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社会不適合者の能力特化論 ~前置き~

Raimuです。

自分は普段は『哲学思考のなれの果て』というブログで
サイキック研究とか占星術とか神秘思想とか宇宙論の研究とか、
どちらかというと怪しげなことを専門に書いている者ですが、
もうちょい役に立ちそうなことを書きたい!

・・・ということで、
「社会不適合者の能力特化論」というテーマで
テキストをnoteの方に書いていこうと思います。

社会不適合者とは何か?

社会不適合者について語る場合、
まず、社会不適合者とは何か?についてから始めるべきでしょう。

そんでもって、「社会不適合者」って言葉が指すものって範囲が広いよね。
ってことがまず言えるので、「範囲がとても広い」が前提にあります。

あと「発達障害」って言葉とかもありますけど、
これも「とても広いもの」と言えます。
結構重めの発達障害もあれば、「広汎性発達障害」と言われるものだと一般人もいくらか混ざるぐらい広くなってきます。

ちなみに自分はこの本とかが好きです。↓

上記の本『発達障害の僕が「食える人」に変わったすごい仕事術』(借金玉著,KADOKAWA/中経出版)から引用すると、
発達障害については以下のように書かれています。
(熊代亨さんによる解説の所。図も先の本より引用)

この本をお読みになった人の中には、発達障害と、そうでない人との境目が曖昧だと感じた人もいらっしゃるでしょう。その認識は、全く間違っていません。
そもそも、ASDにせよADHDにせよ、発達障害とは、スペクトラムな概念です。
つまり、白黒はっきりつけられるものではなく、定型発達(いわゆる正常)
定型発達(いわゆる正常)との間には無限のグラデーションがあります

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ちなみに、「発達障害」は「社会不適合者」に含まれると定義づけても良く、「社会不適合者」の一種が「発達障害」と言えます。

・・・そんでもって、「社会不適合者」とは何なのか?
ざっくり言うと「社会に適合するのが得意じゃない人」ということになります。
これだけだとフワっとしていますが、
ここで、「絶対無理な人」「すごく苦手な人」「そこそこ苦手な人」「得意じゃない人」あたりに分けられると言って良いでしょう。

あと逆に、「社会適合」とは何なのか?
オーソドックスな基準に「サラリーマンになって生活できる人」とかがあり、次点で、「バイトで良いからなんとか生活できる人」とかがあります。
要は「これらが苦手」の要素があると、それは「社会不適合者」と言えます。

で、中でも特別なのは「精神病持ち」です。
「双極性障害(躁うつ病)」とか「統合失調症」とか、専門的な病名が色々あります。
医者から診断を受けた場合は「医者のお墨付き」の社会不適合者ということになります。

つまり、ざっくりと以下の要素をどこまでどっぷり持ってるかで、
どこまでどっぷりした「社会不適合者」かが決まっていくわけです。

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「持ってる社会不適合要素は重いんだけど、生活はできてる人」とか、
「持ってる社会不適合要素は軽いんだけど、生活はできてない人」とか、
世の中には星の数だけ色々な人がいるけど、
とりあえず、軽いものから重いものまで何かしらを持ってれば、
何かしらの「社会不適合要素を持っている」ってことになるということにしましょう。

「集団行動」について

それから、「社会適合か否か」を判断するにおいて重要なのは
「集団行動」がどこまで得意かという問題です。
結局の所、人間ってのは言葉を使ったコミュニケーションや、
他者と連携していく能力で他の動物を圧倒しているし、
食べ物を得るためにも、食べ物を生産してる人との物々交換や、
食べ物を得ているコミュニティの中での生活が必要になるから、
「集団行動」は生きていくための生命線になっていきます。

そうした中でも現代社会の場合、10代やそれ以前あたりの年齢だと普通の人が多くを過ごす場所は「学校」なので、
「学校におけるスタンダードな生き方」が重要となり、
「学校のスタンダードに合わせた集団行動ができる人」が「社会適合」ってことになります。
これが社会に出ると、「サラリーマンをして生活できる人」がスタンダードになるわけです。

「学校で求められる集団行動」と
「社会に出た時に求められる集団行動」ってのは実は違うから、
学校で求められる集団行動ができなくても、
最終的には社会に出た時に求められる集団行動ができてればそれで良いんですけど、
その辺の話をするとまた長くなるので置いといて・・・

要は「世の中のスタンダードに合わせた集団行動」がどこまでできるかっていうのが、「社会適合」がどこまでできるかの指標になるわけです。

内向タイプと外向タイプ

あと、「内向タイプ」「外向タイプ」についてが重要なので書いておきたい。

これはカール・G・ユングという心理学者が『タイプ論』の中で提唱したもので、抽象的な言い方すると「心のベクトルが内側に向かってるか、外側に向かってるか」によって分かれるタイプです。

もうちょっと分かりやすく説明すると、
心のベクトルが外に向いた場合、人の意識は「適応」を第一優先とし、何も考えずにどんどん行動していきます。他者の視線に敏感で、周りの状況に瞬時に適応できます。
心のベクトルが内に向いた場合、人の意識は「内省」に向かうか、あるいは、外を観察した時に「ちょっと待てよ……」という意識が働きます。

以下、内向タイプと外向タイプの特徴を表にしたものを張っておきます。

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ちなみに、この二つのタイプは、
どちらかはっきり二つに分けられるというより、
一人の人が二つの要素を多重に含んでいることがよくあります。
「自分のここは内向的でここは外向的」とかも、結構あることなのを考慮しておきましょう。
(極端に外向的な人、極端に内向的な人もいますけど)

