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No.7 “渋草”はいかに面河の中心部となったのか?

 皆さまこんにちは。新年度、新しい出会いに少し緊張気味の、面河地区・地域おこし協力隊くわなです。

 前回は、面河地区の発展に大きく貢献された、重見盛蔵氏・丈太郎氏について、詳しく紹介させていただきました。
 今回は、そんな彼らが腰を据えた面河地区の中心部・渋草(しぶくさ)地区が、どのように発展していったのかをみていきたいと思います。
 ぜひ最後までご覧ください。

 (重見親子に関する記事はこちら↓)





かつての中心部

 さて、先ほど面河の中心部は渋草地区だと申しましたが、これについては面河地区で生活されている皆さんを含め、異論はないかと思います。

青枠内が渋草地区
国有林を除けば、ほぼ中央に位置していることが分かる
また主要な行政機関などが集約されている


 ところが、渋草は初めから面河の中心部だったわけでは無いのです。

 明治時代初頭までの面河地区は、以前お話したように「杣野村」「大味川村」の2村で構成されていました。
 明治5年、それぞれの村に戸長役場が設置されましたが、大味川村の戸長役場は本組地区に置かれました。そして、渋草が含まれる杣野村の戸長役場はどこにあったかというと、前組地区および大成地区になります。(※1)

 少し遡って江戸時代、街道(幹線道路)の起点とされていたのは「庄屋」でしたが、杣野村庄屋のあった場所が前組地区・本村(ほんむら)となります。
 この頃は割石峠を通り、川之内(現在の東温市・河之内)とつながっていたそうですが、松山方面から杣野村へ入る際の入口とも言えるのが前組地区。一説では「手前にある集落」だから前組という名前になった話もあります。(あくまでも口伝によるもの)  
 前組地区に杣野村戸長役場が置かれていたのは、その流れと言えるでしょう。

 他に渋草が中心部でなかったことを示す資料としては、No.3・No.4で登場した「公私立小学校一覧表」があります。こちらでは詳細を省きますが、渋草に置かれていたのは「敬身小学校 渋草分校」です。
 本校でなく“分校”が設置されていたことからも、村の中心部としては機能していなかったことが伺えます。(※2)

渋草小学校および面河中学校の閉校記念碑
”渋草分校”は、幾度か名前を変更しながら渋草小学校となり、平成12年(2000年)に閉校した
(令和6年3月撮影)

杣川村役場の設置

 では、そんな渋草地区が村の中心部として栄え始めたのはいつのことなのでしょうか?

 実は、この答えははっきりとしていて、明治23年1月に杣川村役場が設置された時からとなります。
 No.5でお話ししたように、この前年に町村制が施行されたことによって、杣野村と大味川村が合併し、杣川村が誕生しました。その時に、新たな役場の設置場所として選定されたのが、他でもない渋草地区だったのです。

 なぜそれまで戸長役場が置かれていた前組、大成、本組ではなく、渋草に新しい役場を設置したのか?ここが大変重要なところですが、残念ながら現時点で決定打となるような資料は見つけられていません。(例によって文献等に心当たりがある方は、ぜひご連絡ください。)


 あくまでここからは、くわなの想像です。

 まず一つは、それまで戸長役場のあった前組と本組に挟まれている地区であることが、理由として考えられます。前組・本組それぞれの地区に人口が集中していたと思われますが、そこから可能な限り同じ距離で行ける場所として設定された可能性は高いでしょう。

 次に考えられるのは、割石川沿いに集落がまとまっていたこと。江戸時代は割石峠を通過し、前組方面へ抜けるルートが主流でしたが、明治に入ってからの幹線道路(生活道)は黒森峠を越え、杣野地区から大味川地区へ抜けるルートとなっています。
 このルートは現在と同じように割石川から面河川下流に沿った道だったと考えられますので、その途上にある渋草の集落に役場を置くことは理にかなっていると言えます。

 また、明治23年ごろは面河渓が観光地として確立されておらず、面河川本流沿いにわざわざ役場を設置するメリットはなかったと思われます。そのため、自然と割石川沿いにあった渋草に決まったとも考えられるでしょう。

