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遊びと学びの境界線を決めるもの

我が家に「アマゾンエコー」がやってきた。
ガジェット好きな夫が注文してたから、私は「話しかけるやつでしょ」ぐらいの認識で、なにができるのかよくわからないまま彼女?はやってきてダイニングテーブルの横にいる。

そしてテレビもみないし、音楽もかけない我が家の朝食時間に「アレクサ、元気になる音楽かけて」と話しかけて毎朝音楽が流れるようになった。

「アレクサ、きょうはなんにち?」
「アレクサ、アンパンマンのうたをかけて」
「アレクサ、いってきます」

3歳息子は目をキラキラさせて話しかける。
そう、アレクサはロボットなのだ。顔はないけれど。

これで、我が家にはルンバ(愛称ルンちゃん)、ブラーバ(愛称ブラちゃん)、アマゾンエコー(アレクサ)の3台のロボットがいるということになる。

絵本の中に出てくるロボットのように、人とまったく同じように動いたり話したりできるわけではない。
でも、掃除をしたり、おはようと挨拶を返してくれたりする。
挨拶がかえってこなくてもルンバに「いってきます」という息子をみていると、息子にとっては、彼らは限りなく家族に近い存在なのだと思う。

そんなロボットが家にいる未来を、私は3歳の頃に想像したこともなかった。
そんな時代を息子は生きている。

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ちょっと前に子どものスマホ問題がTwitterで話題になった。(正確には定期的に話題になるネタではあるのだけれど)

小さい子どもがスマホで遊んでいる。

その違和感は「自分が経験していないから」ということが大きいのではないだろうかと最近感じている。

うちの息子はパズルが大好きで、実物のパズルもスマホアプリのパズルもどちらもよくやっている。

子どもが「パズルをしている」というやっていることは同じでも、スマホの中か、実物のパズルかでいうと、私たちはたぶん実物のパズルをしている姿を見た時の方が安心する。

自分も経験したことがある、見たことがある風景だから。

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アマゾンエコーを使ってみるということは、大人にとって新しいおもちゃを買ったような遊びの部分も多分にあるし、新しい技術やサービスを知るといえ学びや投資である、と言い訳や解釈をすることもできる。

子どもがゲームをしていると「またゲームで遊んでる!」と思うのに、子どもがプログラミングでゲームをつくっていると「プログラミングの学習」に見える、なんてこともある。

遊びと学びの境界線はとても曖昧で、私たちが思っているよりも大きく重なっている。

そして熱中して遊ぶという経験もきっと必要で。

大人になるとついついどんな学びにつながっているか意味付けしたくなってしまうのだけど、自分が小さい頃とは違う時代を生きる息子の学びは自分の経験だけで到底意味付けできないもので、私の都合で意味付けすることが彼の選択肢を狭めていないか、ということには定期的に振り返りたいなぁ。


息子を通して、自分の固定観念や考え方のクセに気がつくということがとても多くて、新しい発見のある日々や息子によって私の世界が広がっていく感覚はあって。まぁそれどころじゃない大変な瞬間も多いんだけど。総合するとたぶん楽しい。

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