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不登校というマイノリティ性

マイノリティになって見えること、というのはけっこうある。

それまで分かってるつもりでいたけど、ぜんぜんわかってなかったなと思うようなこともある。


我が家の小3長男は学校に行っていない。

不登校の子どもは毎年増えている。
だけど、割合からしたら学校に行っていることがマジョリティにはかわりない。

息子自身もそこにマイノリティ性があり、わたしには不登校児の母というマイノリティ性が加わることになった。


学校に行けない期間をへて、学校に行かないというのを決めて、学校に行かないことが問題ではなく、それに付随するさまざまなことに困りがたくさんあるのだとわかった。

それは学校に行かないことがマイノリティであるからこその悩みであり困りとも言える。

例えば、学校に行かない代わりの平日日中の子どもの居場所はほとんどないし、学校の代わりとなる場所の情報を集めることもたいへん。
いくつかあったとしても通学距離や内容など選択が難しいことも多い。通うとなっても補助などがあるわけではないので全額自己負担。経済的な問題で選べないということも起きる。

学校に行かないと学習に対するサポートも素人の親の役割になる。これもこれでまあまあたいへん。

そしてこういった状況は、当事者にならないとわからないことも多くて、相談したり共有できる人がとても少ないと感じる。


息子が学校に行かないことは親として不安もゼロではなく大変さもあるけれど、それでも学校に行かなくなったことで元気になった様子をみていると、行かなくなってよかったとも思う。

だけど、なにかのタイミングで子どもは学校に行ってなくて…と言うと、すごく気まずそうな反応をされたり、求めてないのに励まされたりすることもあって、なんというか不登校はまだよくないもの、かわいそうなもの、でもあるのだと思う。


昔からの知人が不登校の親になったと聞いて久しぶりに話をしたら、似ている状況も多くてお互いに首がもげるほどうなずきながら話していた。

わたしは身の回りにお子さんが不登校という知人友人も複数いて、息子が学校に行けなくなってしまったとき、話を聞かせてもらったり話を聞いてもらってとても助けられた。

今回もそうだけど、マイノリティ同士で話をすると、そこにはなんというか孤独になりがちなマイノリティの仲間が見つかったような安心感や心強さのようなものを感じるのだと思う。




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