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No.9 ”大味川六人衆”とは何者か?

 皆さまこんにちは。先日打ち付けた腰の痛みが長引いている、面河地区・地域おこし協力隊のくわなです。
 前回は、面河地区の人口変遷についてお話させていただきました。

 (前回記事はこちら↓)

 また、No.2・No.5では面河地区全体の概要を。そして、No.3・No.4・No.6・No.7では杣野(そまの)地区の学校や偉人、発展の歴史を紹介してきました。
 が、ここで一つ気がついてしまったことがあります。

大味川(おおみかわ)地区のこと、全然触れていなかった!!!

 私自身が大味川地区の出身にもかかわらず、これまでメイントピックとして挙げていなかったことを猛省しております。
 というわけで今回は、大味川地区を拓いたとされる“大味川六人衆”(おおみかわろくにんしゅう)についてお話させていただきたいと思います。


大野氏と大除城


 大味川六人衆についてお話しするためには、まず大野氏大除城(おおよけじょう)に少し触れておかねばなりません。

 愛媛県の歴史に詳しい方であればご存じかと思いますが、鎌倉時代から戦国時代の終わりにかけて、伊予の国(現在の愛媛県)の中心となっていたのは河野氏でした。
 今から約670年前(1350年頃)。それまでは四国山脈に隔たれている関係上、土佐の国(現在の高知県)から攻め入る者はありませんでした。ところがこの頃、公家一条氏が戦国大名に成長し、近隣の土豪たちを配下に置くように。しばしば国境線を超えて、侵略や小競り合いが行われるようになりました。

 そんな情勢を受け、当時“久万郷”と呼ばれた、現在の上浮穴郡一体からの希望に応える形で、河野氏が明神村(みょうじんむら)に築いた城が「大除城」でした。この城の名前には、「大いに敵を払い除く」という意味が込められていたそうです。

 やがて土佐の国は公家一条氏に代わり、長曾我部元親が一国を支配するように。元親は土佐のみでは飽き足らず、四国統一を目指すようになりました。(この頃は1550年前後)
 これに対し、伊予の国を治める河野氏はどんどん力を失っており、久万郷とお隣の小田郷では、安全が保障されないのではという意見が広まりました。
 そこで小田郷・久万郷を治めていた二十二家は相談の上、喜多郡宇津(現在の大洲市菅田町)の城主・大野直家を大除城の城主として迎え入れることとなりました。

 大野氏は3代にわたって、久万郷と小田郷を守り続けました。その間、大小さまざまな戦いや情勢の変化がありましたが、天正2年(1574年)に元親率いる兵が久万山勢の裏をかいて攻撃。大野氏は急激に力を失ってしまいました。
 そして天正13年(1585年)春、主家である河野氏が元親に降参し、さらに8月には豊臣秀吉の四国征伐により、河野氏および元親が共に降参。これにより大除城はとうとう開城する形となりました。


大味川を拓く

 さて、今回の主役である「大味川六人衆」のお話に移りましょう。
 大除城が落城した後、大野家の配下にあった城主などは、牢人(主人を失った武士)として知己を頼るか、あるいは村々に移り百姓の生活に入っていきました。
 大味川六人衆と呼ばれた面々は後者に当たります。彼らは大野家に仕えていたものの、豊臣秀吉の四国征伐によって大除城を追われたことで、現在の面河地区に入り百姓として過ごすようになりました。

 そこで彼らが集落を拓いたのが大味川村となります。元和2年(1616年)に描かれた文書が、六人衆に関する最も古い記録と考えられており、この時期に彼らが大味川を拓いたとされています。

 元和9年(1623年)には連名で「大味川百姓根本書」を記しており、もともとは武士であった彼らが、本格的に百姓の仕事へ打ち込んでいたことがうかがえます。


六人衆の構成

 大味川六人衆は、次の7名とされています。(いや、6人やなかったんかい!)

 中川善之助 高岡市右衛門
 菅弥五衛門 高岡八左衛門
 菅内蔵之丞 中川新左衛門 
 菅(加藤)長助


 以上の7名を総称して、大味川六人衆と呼びます。(※1)
 彼らは一致団結して大味川を開拓していきました。そして、大味川開発の先駆者として、それぞれの土地を与えられることとなります。(以下の“住所”がそれにあたりますが、現在の番地とは異なります。)

 ここからは7名に関する情報を、個々でまとめていきたいと思います。
 なお、皆さんフルネームがやたら長いので、これ以下の説明文では下の名前のみで紹介させていただきます。

①中川善之助

入山経緯:父の清政は豊後(ぶんご)の国(現在の大分県)から伊予の国に入り、大野氏に仕えていた。
大除城の落城後、大野氏のもとを離れた善之助は、昼野(ひるの・中組地区)へ来訪。東屋敷を建て居を構える。
住所:一八三番地第一東屋
墓地所在地:昼野
エピソード:父・清政の宝物(日の丸の金の扇子)は、屋敷の後山に一社を建てた、中川家の守護神として祭られた。その日の丸にあやかって「昼野々」の地名にしたという言い伝えがある。ちなみに社は残ってないが、宝物を埋めた石積はそのまま残っているのだとか。

