天使がくれた数式(第1話 東京のラマヌジャン)

1
夕暮れ時、影の中に沈む部屋。
机をはさんで男女が対峙している。女がペットボトルの水を飲む。
影で隠れて表情は分からない。
男がニヤリと笑う。

「ぐっ!」
女が苦しみ始める。椅子から崩れ落ちる。
「ど、毒物を使ったのね?」
男は笑ったままだ。全ては計画通り、というような。
「ど、毒が入っていることは分かっていた…、だけどわたしは死を選ぶ」
「何?」
男の顔にわずかに動揺が浮かぶ。
女の目は笑っていた。
「わたしが死んでも、あの子は止められないわ」
「あの子?」
「…」
 女はもう、声を出す事はできない。だが、まるで自分の勝利は確定しているかのような壮絶な顔で、絶命した。
男は無表情だ。
「馬鹿なことを…」
男は静かにその場から歩みさった。

2
おんぼろアパートの一室。かび臭い布団の中で男が一人寝ていた。
昼間から眠っている男がまともな仕事をしていないことは明かだろう。
布団の周りにはカップ麺やら菓子パンの残骸、漫画雑誌。
小蝿が飛んでいる。

「…を助けて」

声が聞こえた。そんな気がした。
男は目を開ける。
インターホンが激しくなり響いている。それが、声に聞こえたのだろう。
続いて、扉をドンドン叩く音。
「おい! 天人(あまと)! いるんだろ、開けろ!」
男の名前は櫂天人(かい あまと)。
ボサボサの髪型だが、美男子見えなくもない。だが、全体のなんとも言えない不潔感が全てを大無しにしていた。
天人はめんどうくさそうに布団から這い出し、扉を開けた。

扉の向こう側に立っていたのは、40代後半のハゲたデブと…。

10歳ぐらいの、美少女だった。
綺麗な瞳、少しふくらんだ唇、ゴムで簡単に結んだだけの髪の毛。
あまりにも自分と違う美しさに、目を合わせることができない。

ハゲデブの方は、もう百回は顔を合わせている見知った顔。伯父の本多勝夫、刑事だ。
「勝夫伯父さん、おひさしぶりです。その女の子は?」
「単刀直入に言おう。この子を預かって欲しい」
勝夫の言っている意味を理解するのに、10秒はかかった。
「何間抜けな顔をしてやがる」
勝夫は少女の手を引いて、ズカズカと部屋の中に上がり込んできた。部屋の汚さも、殺人現場を何度も見ている刑事にはどうということはないらしい。

「スラム街で新興宗教の教祖が殺害された」
ぶっきらぼうな口調。
「はあ…」
スラムでの殺人などよくあることだ。
「俺たちがガキの頃は、日本にスラム街なんてなかったのによう。年々増殖してやがるぜ。政治家も官僚も何やってやがんだろうな」
勝夫の声は疲れていた。日本は今や下り坂、それと反比例するように犯罪は増えている。警察の仕事も増えて、一つ一つの対応は乱雑になっていく。
「教祖が育てていた孤児が、この娘だ。ソフィアという名前らしいが、住民登録も戸籍もねえ」
そんな子供を連れてきて、天人にどうしろと言うのだろう。
「引き取り場所が見つかるまでの間、預かって欲しい。警察も余裕がないんだ。お前、どうせ暇だろ」
「え?」
「言葉が喋れないんだ。このまま放置はできない」
「しかし…」
「頼む! 事件が多すぎて、本当に余裕がないんだよ!」

3
勝夫はさっさと出て行ってしまった。
ソフィアは部屋の隅で、大人しく正座している。
「君…、大変だったな。…って話せないのか」
話せない少女と、どうやってくらしていけばいいのだろう。途方に暮れていると、少女がジェスチャーで何かを訴えて来た。
「ああ、紙とペンね」
天人は堆積したゴミの中からノートとペンをとりだしてソフィアにわたした。
ノートには、途中まで数式で埋められているが、やがて殴り書きになり、途切れていた。
ソフィアはノートに文字を書き始めた。
『この部屋、臭いです。それに汚い』
天人は自分の顔が赤くなるのを感じた。まさか、スラム出身の少女に、臭い汚い言われる日がこようとは。天人は大学院まで行った、エリートのはずだ。
ソフィアは澄んだ目で天人を見つめてくる。悪気はないらしい。
『お腹が減りました』
「あ、そう」
天人はため息をついた。
カップ麺にお湯を注ぎ、テーブルの上に置く。
『ありがとうございます』
ノートに書くと、ラーメンを啜り始めた。あまり美味しそうではない。
「オレはバイトに行かなくてはならない。大人しくしていてくれよ」
少女は大きくうなずいた。天人のことを信頼しているような目だ。
素直な子でよかった。
ヤンチャなガキだったら、あらゆる手を使ってアパートから追い出していただろう。

