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RAFTができるまで。vol.5

うちのはなし❺


さてと。
人生をかけた戦いを始めます。
モノ好きなひとだけお付き合いください🙇‍♀️🙇‍♂️


さらしたいわけでも叱咤激励がほしいわけでもありません。
ナマケモノなので自分にアラームをかけるため。


甘いと思われることもやべーやつと思われるのも承知の上。
↑伏線。笑
あとはいつか振り返ってあははと笑えれば🙆‍♀️


~とーまさん編
野球、野球、飲食、野球。


小さい頃から人の集まる家だった。
さつき(母)はいつも手料理を振る舞い、てつよし(父)は酒を振る舞った。
調理補助、配膳補助のおしごとは物心ついた頃から始まっていた。
美味しいものを振る舞う楽しさや、人が集まる嬉しさは子どもの頃からそこにあった。
両親が帰ってくるまで待てず、お腹を空かせた弟妹のために台所に立つようになるのも自然な流れだった。

両親は剣道をやっていた。

父親が「野球が好き」という理由だけで野球人生が強制的に始まった。笑

少年野球チームは父親が監督を務めていたので、朝から晩まで野球生活だった。死ぬほど走り、バットを振り、トレーニングをさせられた。他の子たちへの見せしめのように怒鳴られることも…笑

中学は部活だけではなくクラブチームにも所属していた。1度も勝ったことのなかった中学野球部。地区3位と取れるまでのチームに。

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そんなこんなで、野球をするために千葉の高校に進学することになり、3年間これでもかというほど野球漬けの時間を過ごした。

ここを拡げると長くなるので…笑

部活を引退した後、大学の学費を稼ぐためにアルバイトを始める。


初めてのバイトは泣く子も黙る全盛期の和民。。。
学費の捻出のため、死ぬほど働いた。


野菜のカットしたり、魚を捌いたり、お肉の掃除をしたり。チェーンにも関わらずしっかりと仕込みをするお店だったので、調理のベースは築かれていった。


長時間労働も(世間的にも体力的にも笑)笑ってこなせてた時代だったので、キッチンだけじゃなくてホールにも入ってひたすらにオペレーションをこなした。


家の近所にオープンする新店。
オープニングスタッフのための研修は浅草雷門店だった。
今思えばその頃から浅草に縁があったのかなーなんて。笑
高校三年生。
1番年下。下っ端。


全部が初めてで、張り切ってもいたし、負けず嫌いを発揮しまくっていた。
生意気だなーとも思われていたとも思う。
それでも目をかけてくれる先輩がいた。


もちろん野球やってますの先輩。。。
世界は野球経験者で溢れている。
野球トークは世界を救うのではないかと思うほど。
野球の話をすればだいたい仲良くなれる。笑


若気の至りというものもたくさん経験した。武勇伝的なものもそれなりに。
勢いのある会社で働くという経験はやっぱり貴重。荒々しささえも糧となる。
学べば広がるし、出会う人で変わったり、経験の仕方で変化していくものかもしれないけど、ベースがそこでよかったと思える瞬間は幾度もあった。
オープニング。


200席。
社員以外全員新人さん。
みんなが行きたがった全盛期の和民。


びっくりするほど煽られたし、びっくりするほど怒られたし、びっくりするほど謝った。
オペレーションをこなす楽しさも、冷蔵庫のストックが空になって笑える恐ろしさも、発注が間に合わなくてスーパーに買い出しに行く手間さえも…
今に繋がってる。


「働く」ことの原点になっている。
たぶん、居酒屋で起こりうる最悪の事態はだいたい経験した。と思う。
対応する社員の背中もたくさん見てきた。
自分でも対応してきた。


雷門店でお世話してくれた先輩が人事異動で副店長としてやってきた。そこからは野球にも誘われるようになり、バイト前に駆り出されたり、山口まで連れ出されたり。。。今考えるとどこにその体力あったのかと🤔🤔🤔
羨ましい、あの頃の自分。。


先輩に可愛がられるUMAMIを知ったのも確かこの辺り。
部活の先輩に可愛がってもらうとはひと味もふた味も違うフレキシブルさを手に入れられるUMAMI。。。🤭
媚びるでは無く「一生懸命やる」と「野球やってた」を武器に歩む仕事人生のはじまり。


媚びを手に入れてたらもっと楽に生きてこられたんじゃないかとも思うけど、きっとそれじゃ手に入れられなかった人脈がここにはある!と胸を張って言える今がある。
そんなこんなで、慌ただしい飲食業生活がはじまった。
次回に続く。。。

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