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てんぐのノイエ銀英伝語り:第33話 武器なき戦い〜メンターなき青年ヤン・ウェンリー

 今週のノイエ銀英伝は査問会編後半でしたが、その査問会は前座に過ぎず、本命は“個人”としてのヤン・ウェンリーと、“英雄”予備軍ヤン・ウェンリー、その双方を浮かび上がらせる2人の大人でした。


本来の「保守」政治家としてのホワン・ルイとジョアン・レベロ

「保守」というと、よく言って前例墨守、閉鎖的かつ退嬰的で、下手すると極右や差別主義と呼ぶべき者を包んでしまうオブラート庶民の望みを阻む強者による復古主義という印象も強い方も多いでしょう。
 でも本来の保守本流というものは、社会の維持と安定、そして社会が共有してきた文化の継承を前提としつつ、その社会に生じてる問題に対して改善を目指していく立場のことを指すんです。

 同盟政界における、そんな本来の「保守政治家」像に合致する政治家が、査問会内外からヤンを助けようとしていたホワン・ルイとジョアン・レベロです。
 査問会での飄々とした雰囲気や自らを「寄生虫」と楽しそうに認めるホワン・ルイからは、昭和の日本の政治家に見られる良い意味での俗っぽさを感じます。
 国会会期中であれば、金帰月来を習慣化して土日に選挙区の有権者と話をしたり、地域のイベントには必ず顔を出して、その積み重ねで選挙には自力で勝てる。だからその時々の覇権に対しても我関せずと自分を通せる、知る人ぞ知る名物おじさん議員ってタイプかな。地方議会からの叩き上げだとしても不思議はないです。

 ちなみに、「自分を寄生虫だと弁えられている保守政治家」というと、「ジョニー・ライデンの帰還」のゴップ議長も挙げられます。

 ジョニー・ライデンの帰還は、銀英伝が好きな人も読み応えあるでしょうし、この場を借りて改めてご紹介します。

 一方でレベロの場合は、ホワン・ルイのような政治家としての俗っぽさとは別の、専門的な知識と哲学が重要視される世界から政界に転じたというタイプに見えます。それこそ学会か、あるいは財務委員会などの官僚、報道関係者か政治評論家だった可能性もありそうです。

 どちらの「保守政治家」も、政治の不条理と不正義に声をあげた市民運動に対して誰もが冷淡というより目を逸らして日常生活に没入せざるを得なくなっているくらい悪化した末期同盟社会に対して、政治の世界から責任を持とうとしてる良識派です。
 視聴者としては、こういう“大人”の存在と価値観についても尊重すべきでしょう。そして、この2人をそのように描けるのが、「英雄ならざる人々」——ユリアンの戦友ピーター・リーマーと教官ベイトマン、ラインハルト体制の改革に悲喜こもごもの帝都オーディンの人々も同様です――をこそエピソードの主人公とできる作風ならではですね。

意外なところで見えたヤン・ウェンリーのズルさと弱さ

 帝国軍によるガイエスブルグ移動要塞襲来によって査問会から解放されたヤンですが、彼が真に「政治」、または「社会」と対峙させられたのは、その後のビュコック爺さんやレベロを交えた会食の方でした。
 自分を遥かに上回る、そしてより深く体系立てられた学識に基づいたルドルフ観と、それと現状の同盟社会、そして自分の立場。それら全てはヤンにとって実に耳の痛いものとなったでしょう。しかも、査問会のような低次元のイビリとは訳が違う、視線と態度と内容すべての正しさが揃っています。
 では、なぜレベロは、あの場で査問会の延長戦のようなことを言い出しちゃったのか。