 どのような理由だったにせよ、この時から渋草地区は面河地区(当時は杣川村)の中心部として発展していくこととなります。

左右とも割石川の写真
左写真を見ると集落が川沿いに固まっていることがわかる
また、右写真の右岸(手前が川下)のように自然がそのまま残っている箇所も見受けられる
(令和6年3月撮影)

中心部としての発展と最盛期

 杣川村役場が設置されて以降の渋草の発展は、大変目覚ましいものだったようです。
 明治10年に架設されていた青嵐橋がこの時道路元標(※3)となり、杣野巡査駐在所杣野郵便局が立て続けに設置され、行政・経済の中心となっていきました。
 明治35年頃には旅館(大西青嵐楼)や飲食店も開業し、どんどんにぎやかになっていったようです。(この発展の影には、No.6で詳しくお話した重見親子のご尽力もあったのでしょう。)
 大正14年には青嵐橋の下手に、新たにコンクリート造りの永久橋「杣川橋」も架設。永久橋の名に恥じず現在も残る橋ですが、そういった最新技術の集積地になっていたことも伺えます。


 そんな渋草地区の最盛期は昭和20~30年代だったと言えるでしょう。 
 幕開けの昭和20年こそ、渋草地区は空襲による被害、枕崎台風による大被害、22棟もの建物が全焼した大火災に見舞われました。ですがその後は、これを巻き返すかのような勢いで発展していきます。

枕崎台風の際に撮影されたとされる写真
割石川沿いに並ぶ多くの建物が被害を受けている
(昭和20年撮影・面河村が所蔵していた写真)


 面河地区人口のピークとも重なる時期ですが、当時を知る方にお話を伺うと、火災で焼失した大西旅館(=大西青嵐楼)や一部の商店農協などが再建されたのはもちろんのこと、酒屋鍛冶屋散髪屋旅館などが複数立ち並んでいたそうです。
 昭和22年(1947年)には学制が変わりましたが、この時新たに面河中学校が置かれたのも渋草地区でした。
 昭和31年(1956年)にはそれまでの村医契約というシステムに代わり、常設の診療所が誕生。医療面でも大きな変化がありました。

杣川橋から見た大西旅館の建物跡
昭和20年火災で焼失後の再建時に、今となっては貴重な木造3階建ての建物となったそう
(令和6年3月撮影)
現在の面河診療所
かつては面河村役場がこの場所にあったが、役場が引っ越したことで昭和56年(1981年)に建設された
(令和6年3月撮影)



 極めつけはパチンコ屋渋草劇場などの娯楽施設まで経営されていたのだとか。パチンコ屋は1件だけでは無かったようですし、渋草劇場(通称:常小屋)は映画や地元の演劇、巡回していた芝居など、その他様々な芸能文化を楽しめる場所だったようです。もちろん、渋草の方だけでなく、面河村の他地域からも常小屋を訪れていたというお話が残っており、まさしく中心部としてのたたずまいを感じさせられます。(※4)


 昭和40年代に入り、いわゆる過疎が叫ばれるようになってからも、渋草が中央としての機能を失うことはありませんでした。
 昭和52年(1977年)には面河村役場の新庁舎面河住民センターが建設され、住民たちが集まる場としての機能がさらに強まりました。
 昭和60年(1985年)には面河村体育館が落成。以後、剣道大会や卓球大会、バレー大会など、様々なスポーツ大会が開催され、住民はもちろん地域外の方も大勢集まりました。

面河住民センターおよび久万高原町役場面河支所
かつては写真左側に役場庁舎があったが、老朽化のため、令和元年に住民センターへ統合された
(令和6年3月撮影)
面河体育館の外観
現在でも面河小学校の体育館として機能している他、バレーボールの練習や、バドミントン練習、太鼓練習、ディスコン大会などが行われている
(令和5年11月撮影)

現在の渋草

 平成に入り、人口減少がさらに進んできた面河地区。平成の約30年間にガソリンスタンドや農協、旅館や数々の商店が閉業し、中学校も閉校することとなりました。この事実だけを並べるとすっかりさびれてしまったように感じますが、渋草が中央としての機能を失ったかというと、実はそんなことも無いのです。

