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てんぐの読書感想:月は無慈悲な夜の女王〜ハインライン、“革命”についてかく語りき

「宇宙の戦士」を先日読んでハインライン作品に興味を持ったので、今度はそれと対を為す傑作と言われる「月は無慈悲な夜の女王」を読んでみました。

 右派またはタカ派の「宇宙の戦士」に対して左派的な作品と言われる「月は無慈悲な夜の女王」ですが、実際に読んでみると、その世界観における地球の位置づけを“我々”側とするか“敵”とするかの違いしかなくて、根本的には「自分が生存する権利は自分自身が代価を支払って手に入れろ」という主張自体には差異がないことに気付きました。
 そして、この主張を身も蓋もないくらい明確に示してる言葉が、「タンスターフル」、即ち無料の昼食は存在しないThere Ain't No Such Tings As a Free Lunchという、月世界独立革命のシンボルとなった言葉です。
 ちなみにこの言葉、ごく普通の格言として実在します。

 ハインラインに対しては、「作品は面白い、科学としての倫理観についても支持する部分は多い、でも政治思想的には七割方一致しない」というスタンスをてんぐは取っています。
 ハインラインは明確にリバタリアンですが、てんぐは社会自由主義と社会民主主義を行ったり来たりという具合です。

 何にしても、人類は無から何かを作ることができない以上、「昼食」を無料にすることはできても、それを作る段階で代価や代償が要求されることを否定する人は、そう多くないでしょう。それを事実として受け止めると、作中での言葉自体には理解できました。

 ただ、そこで「公共の運営者たる政府の権限によって“昼食”=社会サービスを果たさせるために社会を構成する人々は税金という形で“昼食”の代価を支払っていくべき」というのがてんぐの考え方で、「政府に徴税という権利を与えれば、そこを皮切りに市民の自由を圧殺する権力が生じる。だから税金やそれを取り立てる政府や法律は極力排して、自由な市民と市民がそれぞれ自分が必要とするものを代価を払って手にしよう」というハインラインの作中での回答とは、この点では全く正反対になっています。あるいは、この作品における月世界革命の理想像は、アメリカの開拓者社会ってことになるんでしょうか。

 と、このように自分と作者の強く合致する部分から先の論理展開において正反対の回答が出るというのが、ハインライン作品を読む上での、個人的な楽しみなんだなと強く感じました。

 また、「無料の昼食は存在しないタンスターフル」以外の、社会科学SFとしての面白さとしては、まずは月社会における女尊男卑精神とその成立経緯が挙げられます。

「宇宙の戦士」でもそうでしたが、ハインラインにとっては「人種差別と男尊女卑は非倫理的である以前に非科学的である。つまり、これを信じ込む奴はアホだ!」というところなのでしょう。この点が揺るがないのが、どんな主張をされてもハインライン作品が好きになる理由なんですよね。
 その上で、月世界における女尊男卑精神と習慣はいかにして成立したかも、地球社会からの流刑者や追放者同士の、数少ない女性を取り合っての殺し合いが横行した月世界の凄惨な黎明期に積み重ねられた教訓の末に自然に成立した、という回答には説得力がありました。まあ、「女性に同意もなく触るような男はエアロックで真空の月面に放り出せ!」は明らかに度が過ぎてると思いますが。

 話の本筋の「極小の革命勢力が、政治に関心を持たないでいる大衆を自発的に革命に参加させつつ、自らの制御下に置くか」「総人口比だけでも1:550くらいの差がある帝国を相手に自分たちの独立を認めさせるか」という、「ハインラインの語る革命の実践論」も面白いです。
 主人公マヌエルが持つエンジニアのスキルを活かして、自分たちで作り上げて運営して圧制者を構造として出し抜き続ける精密機械のような組織を構築していくときの高揚感は、「数学者が数式に美を見出す気分ってこんなだろうか」って思いました。ハインラインがSF作家を志向したのも、この種の美に対するフェチズムを感じたからなのかなあ。
 でも、単なる知的犯罪ではなく一地域の革命を志向する以上は、必ず大衆、または世界という混沌と直面することになります。そうなったとき、秩序に対するフェチズムを通せるわけはないんです。

