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「わからない」の無意味さ

「わからない」について

「わからない」と発言したことはあるだろうか。
間違いなく全ての人間は発言したことがあるだろう。
なぜなら、教育は未知の提供で、もし仮に教育に携わることがなくても、生活は未知の連続だからだ。

一方で「わからない」と発言することで、解決したことはあるだろうか。
この文章は「わからない」を「わかる」にする文章ではなく、
「わからない」と発言することについて論う文章である。

「わからない」の意義

人はなぜ「わからない」と発するのだろうか。
これには少なくとも3つの理由が考えられる。

①無意識下で、理解する為に思考リソースを割くことに抵抗を抱いている。
②「わからない」と発言することで、「わからない」ことを肯定している。
③過去に「わからない」と発言することで、解決した経験がある。

多くの場合はいずれかひとつ、もしくは全てを含んでいる。
これらの理由についても考察していく。

「わからない」が与える心理的安全性

心理的安全性について先に記しておく。

心理的安全性(psychological safety)」とは、組織の中で自分の考えや気持ちを誰に対してでも安心して発言できる状態のことです。

組織行動学を研究するエドモンドソンが1999年に提唱した心理学用語で、「チームの他のメンバーが自分の発言を拒絶したり、罰したりしないと確信できる状態」と定義しています。メンバー同士の関係性で「このチーム内では、メンバーの発言や指摘によって人間関係の悪化を招くことがないという安心感が共有されている」ことが重要なポイントです。

リクルートマネジメントソリューションズ 人材育成・研修・マネジメント用語集

これらを踏まえた上で、「わからない」と発言することは、その場のその組織における「心理的安全性」を確保することができるとする役割がある。

例えば、学校のクラスなどの組織で、
課題が与えられた後直ぐ「わからない」と発言するものはいなかっただろうか。
これこそが、心理的安全性の担保の「わからない」である。
周囲に自分が「わからない」ことを主張し、周囲の潜在的な「わからない」に対して共感を引き出すことで、共感の輪を作り出し、自身の心理的安全性を確保しにかかる行動なのだ。

先程あげた3つの要因は、全てが心理的安全性に起因していると私は考える。
「わからない」と発言し、周囲の「わからない」を引き出して、多数派になる若しくは共感されることで「わからない」ことを肯定する運びや、
直面した問題への困難を「わからない」へ変換し、安易な周囲への救難信号として発信することで「わからない」が根付いた環境では安心して助けを求めることができる。
また、「わからない」が根付いた環境は、「わからない」と発することで回答がもらえる環境と同義である。
故に、①で挙げた無意識下での思考放棄は「わからない」が根付き、簡単に答えが得られる現代ならではの病であると考える。
そのような「わからない」を肯定し続けてきた社会は加速度的にその成果を上げている。

「わからない」の再生産体制

「わからない」という人々は恐らくスマートフォンの普及以来爆発的に増加したと考えられる。
その証拠に、国立教育政策研究所が毎年行う国・公・私中学向けの学力調査では中学生のスマートフォン所持が一般的になった平成30年度ごろから国語の得点率の平均が下がり始め、前年度の得点率が76%であったのに対し、緩やかに下がり続け、現在(令和4年度)では69.3%と7ポイント近くの下落となっている。

原因は先程述べた通り、スマートフォンにあり、人びとがみな手に持っているスマートフォン(厳密に言えばスマートフォン普及以後のインターネット)には「わからない」を安易に肯定し、「わからない」人々が「わかる」手助けをするのではなく、「わかった気に」させる役割を担っているサービスを増加させたからだ。
勿論、使い方を間違えることがなければそうはならないが、「わからない」人々は「何がわからないか」を考えることを放棄しているので、殆ど正しい使い方ができていないだろう。
その様な意味でも、安易にインターネットに答えらしいものが転がっているという事実は、明確に現代社会における劇薬だ。

