ぴしゃがつく
俺は、ずっと、女になりたいと思ってきた。
理由は簡単だ。俺が好きになる奴は、キスして抱きしめたいと思う奴は、みんな男だったからだ。
なぜ、こんな風に生まれてしまったのか分からない。人類存続のために、俺の存在は全く不要で、では遺伝子という神は、なぜ、俺を同性愛者にしたのか。そんなこと、考えてもきりがない。きりがないけれども、考えてしまう。
俺が好意を抱く相手は、しかし男が好きな奴なんて全然いなかった。だから、俺は女になりたかった。女になれば、少なくともあいつらに「好きだ」という権利が与えられるような気がしたから。
でも、それはできない相談だった。
昨日、降り始めた雪は、午後になって雨に変わり、やがて止んだ。残されたのは、トロドロで、土に汚れた、ぬかるみだった。
山々の間に、日が沈んで数分後。もう、闇が支配している。
俺は、ピシャリ、ピシャリと足音をたてて、帰路を急いでいた。一緒にかえってくれる友達はいない。友達を作れば、愛してしまうのは分かっていたから。このまま、空虚を抱えて、引き裂かれて、やがて死ぬのだろう。
俺の愛が、何かを勝ち取ることは、永久にないのだった。
ふと、誰かが付いてきている気がした。
街灯に照らされた夜道。歩いている人の姿は、誰もいない。
分厚い手袋をして、マフラーを巻いているのに、空気が刺すように痛い。足音が、確かに聞こえた。
ピシャ……、ピシャ……。
確かに、何かがついてきている。悪寒がした。
泥水の跳ねる音以外に、何の音もしない。それどころか、世界から色が消え始めた。オレンジ色に縁取られているはずのカーブミラー、黒と黄色の反射板、緑の手袋、クリーム色のマフラー……、茶色のコート、その全てから、色が消えた。
こんにゃくの上を歩いているように、足がもつれる。
このままでは、帰れない。
強い磁力のようなもので、体中の細胞が背後に向かって引き寄せられているようだ。
ああ……、後ろから追ってくるのは、俺が過去に残した、妄念だ。
過去に成就しなかった愛が、化け物となって後をついてきているのだ。彼らは、俺の心の深いところで、ずっと叫び続けたのだ。なぜ、わたしたちは報われない、報われないのだ……と。
許してくれ、と俺は叫ぶ。俺の愛が成就する場は、この世界にはないのだ。お前達は、地面の下で、永久に眠っているしかない。
わたしたちを見ろ、わたしたちを見ろ……。彼らの声が聞こえる。
振り返ってはダメだ。待っているのは、地獄だ。
だが、俺は、振り返ってしまった。
黒い人型の影が、無数に、地面から伸び上がっていた。それは、ノイズのように、明滅しながら、俺に向かってきた。
助けてくれ、助けてくれ。
わたしたちの罪を、購ってくれ。……ああ、誰かを好きになることは、罪なのか……。
影達が、細い手を長く伸ばす。それは、荒縄のように、身体に巻き付いてきた。熱い、灼けるようだ。
俺は、その場に膝をつく。
もう、ダメだ。助からない。
だが、突然、影達の姿が消えた。
俺の肩を、誰かが叩いた。辺りに色彩と音が戻った。
鋭角の顎、茶髪の高校生だった。
米軍の戦闘機が、低空飛行する轟音が、近づき遠ざかっていく。
「……、だい……か」
「え?」
戦闘機の飛行音で、彼の言っていることがよく聞き取れない。
高校生は、俺の顔を覗き込んだ。
「あんた、大丈夫か?」
彼は、俺の肩を揺さぶった。
「あ……ああ。大丈夫……です」
「本当か? 雪女みたいな、青い顔をしているぞ。道ばたにひざまずいて、気分でも悪いんじゃないか?」
「だ、大丈夫……です」
「そうか、立てるか?」
彼に触れられた肩から、急激に体温が回復し、体全体に広がっていくのが分かった。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
「本当に大丈夫かよ?」
寒そうにポケットに手を突っ込んで、彼は言った。
「あ……ああ、温かいものでも飲みたいなぁ」
ひどく安心して、思っていることがそのまま言葉になっていた。
「そうか……」
青年は、鼻の頭を人差し指でポリポリとかいた。
「なら、駅に戻って喫茶店にでも入らないか?」
ずいぶんと、親切にしてくれる。最近の高校生も捨てたものではない……、俺も高校生だけれど。俺は、心を半分開いて、しかし肝心の部分は固く閉ざしたまま、うなずいた。
「俺でよければ、いいけれど」
「俺? 変な言葉遣いの奴だな」
彼は笑って、俺の先を歩き始めた。
駅前の喫茶店は、パラパラと人が入っていた。フワフワとあたたかい空気が漂い、居心地が良かった。
俺は、ブラックコーヒーを頼んだ。
「お前、よくブラックが飲めるな」
そう言って妙に感心してみせた彼は、何やら長い名前の甘い飲み物を頼んでいた。俺は、ブラック以外のコーヒーの種類はよく分からない。
「しかし、こうして見ると、お前本当に雪女みたいだな」
「そ、そうか?」
