見出し画像

短編小説 赤灯#1

「これはね、ある男女についての話なの。とても現実離れしているんだけど、よくある未来に行ったり、過去に行ったり、心が入れ替わったりするような話じゃないの」

文乃はそう言ってシロップを入れたアイスコーヒーをストローで一口飲んだ。

「現実に起こりえるとは思えないけど、実際に起こった現実の話っていうことかな?」

光は文乃にそう言った。二人のいた喫茶店に他の客はおらず、店全体ががらんとしていた。古いブラウン管のテレビは外国で流行している新型のウイルスの動向を伝えるニュースを流していた。五年前、世界の経済は大きな混乱の最中にあった。アメリカのサブプライムローン制度の崩壊をきっかけにアメリカの大手投資銀行が倒産した。そのショックはアメリカの金融業界のみに留まらず、世界全体に波及した。新型のウイルスは、世界的経済ショックの起こった三年後、まだ各国が自国経済を立て直そうとしている途中に、あるアジアの国を発生源に世界中で猛威を振るった。新型ウイルスは高い感染力と致死性を持っており、ある国ではすでに五万人を超える死亡者を出していた。物流は滞り、消費活動はどんどん縮小していった。その煽りを受けて株式相場は何年間もの間、激しいディセッションを起こし続けており、外国為替相場は高いボラティリティを擁して人々を混乱させていた。日本だけは、政府による迅速かつ的確な初期動作と感染者が出た地域のロックダウンを徹底することによって、ウイルスの感染を特定の地域に限定し抑え込むことに成功していた。中には、日本人の多くはその未知のウイルスに対し、原因不明の集団免疫を持っていると主張する研究者もいた。光と文乃は四人が座れるテーブル席に向かい合って腰を下ろしていた。観音開きの窓からは夕日の光が差し込んでコーヒーの入ったグラスの濃い影を映し出していた。

「何かの本で読んだの?」

光が尋ねた。

「いいえ。聞いた話。でももしかしたら本に出来るかもね。もしそんな本があったら是非読んでみたいわ」

文乃はそう答えた。

「それで、それはどんな話なの?」

「とても長い話になるから、順序を間違えないようにゆっくり話したいの。
あと、一つだけお願い」

「お願い?」

「結末は話したくないの。だから、話を全部聞いた後消化不良になっちゃうかもしれないけど、気を悪くしないでね」

文乃はそう言うと、頬杖をついて光に軽く目配せをした。そして少しだけ口元を緩めた。

「結末を話したくないのは、それは賛否が分かれるものだから?」

光は首を傾けて言った。

「それもある。あまり深く考えないでいいわよ」

文乃は言った。

「わかった。これから君が話す話がどんな形で終わっても、最後の結末だけは自分で考えるよ」

「好きよ。あなたのその物分かりがいいところと、優しいところ」

文乃は言った。文乃の右耳には赤色の輝きが眠るように佇んでいた。

「僕は自分が物分かりがいいと思ったことも、優しいと思ったこともない」

光は言った。窓から差し込む夕日の光はその日一番強くなっていた。窓から差し込む陽光のオレンジ色が、店内の木目調のテーブルやイスと調和して、あたりは恐怖を感じるほどに柔らかい雰囲気に包まれていた。古いブラウン管のテレビは、その日の国会で行われた政治家の答弁の録画を流していた。

「ふふふ。正直な人」

文乃はそう言って笑った。彼女の頬は少しだけ赤く染まっていた。彼女の自然な色の唇は新品のピンクのネクタイのように、まっさらだった。

「その男女はね、お互いをとても深く愛し合っていたの」

~#2へ続く~

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?