一方で、これまでの社会構造が「わからない」人々をそれでいいと肯定してきたといった側面も存在する。
極論、顧客は無知であればあるだけ良く、理解を拒めば拒むほど商売はしやすい。
何も知らない人間は「わかりやすい」モノを求め、文章を読めない人間は長い契約書や利用規約などを読まず、理解しようともせず、読み飛ばしてくれる。
であれば、商売では「わからない」人を量産し、「わからない」人を「わからない」ままにしておくことのほうが商売の種になる。

世の中には、文章を読まない、読めない、自己解釈する人があまりにも多い。
国語の授業を6年間、現代文の授業を一般的には6年間受けてきたはずなのにだ。
これは決して教育の敗北などではないと断言できる。
教育は教育の役割をきちんと果たしている。
なぜなら、教育の役割は文字の読み書きができるようにすること、簡単なセンテンスの読解なら時間をかけずにできるようにするといった役割であって、文章を読み解く能力はよりアドバンスな能力である。

学校教育の持つ大きな欠陥の一つとして、「一番下の層に合わせる」というものがある。
これは同時に30名以上の生徒を教育するというシステムの都合上、仕方がないことで、どうしようもなく避けられない内容である。
故に、その中でも現代の教育はきちんとその役割を果たしているといえるだろう。
ではなぜ、文章が読める人が少ないのか。
それは学校教育の欠陥がもたらす一番の被害者の存在である。
学校教育の一番の被害者は、成績が良くも悪くもない一般的な学生なのだ。

下に合わせたカリキュラムは彼らを中間層に追いやり、できるでもできない層が形成される。
一方で現状の教育に満足しない上位層は自主的に不足分を学ぶため、文章を中間層と比較して多く読む傾向にある。
そして、これが全国的に発生しており、必要最低限の教育に満足できない一部の上位層だけが読解力を身に付けると仮定したならば、現在文章を読める人が少ないのも納得いただけるだろう。
勿論、上位層でも読解力のない勉強だけできる人間は多くいることも忘れてはならない。

余談ではあるが、陰謀論を信じてしまう二次陰謀論者も読解力がない故の勢力増大によって顕出してきた存在である。
彼らは信用に足る国連機関の調査データやその道の専門家の発言よりも、
ソースの怪しい安易で単純な仕組みやインターネットの人が言っていた断定的な文言を強く信じる傾向にある。
これらは文章の読めない人間を、理解しやすいだけの物を理解する人間を、
信じたいものだけを信じる人間を食い物にするビジネスなのだ。
陰謀論を真実だと思い、啓蒙する大元の陰謀論者など存在しない。

このような仕組みおよびスマートフォンおよびインターネットの普及が、
「わからない」の再生産を押し支えている。

「わからない」の意味

原則として「わからない」と発することは意味がないどころか、
より自分の状態を悪くすることにつながる。
「わからない」と口にした瞬間、思考は閉ざされ、考える努力を放棄し、答えが提示されるか諦めて頑張るタイミングが訪れるのをただただ待ち続ける無駄な時間が発生する。

はじめに「「わからない」と発言することで解決することはあっただろうか」
と問いかけたが、恐らく自己理解によって解決したことはなかっただろう。
他者からの手助け、助言を得て解決することはあっても、そこから自分だけで考えて、答えを導き出した例は多くないだろう。

かといって「わからない」と発することを非難するつもりはこの文章にはない。
「わからない」ことが「どうわからないか」を自分なりに分析し、その「わからない」を解決するために、相談すること、質問することが大切なのである。

例えば、自分が上司で部下に指示を出したとして「わからない」と相談に来た時と、「こことここについて、こう考えたがわからなかった。この様な認識だが、どこが間違っているのだろうか」と聞かれるときでは反応も異なるだろう。
端的に困難に直面したときに「わからない」と発言することは、
思考力を奪い、思考する努力を奪い、他者から与えられる機会を損失する。