 キーワードは、査問会から解放された際のヤンの捨て台詞、「帝国軍が襲来するときにわざわざ小官を前線から呼び出した件の説明はしてくれますよね?」でしょうか。
 フレデリカについて下衆の勘繰りされた挙句、しまいにはジャンとジェシカの死まで汚い足で踏み躙られたヤンとしては、あれくらいのことは言ってやらないと気が済まないでしょう。
 ホワン・ルイも「面白いやつだなあ」と喝采してそうですし、レベロにもそう話したでしょう。
 でもレベロは、これを「同盟軍の最重要人物である自分が文民政府の決定的な弱みを握った」という宣言だと解釈したんじゃないでしょうか。

 忘れちゃいけないのは、同盟憲章と市民に忠誠を誓ったはずの同盟軍が、憲章を停止し市民を虐殺するという反逆を働いたのは、ついこの間のことだということです。
 軍というものへの不信感は、レベロのような良識派の人物にこそ極めて増大していたとしても不思議はありません。
 だから彼はヤン・ウェンリーという、本人の意思だけでなくその環境まで含めて危険な存在になりつつある“英雄”予備軍に対して、嫌われるのも承知で正面から苦言を呈したんじゃないでしょうか。

 でも、その耳の痛い指摘の数々を前に、ヤンは精神的に耳を塞いで逃げてしまいました。
 そこにいたのは、石黒版の老成した賢人めいたヤンや、フジリュー版の暗黒大魔道士みたいなヤンとは違う、等身大の若者としての甘えとズルさをひきずった未熟な青年でした。
 レベロはこの段階ではすぐに矛を収めて自分から退散したのは、彼も彼なりに場の空気は読めるってことなんでしょう。
 で、正しい苦言を呈した側に空気を読ませて帰ってもらう。ヤンのズルさって、そういうところなんだと思います。

 ちなみにこちらがフジリュー版のヤン

 見よ、この宇宙の深淵を覗き込むような眼差しを。マジで怖え

ユリアンにはヤン提督がいる、ヤン提督にはヤン提督はいない

 先日、ハリウッドの名バイプレイヤーとして名高いジェームズ・アール・ジョーンズが亡くなりました。

 一昨日は故人を偲ぼうと出演作を見ようと思ったんですが、てんぐが選んだのは、ジャック・ライアンシリーズの第3作「今そこにある危機」でした。

 J・E・ジョーンズが演じたグリーア提督は、ワシントンでの汚い政治の立ち回り方と、彼曰く「雇い主」である合衆国市民への忠誠を両立させる道を、死の床についてもなおライアンに示し続けたメンターでした。
 ちなみに映画全体の出来は、まあ75点ってところかな。
 クライマックスでドンパチに逃げちゃダメよ、こういう政治と忠誠と正義が相反するって内容の映画でさ。

 で、そんなグリーア提督とジャック・ライアンを見ていて思ったんですが、ヤンにはこういうメンターっていないんですよね。
 本来ならヤンにもメンターとなりうる人物との出会いはありました。
 例えば、士官学校時代の校長で、ヤン自身も「食えない人だった」と評しつつ好感を抱いていたシドニー・シトレ。でも、この人をメンターとするには、ヤンって精神的な距離感もあったように思います。
 それが生じたのは、少佐時代に宇宙艦隊司令長官に就任していた頃のシトレの副官として参加したイゼルローン要塞攻略作戦でしょうか。

 この作戦では結局、シトレの作戦よりヤンの懸念の方が正しかったわけです。この体験は、ヤンにも「やっぱり人には頼れないのかな」という心理的な傾向を生ませることになったでしょう。

 ではビュコック爺さんはどうか。
 こちらは人格的にも経験においてもヤンは深く尊敬し信頼も寄せています。でも、こちらは心理的より物理的な距離がありすぎるんですよね。交流の密度がどうしても低くなると、メンターとして頼り導いて貰えるという経験もできないです。

 それやこれやを考えると、外伝2巻「ユリアンのイゼルローン日記」でのイワン・コーネフの、「ユリアンにはヤン提督がいる、ヤン提督にはヤン提督がいない」という言葉の深さがよくわかってきます。

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