人によってはこの二つのタイプの関係は複雑に入り組んでいます。
アーティストや作家とかは内向タイプの要素が必須の職業ですが、ちゃんとお金を稼いで生活する場合は外向タイプの要素が必須になります。
起業とかをしてお金を稼ぐには外向タイプの要素が必須ですが、既成概念にとらわれない動きをしたり、色んな人の心についてちゃんと考えたり、先見の明が必要になってくると内向タイプの要素が必須になります。

それから、内向タイプのように「内省」に向かっていることがある人でも、あくまで「世の中のために自分はどう反省すれば良いか」って方に向かう人は外向的な要素を持ってると言えます。
筋金入りの内向タイプというのは、ひたすら「自分とは何か?」に向かうものです。

外向タイプとスタンダードな生き方

さて、先ほどの「世の中のスタンダードに合わせた集団行動」の話と「外向タイプ」の話はとても具体的に繋がります。

外向タイプは心のベクトルが外に向いていて、「適応」を第一優先として行動します。そしてその場合、最も楽に適応する方法は「周りのスタンダードに合わせて集団行動していくこと」です。
その生き方は集団行動に長けた人間という動物の生き方の最適解と言って良いでしょう。

「スタンダードに合わせる」は生存における一つの絶対的な答えであり、
さらにその中で競争する必要があったら「一番を目指す」という発想になるでしょう。

外向タイプの特徴として言えるのは、
そうした「世の中のスタンダード」に迷わず合わせて生きていることです。

そして、逆にそこで「迷う」のが内向タイプだということにもなります。
心のベクトルが内側に向いてるが故に「ちょっと待てよ……」となり、別の答えを探ろうとします。

そんな内向タイプの性格は「スタンダードに合わせない」という意味で、
「社会不適合」ってことになりやすいわけです。

社会不適合=生存不利とは限らない論

さて、ここまででざっくりと、
内向タイプ=社会不適合になりやすいってことを説明しました。

とはいったものの、
内向タイプはあくまで生きるのが絶対的に苦手なのではなく、
周りの状況に対して「ちょっと待てよ……」と出遅れたり、
スタンダードから外れてみる動きをしたり、
「自分とは何か?」という問いかけをしたり、
周りの状況についてじっくり考えたりするのが得意な性格です。

実は、内向タイプの方が先々のことを考える性格なので、
ある意味では生存に有利⇒実は世の中に適合できている?
みたいな話もあります。

外向タイプは「世の中のスタンダードに迷わず合わせて生きている人」と書きましたけど、
「世の中のスタンダード」が「間違ってる」とか、
「世の中のスタンダード」が「生存に不利なものになってる」とか、
実は本当によくある話なので、
「生存有利=社会適合」論というのは、よくひっくり返る話です。

そもそも、人間っていうのは「自分の周り」を「社会(=世の中)」と勘違いしがちだし、
「自分の周りのスタンダード」を「世の中のスタンダード」と勘違いしがちなんですが、
自分の周りの価値観ってのは狭い価値観に過ぎないこともあって、
普通に間違ってることもよくある話です。

筆者(Raimu)が個人的によく考えるのは、これは主に高等教育に該当する話ですが、
「学校で教えてることって、世の中の役に立たないよね」論とかです。

初等教育のあたりは常識を学ぶ場なのでまぁまぁ良いと思いますが、
高校で習う科目となると、どんどん専門的で世の中の役に立たなそうな内容になっていったり、将来仕事をしていく上で役に立たなそうな内容の勉強がほとんどになり、
さらには大学受験や受験産業によって、役に立たない勉強を無理強いするような状況にまでなっています。

自分は成り行きで進学校にいた人間ですが、
この問題については昔から引っかかってたし、
考えれば考えるほど確信を持つようになっているので、
疑問を持つ方が正解のように思います。

あと、人間関係や集団行動においても、
学校にいる時は「同年代で盛り上がれる人が強い」というのが正解ですが、
社会に出たら「年齢が離れた人とチームで連携できる人が強い」というのが正解という説があります。
これもとても的を得ていると思います。

こういうことは、つまり「学校のスタンダードは社会ではそんなに役に立たなかった」ということなので、
「特定のスタンダードが間違ったことをしている」ということの一例です。

それから、舞台が「学校」から「企業」に変わると、
特定の企業が「生産効率を上げるのに良くない決まりをスタンダードとして採用してる」といったこともあります。
特に大きい企業それを採用していた場合、「大きなスタンダード」が間違っているということになります。

ただ、企業の問題は企業によってルールが違うとも言えるので、
ちゃんとした決まりを設定していて生き残っていく企業もあるでしょう。

そんな中で「あれ?これは違うのでは?」と気付いて行動するのが、内向タイプの要素を持つ人の役割なので、
内向タイプは「社会の役に立たない」とは一概に言えなかったりするわけです。

「学校のスタンダード」とか「企業のスタンダード」がある中で、
「あれ?こっちのスタンダードでは社会不適合とされたけど、こっちのスタンダードだとそれなりに有利だ」ってことがあります。
視野を広げると「色んなスタンダード」があり得るのが「世の中」ってやつなので、そういう視点も大事になるわけです。

(ただ、どの学校もどの企業も採用してるような、究極的な「絶対的スタンダード」というのもあるかもしれません。そういうのを考えてみるのもアリだと思います。)

まとめ

以上の話をまとめると、
「社会不適合」って要素には色々とあるけど、
「社会不適合=生存有利」なこともあります。
なぜなら、「社会」といっても人はそれぞれ「自分の周り」をそう認識しているに過ぎないし、
周りが間違ってるから生存不利ってことは普通によくあることだからです。

 
さて、そんな話でしたが、これまでの話は「前置き」でした。

次回から本題の「特化論」の話になります。

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