芸専アドカレ三日目 こころが溢れるとき

久しぶりに本を読んだ。
言葉をなぞるのが心地よく、頁を捲る手つきも自然と柔らかになる。

福原麟太郎の『四十歳の歌』に、夕陽を「熟れる」と表現する箇所がある。初めてこれを目にした時、鮮やかに熟してとろとろとした実が重みを持ち、ぼとりと落ちて夜をもたらすような印象を受けた。


なんとなく惹かれるものを大切にしたいと思う。
好きではなく「惹かれる」という表現を選んだのは、「好き」というはっきりとした意思表示ではなく、さらに感覚的なところにまで肉薄したものを指すからだ。

この夕陽の文章も、わたしがなんとなく惹かれるもの一つである。
何かに心を傾けているとき、皆はどのような感覚になるだろうか。
私は胸のあたりがぴりぴりと痺れるときもあれば、視線が自然に留まって動かなくなるときも、体の感覚がなくなり意識だけが存在しているようなときもある。そう、本当に、感覚によって体感せざるを得ないのである。

私はこうした体験を、個人的に「溢れる」と表現している。
このnoteのタイトルにあるように、今回は「溢れる」ときについて書く。こうした感性が私の芸術の思想に関連しているので読んでいただけたら嬉しい。

普段お粗末なレポートを書き連ねている私が述べるには不相応であるが、文章を書くことは好きである。もっとも私には文才などなく、文章を書くというよりは言葉を並べ替えてひとり遊びをしているという感覚に近い。月を指せば指を認むような、と言えばよいのか、要は本質を理解しないままなのである。

私には惹かれるものがたくさんある。
雪のように洗練されているのに確かな質感を持つ文章だとか、ちいさく折れて挫けそうな人が泥臭く立っている姿だとか、端正に折られて便箋に入れられた一通の手紙とか。


美とは、わたしたちに唯一許されている差別だと思う。
インターネットに蔓延るルッキズムや学問として体系化された芸術を肯定するような話をしているのではない。そういった画一化された概念とはまた別に、その人だけに「溢れる」ものがそれぞれにある。それを感じることが許されている。

この世界の皆に、他の誰にも刺さらなくても、確かにこころが揺れる瞬間があるのだ。



私が作るものはとりとめもないものが多い。この文章もそうであるし、自分の過去の作品も他人から見たらつまらないだろう。
思いを込めて作った作品がそのままの意味で相手に伝わるとは限らない。相手のために織りなした言葉が煩わしいと退けられることさえある。

高校時代は伝わらなくてもよいと思っていた。人間関係も、仲の良い友人にも自分の気持ちをあまり開示することなく閉鎖的だったように思う。作る・伝えるということは自己満足的な行為であり、相手に正確に受け取ってもらうことを期待していなかった。それはある種の怠慢でも、諦めでもあった。から頭が自惚れで膨らんでいた時期である。

ここで挙げた溢れるものは、友達に「○○っていいよね〜?」と問うて「わかる〜!」と同意を求めるものでもない。
あまりにも些細な感覚だ。
こうした感性が、作品として、日々の過ごし方で滲み出て相手に伝わっていたりしないかとは思うけれど。


芸術などという高尚なものが私にはわからない。
なにせ芋の煮えたもご存じない、柚の木に裸で上るような人間である。

しかし美しいと思う瞬間は確かにある。
私は矮小で小市民的な存在であると常々思っているが、こうした機微を感じ取ることができることを嬉しく思う。

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