 平成10年頃には3本の大きな橋が架設され、交通の便が一気によくなり、郵便局はレトロ風の新築に生まれ変わりました。平成13年(2001年)には住民の高齢化に対応すべく、住民センターにエレベーターが設置されています。

上から新杣川橋・龍宮橋・学(まなぶ)大橋
平成12年(2000年)には「三橋竣工式」が執り行われた
(いずれも令和6年3月撮影)
平成11年(1999年)11月に落成した面河郵便局
レトロな外観と高齢者・障がい者に対応した設備が建立時から共存している
(令和6年3月撮影)


 合併直前の平成16年(2004年)には、社会福祉協議会の新たな拠点である「おもご高齢者生活支援ハウス」が建立。現在に至るまで、入居者を含めた面河地区の高齢者に様々なサービスを提供してくださっています。

面河高齢者生活支援ハウス
写真に写っているのは2階部分で、この下の1階部分に入居スペースがある
(令和6年3月撮影・一部加工済)


 平成21年に閉校した面河中学校の校舎跡地には、翌年の平成22年(2010年)に面河小学校の新校舎が落成。現在も10名の幼稚園児と小学生が面河地区におり、渋草は子どもたちが集まる場所にもなっています。

平成22年に新校舎となった面河小学校
かつての面河中学校から建て替わる形となった
こちらも完全バリアフリーの建物となっている
(令和6年3月撮影)


 行政機能についても、旧役場庁舎を取り壊す関係で、令和元年(2019年)に住民センターへ統合してはいますが、久万高原町役場面河支所という形で残っています。(※5)

 少子高齢化のあおりをうけたことで、昭和の時代から形は大きく変わったかもしれません。ですが、現在でも渋草地区は、時代に合わせた形で中心部としての機能を果たしています。


まとめ

 ここまで、明治23年に渋草地区が面河の中心部となってから、昭和時代には様々な発展をとげた様子。そして、現在も形を変えながら中央機能を残している様子を見ていただきましたが、いかがだったでしょうか?
 どんな地域でも中心部の機能性は重要ですが、渋草はその役割を十分に果たしているかと思います。

 これからの面河地区や久万高原町がどのように姿を変えていくのかは定かではありません。ですが面河地区が続いていく限り、渋草はこれからも中心部として面河全体を支えてくれることでしょう。

国道494号線の道路標識
現在は久万高原町渋草として存続していることを示している
(令和6年3月撮影)


【注釈一覧】

(※1)関戸1994によれば、大成に戸長役場が設置されたのは、一時的だったとされている。
(※2)分校とは言え、渋草校は初めに設置された5校に含まれていた。また、明治10年には青嵐橋が設置されていたことからも、渋草は“全く発展していなかった地区”とは言い難い。役場設置以前から人口のまとまりは良かったと考えられる。
(※3)道路元標とは、元は旧道路法によって設定された道路の起終点のこと。大正8年に道路法が施行されて以降は、各市町村に一つずつ設定されていた。
(※4)重見丈太郎氏が、水力発電によって芝居や活動写真に電燈・電気を供給した記録が残っていることから、常小屋自体は昭和9年以前には存在していたことがうかがえる。具体的にいつからいつまで存在していたかは現時点で不明。
(※5)住民センターへの統合は令和元年に行なわれたが、旧役場庁舎の建物の取り壊し自体は令和3年(2021年)に実施されている。また翌年、跡地は駐車場として整備された。

【参考文献】

・面河村誌(1980年・面河村)
・大成の自然と人文(1992・長岡悟)
・焼畑山村における林野の社会的空間構成と主体的土地分類―愛媛県面河村大成を事例に―(1994年・関戸明子)
・渋草小学校開設50周年記念誌・面河中学校創立50周年記念誌「こころの芽」(1997年・渋草小学校、面河中学校)
・閉村記念誌 刻を超えて(2004年・面河村)
・えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ―久万高原町―(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)(2013年・愛媛県教育委員会)
道路元標とは (ifdef.jp)

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