4
コンビニでのバイト。誰にでもできる簡単なバイトだ。
だが、人と接する仕事は、天人には苦しかった。素早く正確にこなさなくてはならない。一つのことに集中していてはダメなのだ。理屈は分かっていても、出来なかった。
いつも、何かしら怒鳴られる。箸が入っていなかったり、温めたパンを落としてしまったり。
3時間のバイトが、長かった。

「かわいそうだから雇ってあげているけど、ああミスが多いとねえ」
「うちもAIレジを導入するか。本部にかけあってみよう。今時コンビにで働こうなんて人間は、使えないのさ」
帰り際に店長夫妻が話しているのが聞こえてしまった。

目から涙が流れ落ちた。
夕ぐれの町をがむしゃらに歩く。いい若者が泣いている、みなが奇異の目で見ていることが分かる。
涙は止まらない。
…オレは数学者の卵だ。卵だったはずだ。
高校の時、数学は誰よりもできた! 大学でも必死で勉強した。
教授の講義に必死で喰らいついた。
大学院に行った。
オイラーやガウスの数学書を写した。何度も。
でも、一つの定理も発見できなかった。
今や、AIが定理を発見する時代だ。それなのに。
AIの方が、オレよりも頭がいいのだ!
オレみたいなセンスのないやつに、居場所はなかった。

いつの間にか、自分のアパートの前に立っていた。
何か、良い匂いがする。
これは、味噌汁の匂い?
確かに、冷蔵庫の奥に、野菜や味噌があったはずだが、まさか?

ドアを開ける。
ゴミが片付いていた。
生ゴミの匂いも消えている。

代わりに、暖かい食事の匂いが…。
『おかえりなさい』
ソフィアが、テーブルに夕食を並べていた。
天人はその場に崩れ落ちた。
涙が止まらなかったが、先ほどまでとは意味が違った。

5

食べ終わると、天人は自分で食器を洗った。食器を洗うのは久しぶりだった。
「悪かったね、家事をやってもらって。今度からオレがやる」
『変わりばんこにやりましょう』
ソフィアがノートに文字を書く。スラムの子は、みんなこんなに気立てがいいのだろうか。

ふと、ノートに自分が書いたのではない図形が描かれているのに気がつく。
「これは…まさか君が…?」
その時、玄関のチャイムがなった。
「夕方に誰だ?」
ドアの向こう側には、見知った女が立っていた。
「涼子か、久しぶりだな」
「何が久しぶりよ。全然連絡よこさなくって!」
涼子は、今風の若者ファッションを身につけていた。ファッションに興味のない天人には種類のわからない服。しかし、美人でスタイルもいいので何を着ても似合うことは確かだ。
「お前、口紅するようになったんだな」
その一言に、涼子は何故かムッとした。
「大学の友達から、あんたが泣きながら歩いているのをみたって言うから、心配で!」
「そうか」
涼子がソフィアの存在に気がつく。
「その子は?」

天人はことのあらましを説明した。ソフィアは『こんにちは』とノートに書いてあいさつする。
「ソフィアちゃん、大変だったわね。わたしは石里涼子(いしざとりょうこ)。大学で生物学の研究をしているわ。天人とは大学の同期で腐れ縁よ」
「まあ、上がってくれ。前に来たときとは違って片付いているから」

