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短編小説 赤灯#Last

文乃の手の中で、コーヒーは完全に冷め切っていた。ビルの屋上は相変わらず冬の冷たい風が吹いていた。

「彼女はとてもつらい思いをしたんだね」

光は言った。

「そうね。とてもつらかったでしょうね。その時は、本当に死ぬことすらも考えたと思うわ。でも不思議ね。人ってそんなに簡単に死ぬ決断なんてできないし、生きていればそれなりにいいことも起こるものなのよ」

光はしばらく黙っていた。そして何かに追われるように口を開いた。

「場所を変えない? もう随分ここにいるよ。」

「そうね。コーヒーも冷めちゃったわ」

二人は立ち上がり、非常階段を下りた。光はコートのポケットから鍵を取り出し、四階の扉を開いた。そして扉の中に入った。光はすぐにカウンターの奥へ入っていき、店内の電灯をつけ、ストーブに火をつけた。木目調のバーカウンターと椅子に温かみのある黄色い光が映った。文乃は奥から二番目の椅子に腰かけた。しんとした店内にはストーブが火をたく音が聞こえるだけだった。外はまだ夜の途中だった。カウンターの端に置いてあったデジタル時計は二十三時を表示していた。光は意味もなくカウンターの向こう側に突っ立っていた。そして棚においてあったグラスをひとつずつ洗い始めた。蛇口の水が絶え間なく流れ続けていた。

「二人はそれから頻繁に会うようになった。彼は少しずつ、本当に少しずつ彼女に心を開いていった。それと同時に、別れた彼女のことを少しずつ忘れていった」

「違う!」

光は声を上げ作業台を両手で強く叩いた。振動でグラスが一つ床に落ちて割れた。破片が飛び散る音が店内に響き渡った。

「もうたくさんだ。この話はいい。十分聞いた。確かに結論がわからない物語だ。作り物としても面白い」

文乃は何事も起こってないかのように話を続けた。

「二人は付き合い始めた。彼は必死に働いて借金を今も返し続けている。寒い河辺の高架下に暮らしながら」

光は床で粉々になっているグラスの破片を見下ろしながら言った。

「君…なんだろう」

光には、自分の声がはっきりと認識できなかった。声に出したはずなのに、彼女に届いて欲しくない気持ちもあった。ストーブの火力はどんどん強くなっていき、電灯の黄色い明りと共に冷え切った店内を柔らかな温もりで温めた。光は床に落ちたグラスの破片を一つ手に取り、それを思いきり握りつぶしてさらに粉々にした。手のひらからは血が流れた。

「どうして、君は名前も過去も、姿までも変えてしまったんだ。君が変わる理由なんてどこにもないじゃないか」

「ゼロからやり直したかったのよ。それ以外に方法はないと思ったの。きっとあなたはこれから先の人生を私のことを遠ざけながら生きて行こうとする。それは私を嫌いになったからじゃない。私に対する罪悪感がそうさせるの。あなたは優しさをはき違える人だから。あなたは不器用な人なの。だから私は、あなたに再会して止まった時間を動かすよりも、もう一度あなたと恋をすることを選んだ。生まれて初めて出会った男女として」

「ごめん」

「何に謝っているのよ」

「君を…一人残してしまったこと」

光は赤い血が流れた手で顔を覆った。彼の目から赤い涙が頬を伝って零れ落ちた。

「私、いい女だったでしょ?」

文乃は言った。

「あなたと一緒にいた時の私は、あなたの好きな女性だった?」

光は崩れ落ちるように頷いた。

「今の私は、あなたの好きな女性?」

光は頷いた。文乃は立ち上がって光の側に歩み寄った。そして光を優しく抱き寄せた。

「もうかつての私は世界中どこを探したっていないのよ。それでもいい?」
光は力強く文乃を抱きしめた。とても強く。文乃の体温が伝わってくるのがわかった。とても懐かしく、穏やかな、良く晴れた春の陽気のような温かさが。お気に入りの本を読み終えた時のような充足感が。

「君の言うとおりだった。僕の負けだ。こんな救いようもない男を、それでも君は…」

「言ったでしょ。本当にいい女って、愛する人をころころ変えたりしないものなのよ」

遠くの桟橋の塔から発せられる赤色の灯りは変わらずに輝いていた。まるで何かを静かに祝福するように。

~終わり~

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