 そう考えたときに、てんぐが思い出すのが、中国ドラマ「成化十四年」のラスボス李子龍です。

 月世界の革命家たちにも劣らない恐るべき智謀と人脈、そして冷徹非情さを兼ね備えた李子龍を前に、主人公たちは何度も何度も苦杯を舐めさせられました。
 しかし、李子龍は最後には敗れ去ります。
 正邪、賢愚、華夷、何より官と野。そういった相反するもの同士によって満ち溢れていた明代という世界の混沌は、皇帝や廷臣たち、そして陰謀家といった個人やその周囲の人々といった少数の人々で制御することなど到底できる代物じゃない。にも関わらず、李子龍は「自分は天下すべてを制御できる」と自惚れてしまった。だから彼の乗った船は明代の混沌の波に覆されてしまったのだとてんぐは考えています。

 ちなみにこのドラマ、HuluAmazon Primeでも配信されています。

 月世界の革命家たちも、下手をすれば、世界の混沌に船を覆されてしまったかもしれなかったんですよね。

 また、「革命とはギャンブルである」という言葉も浮かびます。
 巨大な帝国を相手に革命というギャンブルを挑んで勝つには、相手に自ら賭けから降りさせる必要がある。バティスタ政権転覆後もピッグス湾事件などの干渉計画を巡らせていたアメリカが、最後はキューバ危機収拾のためにキューバへの不可侵を保証したことで確定したキューバ革命は、最良の事例でしょうか。
 また、イカサマもまた、確率からいえば圧倒的な不利を覆すのに欠かせません。マヌエルたちの革命も、その始まりから、地球の権力だけでなく月世界の民衆までを騙し続けるイカサマを重ねていたものでした。
 でも、どれだけブラフをかまし、イカサマを重ねても、必ずどこかでダイスを振り、カードを切り、牌を打つ必要はあるんです。それをやる勇気を彼らに与えたのは、月世界で一番関心があるのは賭け事という社会性なんでしょうね。
 賭け事と言えば、月世界の革命家たちの理論家だったデ・ラ・パス教授を相手に前年度優勝のヤンキースの連覇にマヌエルが賭けたら見事に最下位に沈没、「おれは途中から奴らの試合をテレビで見るのをやめた」と明らかに不貞腐れた気分になったくだりが笑えました。

 というか、今年の阪神が、そうなりかねないような情勢なんだよなあ。
 と心配していたら、最近は復調の兆しも出てきました。

 このまま眠れる虎は完全覚醒するのかな。

 さて、最後に述べたいのが、「自我を持ったコンピュータ」という後発作品のアイデアのルーツとなったのかもしれない、月世界独立革命の最強の武器だった“マイク”なんですが……これ、本当に自我を持ってたんでしょうかね?
 革命達成が確定した日の演説中に指導者だったデ・ラ・パス教授が急死した直後から“マイク”はもの言わぬ計算機に逆戻りしたって事実からは、実は最初から教授と“マイク”は一人二役だった可能性も浮かんできます
 教授がもし、マーク4号L型思考計算機を(超能力まで含めて)遠隔操作することができたとしたら、それは可能なはずです。
 そもそも教授は「三人以上となると、いつ食事をするかについても意見が合わず、いわんや、いつストライキをやるかなどについてはなおのこととなる」という理論の持ち主で、そして自己の理論に基づいた判断を通すためならば、その「三人」である同志たちすらも平気で欺き、情報を隠し、動きを操るマキャベリストでした。
 “マイク”の正体が教授自身だったからと考えれば、革命の始まりの組織は、教授が望んでいた通り「三人」のままだったことになります。

 この小説は何かを一言で語るとすれば、それは「ハインライン、“革命”についてかく語りき」となるでしょう。
 ハインラインにとって革命とは、「タンスターフル」であり、フェチズムの対象としての組織論とその実際的な運用論であり、イカサマとブラフを技術としたギャンブルであり、そして「一度目は面白い、二度目はつまらない」冗談ということなんじゃないでしょうか。


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