「喋り方が男っぽいけれどさ」
「ふん……」
確かに俺は、中性的な顔立ちをしているかも知れなかったが、女に間違えられるほどじゃなかった。
「雪女と言えばさ、雪にまつわる妖怪って多いよな?」
彼の笑顔は屈託なかった。
「そうかな。俺は、いまいちよく分からないけれど」
「例えば、ぴしゃがつくって知ってるか?」
「さあ? それが妖怪の名前なのか」
「そう。オレは、体育会系に見えるだろ。でも、民俗学とかに興味があるんだぜ」
「民俗学? 柳田国男とか、折口信夫とか?」
「そうだよ。なんだ、知っているじゃないか」
彼は、嬉しそうに笑った。
「ぴしゃがつくっていうのは、雪のぬかるみ道を歩いている人を、付け回す妖怪だよ。それから、雪ん子だろ、それから……」
ではさっき俺が出会ったのは、ぴしゃがつくなのだろうか。
彼は、雪にまつわる伝説を次々に語り始めた。その話は、普段聞き慣れないが、とても面白かった。
「雪男って言うのもいるんだぜ」
「え?」
以外だった。雪という名詞の後にきていいのは、女という名詞だけだと思っていた。
「でも、なぜか雪女ほどメジャーじゃないんだよな。何でだろうか?」
雪男……、それがどんなものかまるで見当がつかないが、女装した青髯のオヤジを思い浮かべて、なんだか気持ち悪くなった。
そしてそれは、多分、自己嫌悪なのだ。
「そう言えば、まだ、名前を言っていなかったな。オレは、無渡司。お前は?」
無渡司……、その名前を聞いて、俺は愕然とした。
俺の幼なじみ、そして、小学校のときの初恋の相手の名前だった。
……、髪型も、着ている服装も、ずっと大人びているが、そう言えば、あいつだ。なぜ、今まで気がつかなかったのだろう?
心臓が、雪崩のような音を立てるのが分かった。
無渡は、不思議そうな顔をして俺を見ている。透き通った、鳶色の瞳。
「ちょ、ちょっとトイレに行ってくる」
なんとかごまかすと、立ち上がって、慌ててトイレに駆け込んだ。
鏡がある。自分の顔が映っている。
何かが違うと思った。
長い髪の毛は、まるで女のよう。俺の髪型は、日本人高校生の、平均的な長さを保っていたはずだった。
それだけではない、ふっくらした頬から顎にかけての輪郭、生っ白い手のひら、長いまつげ、細い眉、どれをとっても、女にしか見えなかった。
そんな……馬鹿な。自分の胸の辺りを触ってみると、鏡の中の像も、同じ動きをした。
胸には、柔らかいふくらみがあった。
鏡の背後にある個室のドアの隙間の暗い部分から、ぬるりと影が伸びてきた。ぴしゃがつく……? いや、そんなものじゃない。 俺の、心の暗部が化け物になったのだ。
「お前は、死者だ」
影は、まるで黒板を爪で引っ掻いたような、不快な声で言った。
「お前は、死んで、雪女になったのだ」
そうだ。俺は全てを思い出した。
俺は、雪の降る晩、自ら命を絶ったのだった。
「そうだ、お前は死んだ。そして、雪女となったのだ」
影は、邪悪な赤黒い身体を、ニシキヘビのように巻き付けてきた。締め上げられ、苦しい。まるで、全身の血液が泡立っているようだ。
「これがお前の望んだ姿だ。苦しいか? 苦しみから楽になりたいのなら、あの男の魂を奪え。簡単なことだ、口づけすればいいのだ」
多分、無渡は、かわいい女子高生をナンパでもするつもりで、声をかけてきたのだろう。死人とも知らずに。今の俺は、男を幻惑する容姿をしているのだ。
「さあ、魂を奪え。そうすれば、お前は、真の雪女となることができる」
千鳥足で、自分の席まで戻る。
無渡は、心配そうに俺の顔を見つめている。
「おい、お前大丈夫か」
「……」
無渡の顔が、ガラス細工のように美しく見えた。
「さあ、さあ、魂を奪う口づけを!」
喫茶店の影という影、暗部という暗部から、化け物どもが滲みだしてきた。赤と黒のまだら模様の、ぬるりとした怪物達。
無渡の魂を、奪う?
確かに、永久に俺のものにしたかった。俺だけの魂の宝石箱に、封じ込めたかった。
だが、俺は、真に彼を愛している。
だから。
「黙れ!」
店の中を、一瞬、氷の粒を含んだ突風が駆け巡った。椅子や机が倒れ、飲み物がぶちまけられる。
「おおお……」
その青い清冽な風は、化け物達の身体を削り、バラバラに解体した。
喫茶店から、奴らの気配は消えた。
「な、何だ?」
無渡は、目を丸くして、俺の方を見つめた。すぐ、視線を泳がせ、周囲を見回す。
「お、おい。突然いなくなるなんて、反則だろ!」
どうやら、無渡には俺が見えていないらしかった。俺は、完全に霊的な存在になってしまったらしい。
気分が、晴れやかになった。
これが、雪女というものなのか。なんだ、案外、楽しいものだな。
俺は、一陣の風になって、喫茶店の外へと姿を消した。また、無渡と会おうと心に誓って。
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