後半の二本に分かれているけれど一続きの作品だ。トリアー作品の中では随一と言えるほどに、笑いの要素がある。前言を撤回するようで申し訳ないが、この作品は「二度と見たくない」とは思わない。しかし他のトリアー作品に並ぶぐらい、好きだ。

 「ニンフォマニアック」とは色情狂のことで、それがタイトルになっているので一応そういう題材を扱った作品ではある。しかしこの作品の主張は少々そこからは離れたところにある。

 一本目の最初のシーンで、路上に倒れている傷だらけの主人公ジョー(シャルロット・ゲンズブール)をコンビニ帰りのおっさんセリグマン(ステラン・スカルスガルド)が助けて連れ帰る。二本を通して全編、セリグマンの部屋でジョーが語る物語、という形式で、本筋は全部回想、すべてが終わったところから始まり、最初のシーンの直前までの物語を語り終えて終わる、という形式になっている。

 主人公は語り手の女性、そこに聞き手のおっさんがいる、という図式である。この聞き手の存在が、この作品の要だ。これが主人公の独白だったら、こうまで面白くない。特に一本目での聞き手は見事で、作品の魅力の大部分がこの聞き手にあると言っても過言ではない。

 わたしはもともとこのステラン・スカルスガルドという俳優が好きだ。例えば前に紹介した『グッドウィル・ハンティング』には主人公を見出す数学教授の役で出ていたし、『メランコリア』にもチョイ役で出ていた。どれもいい芝居だけれど、群を抜いてこの『ニンフォマニアック』のセリグマンが良い。

 『メランコリア』について書いたときにトリアー監督の作品は二度と見たくないほど好きなものが多いということを書いたけれど、『ニンフォマニアック』にはそういう「見たくない感」はない。それほど嫌にならないのは、ここに登場するどの人物も、あまり自分と似ていないからだろう。この作品にはちょっと極端な人ばかり登場する。しいて言えばわたしはセリグマンに最も近いけれど、セリグマンは本作で聞き役なので彼の汚いところはあまり見えない。だからこの作品は客観的に見られるのだと思う。

 前半(一作目)はコメディ的要素が強く、主人公のかなり常軌を逸した状況を浮世離れした感覚のセリグマンが聞き、自分の理解できる領域の話にすり替えながら解釈していくのが面白い。大きなずれがあるようでいて、すとんと腑に落ちるような感覚がある。ときどき笑いながら見られる。主人公の色情狂もあっけらかんとぶっ飛んだもので、回想として若い女優が演じ、素っ裸で性器まで映っていてもそこにエロスは無い。

 対して後半(二作目)になると監督の主張らしきものが強くなる。相変わらず色情狂を描いているのだけれど、そこに宗教観、政治観などが入り混じってくる。セリグマンの変化球的解釈は鳴りを潜め、そこにトリアーの影が見え隠れし始める。セリグマンのセリフが彼の言葉ではなく、そこに憑依したトリアーのものに聞こえ始める。一方、主人公の色情狂は悲壮感を伴ってきて痛々しくなる。二作目の序盤から回想の中でも主人公はシャルロット・ゲンズブール本人になり、彼女も素っ裸で性器まで映っているがあるのは悲壮感のみでエロスは無い。

 この作品は色情狂などという言葉がタイトルであり、まさに色情狂の主人公が振れ幅の広い性的体験を赤裸々に語る物語で、前後編に渡って倒錯した変態行為も満載であるのに、驚くほどエロスが無いのである。

 重要な主張は後半(二作目)で訴えられているように思う。言葉狩りが民主主義を殺すという主張は表現の挑戦としてこの作品を世に問うた監督の本心だろうし、ジェンダーの問題の上澄みみたいな浅いところをあえて言葉に出し、それを「人間は全員偽善だ」というような主張で片付けるあたりも、おそらく本音だろう。

 ラストは意外なところへ着地するが、演出が素晴らしい。このラストシーンにトリアー監督の映画監督としてのセンスが集約されていると思う。見事な後味のラストシーンで、常々この監督が描いている「人間の本質」がにじみ出ている。ただ、後味は悪くない。

 現在この作品は配信でも見られるし、実際わたしは今回配信で二度目の鑑賞をした(一度目は劇場)けれど、日本では当然ながらぼかしが入る。でも本来、この作品はぼかしが無い状態で、性器をどアップで映しながらそこにエロスが全く無いという表現なのである。それをぼかしたことによって煩悩を捨てきれない状態になり、作品が本来主張していることが隠されてしまっている。

 この作品はそういう行為に異議を唱えるという意思表明だし、そういう行為こそ人間の偽善であるという指摘でもある。そしておそらく、このような処理を施されて放映される国もあることを承知した上で、それも含めて視聴者に問いかけているのではないかと思う。

 この作品を見ると「おまえが住んでいるのはこの作品をそのまま観客に届けることを許さない程度の国だ」と言われているような気がする。わたしにはそれが、もしかすると恥ずべきことなのではないかという気がする。


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