だからこそ、現代人は「わからない」の一歩先に進む必要がある。

「わからない」のその先へ

「わからない」の傾向・対策

「わからない」ことが「わからない」のは考えていないと言うのと同義である。
よく、「やってみないとわからない」と言う言葉が使われるが、これもそうだ。
実際に体験してみないとわからないことも当然たくさんあるが、その前に直面するであろう課題に対して、自分なりに仮説を立てたり、課題を考察すれば、疑問は少なからず思い浮かぶ。

では「わからない」ことが「わからない」人は、何に着目して「わからない」を見つければ良いのか。
解決法は3つある。

最も簡単な方法は、
「わかったつもりになっていることを何も知らない人に説明すること」である。

他者へのアウトプットは、自身の理解への手助けになり、さらに自身が説明を行う過程で感じた不明点についても認識することができる。
その不明点を明確にし、不明点を調べ、尋ねることで漸く「わからない」の発見に至る。
その様な「わからない」の発見を何度も繰り返すことで、自身の「わからない」ことの傾向や「わからない」ことへの対策を自身で行うことができる。

2つ目は、
「相手の話していることを構造化して捉えること」である。

話には、どんなに滅茶苦茶なものでも構造がある。
起承転結もPREP話法も構造化された話法であり、滅茶苦茶な構造をしているものは大抵、起承転結の中で起承転結の入れ子構造になっているだけだ。
また、基本的に「わからない」と感じる内容、疑問に感じる内容を話されるときは日常会話よりもビジネスや教育の面であることが多い。
そもそも日常会話でわからないことがあったとしても、そこまで問題になることはない。
そのため、ビジネスや教育の文面においての「わからない」に着目した場合、
情報の発信者の発言内容は多くの場合で効率的に伝わるよう構造化されている。(勿論そうでない人もいる。)
そのような状況下では、相手の会話の構造を理解し、内容から先読みしながら「わからない」を探すことや自身の先読みとの相違をもとに不明点を洗い出していくことが可能である。
一方で、この方法は話を聞く時にしっかりと考え続けていないといけないので、難しい人もいるかもしれない。

3つ目は、
「資格や検定の勉強をする、問題を解くこと」である。

この「問題を解く」と言う部分が重要で、間違えたところは理解していないところ、つまり「わからない」場所である。
資格や検定の勉強においてテキストを読んだり、ノートにまとめたりするだけで満足する人は少なくないが、ノートにまとめた後、その日に問題を解くということを避けたがる人が多い。
問題を解くことは非常にストレスのかかる作業なので、まとめる作業に満足した人はよく、次の日や次の機会、最後にまとめてに問題を解きたがる。
しかし、これではわかったつもりになっている状態のまま、1日や数日、数か月放置されることになるので、本当に「わからない」ところが「わからない」まま、内容を忘却してしまう。

内容をまとめ、理解したつもりになっている自分の「わからない」部分を見つけることは、文字通り「わからない」場所をわかる様にする作業である。
このような作業に慣れれば、初見のものでも自分がどこが「わからない」のかという傾向を掴むことができ、「わからない」ことを理解しやすくなる。

この様な方法を3つ紹介してきたが、ここに挙げたのはほんの一例で、実際には
もっと多くの方法があるだろう。
「わからない」ことが「わからない」と感じることが多い人はこの中のどれかを実践してみるといいだろう。

終わりに

筆者は少しも考えず発される「わからない」と言うワードが非常に嫌いである。
実際に自分の中で試行して、結果具体的にどの様な部分が「わからない」のかを明確にせずに「わからない」と発することは、自身の思考放棄を他者へ押し付け、それに対する理解を他者に要求する極めて傲慢な行為であると認識しているためである。

一方で、事実そういった人が多く存在し、気軽に何も考えることなく答えを提供してくれるスマートフォンやAIの普及によってさらに増加することを考えると、暗澹たる気分にはなるが、もう一方ではそれだけ「道具」の性能が突出した現代では考えて「道具」を有効活用できる人間が勝てる世の中になっていくだろう。

それゆえ、考えられない人間は身の回りに居てほしくないが、
自分が勝つためにも考えられない人間は存在し続けてほしいと思う。

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