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自分の常識を再定義!〜年齢編〜

こんにちは。
最近、自分にとっての当たり前は自分の経験や背景から生まれる、だから皆が同じ常識を持っているとは限らない、という学びを得ました。
そんな訳で、自分にとっての当たり前をもっと理解して、人にも伝わるように自分の言葉で再定義していこうと思います。

今回のテーマは、”亀の甲より年の功”です。
つまりは、年齢と敬いの姿勢の自分なりの考えをシェアします。

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人と人の関係性を考えると、仕事などを中心に上下関係が生まれる瞬間は存在すると思います。
これについて自分は高校まで上下関係は年齢によって無条件に生まれるものという認識で居ました。
(部活の先輩とか、先生が世界の中心であったことを踏まえて。)

ただ、大学に入ると18歳で入学する人もいれば浪人して20で入る場合もあり、同じ学年なのに年齢がバラバラという現象が発生します。

自分も浪人生なので実体験として言えますが、年齢なんて本当に関係なくなります。
浪人生と現役生は年齢が違うという条件自体は高校時代と変わらないはずなのに、上下関係は存在しません。
無くなる理由は環境の変化などさまざま考えることができると思いますがここで考えたいのは、なぜ高校時代はわずかしか違わない先輩に対して上下関係が存在していたのか、という点です。

自分としての答えは、
”学ぶべき対象がいる事”が上下関係を生み出すのでは無いかと考えました。

上下関係という表現は好きではないのでここからは学びの師という表現で書きたいと思います。

部活の先輩から技術や練習を学ぶ、
先生から社会のことや勉強を学ぶ、
それぞれの道で自分より経験が長い人たちからの知恵をいただく。

そんな人から何かを学ぶ際の姿勢が自然と師弟関係を生み出していったのではないかと思います。
そう考えると自分の中で師とのあり方がスッキリと腑に落ちた感覚になりました。

(こういうのも変ですが)大学の同期にとって自分は友人の1人でそこから何か学びを期待しているわけではない。
だから年齢が違っても師弟関係は発生しないのではないでしょうか。

僕の場合、そもそも知っている人たちの世界が狭かったのと、高校まではそうした学びの師が年上であるケースが多かった為に、年上=師匠という認識にすり替わっていたのではないかと思います。

余談ですが、最近フィンランドの教育についてお話を伺った際に、フィンランドの教育は日本と学年の捉え方が違うと聞きました。
フィンランドは個人の進度に合わせて学年を重ねていくので日本のように年齢=学年にはならないそうです。
小さい頃から、年齢で括られない環境では僕が感じた年上=師匠の感覚とは違った意識が生まれるのだと思います。
教育って人の根本を作り出す部分だから、世界で物事の捉え方比較をしても面白そうだな、なんて思います。

話を戻してまとめに移ると、
”亀の甲より年の功”は簡単にいうと年長者の豊富な経験は貴重であり尊重すべきものという意味ですが、僕は年齢に限らず人の経験は尊重することが大切だと考えます。

経験値が自分より高い人は確実にいて、これから社会に出ればそれが年下である機会も非常に多いのではないかと思います。

そうした時に、経験値のある人=学びの師という考え方でいると、自分や相手の肩書に惑わされずに素直に教えを乞うことが出来るのではないかと思います。
浪人生として大学で過ごして思うのは、年齢という自分のメンツにこだわっても得られるものは何も無いのではないかということです。

どんな所でもどんな人でも自分にとっての師になり得る人はいる。
そんな考えでいれば、優秀な年下に嫉妬する事も、ギャップに苦しむ事も無いように思います。

当たり前の考えだけど、自分の言葉に直すとこんな表現になるのかなと思います。

今回の内容はここまでになります。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

ライ

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