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保育園の美術作品を通して見えてきた、息子の世界

息子が保育園生活最後の「作品」を持ち帰ってきた。

年少の頃から月に1回あった、外部の講師の先生を呼んでの美術表現の時間。

先生に直接お会いしたことは一度もないのだけど、毎回息子が持ち帰ってくる作品とそれについている今日のクラスについてのかんたんなお手紙は、私に新しい視点をくれ、息子がもつ世界を知る機会をくれた。

絵を描くのが大の苦手な私は図工も美術も気が重い授業だった。何かを描くにせよ、作るにせよ、自分がイメージしているようにできないし、そんな自信がもてないものを掲示されるのは苦痛でしかなかった。

「美術」は自分とは関係のない、遠いものだと感じていた。

息子が生まれて何かを書いたり作ったりするようになったとき、わたしが息子にかけれらる言葉は「じょうずだね」。
それが年相応かどうかは別として技巧に上手かといえば上手なわけでもない。上手だと思ってるわけでもないのに、それしか言えない。私はフィードバックする言葉をそれ以外に持っていなかった。
いま思えば「上手いか、下手か」という基準しか知らなかったから。

だから年少の1番最初の美術表現のクラスの手紙を読んで、息子と話してみて、とても驚いた。

その日のテーマは「宇宙」。
子どもたちはカーテンを閉めて暗くした教室で、宇宙についてのお話を聞き、宇宙を想像し、作品をつくったそうだ。
そして出来上がった作品をみんなの前で発表し、素敵だと思うところをお互いに伝えあったのだという。

そして、『おうちでも「これはなに?」と聞くのではなく「好きなところはどこ?」と聞いてみてください』と書かれていた。

その内容はもちろんのこと、そうか感想を伝えなきゃとおもっていたけれど本人に問いかけてみるという選択肢があったのか…。

持ち帰ってきた作品をみながらさっそく息子に聞いてみる。

その頃には「じょうずだね」と言っても、「べつにじょうずじゃないよ」「○○ちゃんの方がじょうずだよ」と言うことが多くなっていた息子がしゃべるしゃべる。

ぼくがすきなのはここのくろいろなんだよ。くろはかっこいいからすきなの。ここはね、こうしてああして・・・それでねここがね・・・と、とまらない。とてもうれしそうに語っている。

見えないけれど、3歳の息子の中には彼の世界があって、豊かなその世界をのぞいて見せてもらっているような感覚になった。それはとても素敵な経験だった。

それに対して、思ってもいない言葉をかけるなんてことはできない。

「ままは、ここがすきだな」

作品を指差しながら嘘のない気持ちを伝えたら、息子は得意気な顔でその部分についてまた話しはじめた。

6年間の子育ての中でも忘れられない印象的な1シーンだ。

それ以来、息子が作った作品を見ながら一緒に話すのがとても楽しみになった。

そして「うまくかけないから」と絵を描くことを避けていた息子も、3年たったいまは毎日のようにオリジナルの怪獣の絵を描き、レゴやダンボールをつかって自分の作品をつくり続けている。

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「作品をとおして表現する」ことはとてもパワフルだ。

クラス全員の作品が並べられているのをみると、そこにはひとりひとりの世界が見える。上手い下手で語ることなんて到底できない個性がそこにある。

表現をすることをとおして息子は周りの誰かと比べるのではなく、自分がイメージするものを形にする経験を重ね、自信を得ていった。

そして「作品を通して対話する」ことはお互いを深く知り交換しあうような時間だ。

対話をおとして、目の間にある作品を見ているようで実は見えていないことに気付く。そこにある意味やこだわり、好きなところ。知ることで作品の新しい見え方がうまれる。その見方の中にその人がいる。

息子の美術表現の作品から、私はそんなことを学ばせてもらった。

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