6
半年前、涼子にもの凄い説教をされた。
こんな汚い部屋に居たら、才能も潰れてしまう、と。
頼むから、自分を取り戻してくれ、と。
オレに才能なんてない、二度と来ないでくれ。罵倒して、涼子を追い返した。
なのに、また来てくれた。
今日はいい日かもしれない、そう思う。
「なるほど、ソフィアちゃんはサヤカ・ガーディナーの養女だったのね」
「サヤカ・ガーディナー? 例の教祖か?」
「ええ。この世界は不完全な悪魔が作った悪い世界で、そこから脱出しなくちゃならないっていう、そういう宗教。スラムを中心に勢力を増していた」
「グノーシス主義の宗教か。くだらないな」
「まあね」
だが、二人の話を聞いていたソフィアが珍しく怒る。
『サヤカの教えは下らなくありません!』
やはり、ソフィアに養母の影響は強く出ているようだ。
「確かに、世界は悪魔が作ったって考えは、あながち間違いじゃないかもね。科学が進歩しても、人間はちっとも幸せになれないから」
「…」
天人の思いは複雑だ。数学の定理のどこにも、神が登場する余地はない。無論、悪魔もだ。
だが、異大な数学者が同時に敬虔な宗教家でもあった例をいくつも知っている。
オレにはわからない何かが彼らには見えていたのだ。
「サヤカ・ガーディナーが死んだけど、宗教団体そのものは残って、むしろ信者を増やしているみたい。スラムで暴動が起こるかもね」
スラムの人々にとって、こんな世の中は転覆した方がマシなのかもしれない。天人にとってもだ。だが、太平天国の乱ではあるまいし、今時宗教で社会が動くことなどないだろう。それよりは、目の前の現実だ。
「涼子、プランクトンの研究はうまく行っているのか?」
「ええ…、そうね…」
どうやら、順調ではないらしい。
「あなたに相談したいことがあったのだけれど、また来るわ。元気そうでよかった」
少し疲れた笑顔を見せると、涼子は帰って行った。

7
『綺麗な人でしたね』
とソフィアがノートに書く。
『あなたのことが好きなのでは?』
「ば、バカ! そんなはずあるか! あいつには、他にお似合いの男がいるだろうよ!」
天人は少し慌てる。
そう、俺のことが好きな奴なんて、いるもんか。

沈黙。

ノートをじっと見る。
やはり、裏のページに図形が描かれている。
「それは、もしかして合同な五角形の平面充填…。しかも15種類全て描かれている!」
ソフィアは肯く。
「だれかに教えてもらったのか?」
正五角形は平面充填できない。つまり、タイルのように並べると隙間ができてしまう。だから、充填できるとすれば、辺の長さが異なる五角形でなければならない。

それが発見できるためには、相当な数学力が必要だ。
「誰かに習ったのか? それとも…」
『あなたの帰りを待っている間に、自分で考えました』

自分で考えただって!? しかも、あの短時間に!? 
「嘘だろ?」
ソフィアは首を振る。自信に満ちた笑顔。
「天才じゃないか!」
あまりの驚きに、腰が抜けそうになる。
まだ、10歳ぐらいの子供。
それが、世界中の研究者が何十年もかかって見つけ出した図形を!
わずか数時間で発見した!

彼女は、現代のラマヌジャンかもしれない! あるいはオイラーか、ニュートンか!
すぐに大学に連絡を取るべきか!

だめだ。

大学教授は、スラムの人間が嫌いだ。

いじめて、潰そうとするだろう。

なら。

「オレは、天才ではなかった」

「一つの定理も発見できなかった」

「大学生活を無駄にした。そして、人生も無駄にするだろうと、そう思っていた」

「コンビニのレジ打ちも満足にできない」

「だけれど、天才を育てることはできるかもしれない! 凡人だからこそ、人に教えられるんだ!」

天人は心の中で叫んだ!

天人はソフィアの両肩を握りしめる。
「オレは、君を育てる。君のためなら、頑張って働ける! 君のためなら、生きていける!」

ソフィアは呆然としていたが、やがて笑顔になった。
自分の才能が認められて嬉しいのだ。

天人にとって、久しぶりに明るい日となった。
そして、数学史にとっても、明るい日となるはずだった。
それを良しとしない勢力がいなければ。

8
男が不気味な祭壇に祈りを捧げている。
「プピテル様…すべて仰せのままに。その少女を、この世界の理論に服従させて見せます」
男は偶像に、恭しく頭を下げた。

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