子どもに対する視点と視座を意識的にずらしてみる
毎日一緒にいるからか、子どものことは見えすぎる。
それに加えて、親と子という距離の近さもあり、勝手に大人側が子どもの心配を先取りしたり、自分の不安を投影してしまうようなこともある。
気付くと子どもに対する見方が、固定化したり近視眼的になりがちなのだ。
と、いうことにスクールカウンセラーの先生と話していて改めて気付く。
スクールカウンセラーの先生とは、小3長男が学校に行かなくなってから毎月面談をしているのだけど、帰り道に安心感があるのは、話をしてなにか問題が解決したわけじゃなく、問題と思っていたものの捉え方がかわって、そんなに問題じゃなく思えていることにあるのだと思う。
自分自身のリフレクションをするときのように、子どもに対する見方も意識的に、視点をかえたり、視座をずらしてみると、見え方や捉え方がかわる。
当時困っていた長男が学校に行けないということも、学校に行く前提の視点でみたら問題であるけれど、別の視点からみたら自分の主張ができるとも捉えられるし、本人の負荷が高くてSOSを出しているとも捉えられたりする。
他者、とくに子どものことの場合、家庭以外の人と話すことで自分になかった視点を獲得しやすい。
いま思えば、長男がいよいよ学校に行けなくなった頃、スクールカウンセラーの先生はもちろん、お子さんが学校に行っていない知人友人や、お子さんが不登校をへて学校に通うようになった知人友人など、さまざまな人に夫婦で話を聞いたことは、そのときの長男の状態を捉え直すきっかけになった。
学校に行けないという状態も、視座をかえると見え方がかわる。
時間軸という視座をずらせば、いまこの瞬間に学校に行けないとという困りの大きさと、長い人生の中で見たときの学校に行かないことの意味、無理に学校に行くことでうまれる可能性のある長期的なデメリットがあったりという観点がある。
社会構造やトレンドという視座でみたときに、不登校は増加傾向にあり、同じような境遇の子どもたちが実はたくさんいること、文科省の方針として学校に通うことがゴールという考え方はしていないこと、なかなかアップデートしにくい学校のシステムと時代のギャップがうまれていることを知ると、実は長男ひとりの問題ではないということがわかってくる。
そんな風に、視点と視座をずらしてみると、一気に視野が広がって見通しがよくなるのだ。
とはいえ子どものことになると、意識してもなかなか視点や視座をずらすのかむずかしい場面もあって、そんなときにスクールカウンセラーの先生はそこをサポートしてくれているんだよなぁと実感する。
適切に外部の力も借りながら、子育てをしていけるといいなぁと思う。
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