「努力」という言葉で片付けてしまって良いのか
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2023.06.14 勝利と育成コラム Vol.6
筆者:Rafaga C.F. 木村
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「努力」という言葉を聞いてあなたは何を思い浮かべますか?どんなイメージを持ちますか?
つらい・しんどい・きつい・苦しい
恐らく多くの人がこのようなイメージを持っているのではないでしょうか。そしてそんな時間を過ごしせばいつかきっと報われる時がくると信じていると思います。
現実と理想のギャップを埋めるため、人は「もっと頑張ります」「もっと努力します」と口にします。
でも…頑張ってるけど、なぜか結果が出ない人もいます。
努力とはなんでしょうか?
苦しい時を過ごせば成功を収めることができるのでしょうか?
多くの人は、苦しみながら頑張っている(ように見える)人を努力していると思い込みます。逆に楽しそうに物事を進める人をいつか失敗するだろう、まだ厳しい現実に直面していないだけと思い込みます。
人が苦しい思いをしてでも、何か目的に向かって頑張っている姿はとても美しく、人の心を動かす力があります。
ですが他者がそれを求めることとは話が違います。
本人が目的や理想が明確であること。
これを無くして努力を求めても「もっと頑張ってよ」「俺だって頑張ってるのに…」とただただお互いが苦しいだけです。
選手たちはどう頑張れば良いのかわからなくなり追い込まれ、競技の楽しさを味わうことができなくなってしまいます。
もちろん努力の末、成功を収める人もいます。
でもその努力には"能動的"という言葉が隠れているのではないでしょうか。そして多くの人が思い浮かべる、つらい・しんどい・きつい・苦しいといったイメージとはまた別なものなのではないでしょうか。
"ただひたすらに苦しい時間を耐え続ける人"と"現状を変えるために問題に立ち向かう人"。成功を収める人は果たして前者と後者どちらでしょうか。
問題から目を背け、自分に与えられたことだけを頑張る姿は、結果が出なくても自分は頑張っているから怒らないでという免罪符になります。
努力という言葉で片付けてしまうから、結果がでないと「頑張っても意味がない」、「努力は報われない」という結論に至ってしまいます。
そして他者からは頑張っていない(苦しみそうにしていない)"ダメな奴"と評価されてしまいます。
では指導者として、苦しみながら頑張っている(又はアピールする)選手をどう評価するべきなのでしょうか?
「頑張ってればいつか報われるよ!」
「そのまま頑張れば(苦しみに耐えれば)きっといいことが待ってるよ!」
と励ましてあげれば良いのでしょうか?
その選手は自身の目標や理想に辿り着くことが出来るでしょうか?
僕らは努力ではなく、もっと細かい部分に目を向ける必要があります。
それはきっと「工夫」だと考えています。
「〇〇してみよう!」
「〇〇の方がいいんじゃない?」
子どもたちが生み出す「工夫」には、物事をよく"観察"して自分なりに"思考"してみたという背景があります。
例えそのアイデアが大人が失敗するとわかることでも、子どもはこの方が良いと"思考"した結果。それを否定して失敗させずに子供の頭の中にモヤモヤが残るよりも、"実験"させて失敗してもらう。
この後に大人が言ってはいけないことは、
「ほらね、だからさっき言ったじゃん。」
「ちゃんと"俺"の言うこと聞けば失敗しなかったのに」
というような自分の正当性を訴えるだけの言葉です。これでは子どもは失敗しないように大人の言うことだけをやればいいやという思考になります。余計なことをして怒られたくないから。
それよりも、
「どうすれば上手くいくかな?」
といった「問いかけ」をしてあげると先程の"実験"を元に今度は"考察"が始まります。
失敗を一つのデータだと捉える。
「このやり方では上手くいかないのか」
「別の方法を考えよう」
その繰り返しで、人は成長していくのではないでしょうか。
工夫は楽しさを生みます。
自分が考えたことが思い通りにいった時の喜びはきっと大きいはずです。
命令ばかりの指導では、このようなサイクルを回すことは出来ません。上手くいったら結果を褒め、上手くいかなかったらもっと頑張れと叱咤激励。子どもから考える機会を奪い、自分の言った通り動けというのは指導者の自己満足でしかありません。
自ら考えて物ごとに取り組む力が"成長"には欠かせません。その能動的に取り組めるような環境を整えてあげるのが指導者の重大な役目だと考えています。
子どもたちの工夫を我々大人は見逃してはいけません。
それはきっと小さな身体で踏み出した
成長への大きな一歩だから。
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