現在の昼野集落(中組)
後ほど紹介する「若山城」があったとされる
(令和6年4月撮影)

②高岡市右衛門

入山経緯:豊後(大分)の大友氏に仕えた高岡図書の子だが、様々な地域を流転し伊予の国にたどり着いた。そこで大野家の家老(勘定奉行)となっていたが、親友である善之助の誘いを受け、大味川へ入山する。
住所:一八一番地 中屋
墓地所在地:昼野
エピソード:一族の中に大力無双なる者(すんごい力持ちの人)がいて、高岡家の墓所にある大きな川石は、面河川から一人で持ち上げたとのこと。また、村誌作成時点(1980年)で、彼の愛刀は栃原(とちはら・中組地区)の一般家庭で所蔵されていた。銘は「常陸守源宗重 寛文十年八月」。今も残っているなら、ぜひ見てみたい。

③菅弥五衛門

入山経緯:善之助の誘いで入山した市右衛門に伴う形で入山した。
住所:一九〇番地 伊加谷
墓地所在地:不明
エピソード:唯一それっぽいエピソードが確認できませんでした。弥五衛門ファンの皆さまには、この場をお借りして謝罪させていただきます。ごめんなさい。

④高岡八左衛門

入山経緯:善之助・市右衛門・弥五衛門の3人が入山し、開拓を始めた以降に入山した。兄である市右衛門に誘われたか?
住所:九八番地
墓地所在地:本組
エピソード:墓所は本組の旧庄屋屋敷跡にあるそう。少なくとも村誌作成時には、高岡一族によって追悼のお祭りが行われていた。

以前紹介した今窪橋
この橋が架かっているのが本組地区となる
(令和4年10月撮影)

⑤菅内蔵之丞直俊

生誕について:大野氏と長曾我部元親の大きな戦いであった“笹ヶ峠の合戦”で討ち死にした“菅内蔵之丞道”氏の血縁者にあたる。蔵之丞の祖父(※2)である菅式部介高善は、花山城(浮穴郡拝志(はやし)郷=現在の東温市)に仕えていたが、文中3年(1374年)に花山城が攻められ昼野に入山。そこで若山城を築いた。(つまり蔵之丞自身は昼野で生まれた可能性が高い。)
住所:一二一番地 中吉
墓地所在地:不明
エピソード:おそらく大味川の庄屋を任されていたと思われる。蔵之丞の屋敷から下手のところには、当時の関所があったそう。

⑥中川新左衛門

入山経緯:不明
住所:一三六番地
墓地所在地:不明(面河村誌では空欄)
エピソード:もっとも古い記録である、元和2年の文書を作成したのが新左衛門である。“六人衆”としたのは、彼自身を人数に入れていなかったからかもしれない。だとしたら、ものすごく謙虚な人である。

⑦菅(加藤)長助

入山経緯:長助は蔵之丞の義弟にあたるため、義兄に誘われたか?八左衛門と同じく最初の3人に続く形で入山している。
住所:一四八番地 土居
墓地所在地:若山
エピソード:飛んでくる矢をつかむほどの腕力の持ち主だったが、大坂冬の陣へ出陣した際に交わした約束がトラブルの元となり、土佐・椿山の弓の名手よって討たれた。シンプルにかわいそう。

現在の若山地区
墓所から察するに、長助はこの近辺で生活していたのかもしれない
(令和6年4月撮影)

まとめ ~六人衆と現在の面河~

 ここまで、大味川六人衆が大味川村へ入った経緯や、7名それぞれのエピソードを見てきましたがいかがだったでしょうか?
 改めて見ていくと面河村誌作成時には、高岡八左衛門の子孫による追悼が行われていたり、高岡市右衛門の刀が残されていたりと、かなり色濃く彼らの息吹が残っていたことがうかがえます。

 そこから40年以上が経った令和の現在。彼らの存在を感じることはもはや難しいのか…?と思われるかと思いますが、それは大きな間違い。

 というのも、行事やイベントなどで面河地区の住民たちが10人集まると、菅さん・中川さん・高岡さんが6人はいると言っても過言ではないほど、高確率で出会うことができます。

 つまり、直属の子孫にあたるかはともかく、今でも六人衆の氏は脈々と引き継がれているのです。

 面河地区に来られた際には、ぜひ話しかけやすい地域の方にお名前を尋ねてみてください。
 きっと六人衆の存在を身近に感じられることでしょう。

幼少期の私である
なぜこの写真を引っ張ってきたかというと、かくいう私も当時は姓だったからである
(平成21年2月撮影)

注釈一覧

(※1)個々人の名前の正確な読み方については、現時点で不明。
(※2)「祖父」と言っても、笹ヶ峠の戦いから蔵之丞の時代まで240年ほど開きがあることから、先祖の意味合いで使われていたと思われる。

【参考文献】

・面河村誌(1980年・面河村)
・大成の自然と人文(1992・長岡悟)
・閉村記念誌 刻を超えて(2004年・面河村)

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