創造主の見る夢 第二話 白・黒・透明

ただ、林の中の象のように、静かに歩め。

 首都ドグマ、中産階級の住まう町並みの一角。

 きわめて実用的に作られてはいるが、全く装飾のない無機質なビルが建っている。

 そのビルは、黒と白とその中間に位置する灰色以外の色を、極力排除していた。それが、このビルの主の方針だった。

 四階建てのビルは全て、宗教法人「チハヤ」の所有するものだった。

 その二階にある大広間では、四十人ほどの信者が、ただ静坐していた。その様子は、まるで所狭しと人形が並んでいるようであった。

 だが、よく観察してみると、彼らが人形ではないことが分かる。胸や腹は呼吸に会わせて動いているし、半眼に開かれた目はしっとりと濡れていた。人形の目が濡れることはない。

 彼らは、一人を除き、皆同じ方向を向いて座っている。そして、その一人は、彼らと対面するような形で、白い壁を背に、静坐していた。

 彼こそが、宗教法人「チハヤ」の代表、教祖のシゲキ・サドルだった。

 全ての欲望を限りなく捨てて、雑念を捨てて、心に浮かぶ抽象的な思考をも捨てて、ただがらんどうの様になって、静かに坐す。そうすることによって*瞳*の支配から逃れ出ることができる瞬間がある、それが彼の教義だった。そして、その瞬間に体験したことを土台に、生きて行くのだ。

 だが、今日、シゲキ・サドル自身は、静坐に身が入らなかった。下らない雑念を振り切ることができなかったのだ。

 このまま座っていても、意味がない。そう考えたシゲキは、すっくと立ち上がると、足早に部屋から出て行った。師が去っても、信者達は微動だにしない。その程度で動揺するような人間は、一人もいないのだった。

 シゲキは、自らが居住している、ビル四階の一室へと戻った。

 支部を合わせるならば信者を三百人近く抱える教団の教祖のものとは思えないほど質素な部屋だった。生きるために必要以上のものを持たない、それがシゲキの教義であったし、それ以上に生き方そのものであった。

 自分は、師サヤカ・ガーディナーの教義をもっとも正確に受け継いでいる、その自負があった。同じサヤカ・ガーディナーの衣鉢を継ぐと称している、ジャニ・カグラザカなどは、外道もいいところだ。信者から必要以上の金をかき集めて、自分は御殿のような屋敷に住んでいる。彼の信者は、今や三千人を越えているのだという。サヤカが死んでから、三年間で三千人だ。どれだけ派手なパフォーマンスと強引な拡大政策をとってきたかが分かる。それが、サヤカの教義にどれだけ反することなのか、誰も疑問に思わないのだろうか?

 しかも、ジャニ・カグラザカは自らにも、サヤカと同じものが見えている、と公言してはばからない。つまり*瞳*が見える、と。

 馬鹿げている。大空の向こうに、瞳が浮かんでいるはずがないじゃないか。そんなのは、物理の法則に反している。もし、本当にそんなものが見えているのだとしたら、それは幻覚だ。教祖などやらずに、一度精神病院に入院した方がいい。

 確かに、サヤカも、空に、*瞳*が浮かんでいると、何度も言っていた。それを否定する気は、ない。ただ、それは比喩だったのだ。哲学的知識を持たないスラムの人間に、人間の認識の構造を教えるための……。

 サヤカは、*瞳*の支配から逃れ出ろ、そう教えを残した。シゲキの考えでは、*瞳*とは、人の認識の限界の比喩なのだ。

 人間は、世界を秩序だったものとして認識している。空間上のある一点に二つの物体が存在することはできないし、リンゴは成っている枝から外れると、宙に浮くことも上昇することもなく、必ず地面に落ちる。特定の順番と規則を持った音は言葉となり、未来は必ず過去の後に来る。

 だが、それは世界の真の姿ではない。それがサヤカの言いたかったことなのだ。人間は絶対的に世界をそのように認識しているが、それは人間という独特の生物種が持つ、特有の世界観なのだ。コウモリは超音波で世界を認識している。ある種の魚は、他の生物が放出する微弱な電流を感知することが出来るという。人間の世界認識の方法も、そうした数ある方法の一つに過ぎず、決して人間固有の認識の歪みを越えた真実の世界に到ることはできない。

 そうした、人間の認識の限界を、サヤカは*瞳*と表現したかったのだ。*瞳*とは何と的確な比喩であることか。

 だが、その*瞳*の支配から逃れられうる方法を、サヤカは語った。欲望を持つことを止め、観ることも、聴くことも、感じることも止め、あらゆる認識を断念する。そうすることで、真実の世界が見える、と。

 その時、その瞬間、我々は認識の束縛から逸脱し、真の自由を手にすることができる。それが、*瞳*の支配から逃れ出る、ということなのだ。

 サヤカ、あなたがあんなに早く死んでしまわなければ、下らない金儲けが趣味の奴らに主導権を握られることはなかったのに……。

 いや、サヤカを殺したのは自分の様なものだ、そうシゲキは自分を責める。あのクロウという男が、サヤカを尋ねてやってきたとき、シゲキは彼女に付き添ってやることができなかった。クロウは良く知った仲だからと、サヤカに追い払われてしまったのだ。あの時、無理矢理にでも側にいれば。

 クロウという男は、彼女が心臓発作を起こして苦しんでいるであろう時に、助けようともしなかった。救急車すら呼ばなかったのだ。許せなかった。

 ただ、クロウを探し出して、問い詰めることはしなかった。そんなことをしても、サヤカが生き返るわけではなかったからだ。

 突然、部屋の扉を叩く音がした。

「誰だ?」

 シゲキは扉越しに、問う。

「わたしです。シノブ・ウリューです」

 朗らかな少女の声だ。

「そうか」

 シゲキは扉を開けた。

 清楚な格好をした、女の子が立っていた。

「何のようだ? 修行はどうした?」

「先生こそ、修行の途中でどこかへ行ってしまうんですもん。しかも、猛烈に険しい顔をして」

「ふむ。どうしても雑念が頭から離れなくてな。中断した」

「たとえ雑念が浮かんでも、それがどれほど耐え難いものでも、静坐を中断してはならない、そう先生、言ってたじゃないですか」

「そうだな。わたしは教祖失格だ」

「一体、何を考えていたんですか?」

「嫉妬、憎悪。一番捨てなくてはならないことをな」

「そうですか。まあ、わたしから見ると、先生、全然何にも捨て切れていませんよ」

「そうかな」

 このシノブという少女は、時々本人が気がついていない矛盾を的確に指摘してくる。

 そう、シゲキは一見、ほとんどのものを捨て去った隠者のようなイメージを持ってはいるが、その実、美食欲も、権力欲も、性欲も、何もかも持っていた。それを、禁欲というメッキで覆っているだけなのだ。そのメッキの奥を見透かされたようで、目を逸らす。

「結構図星ですね……。先生」

「……、まあな。っておい、あんまり俺の真の姿を、信者達に吹聴しないでくれよ。彼らにとって、俺は模範であるべきだからな」

「えー、どうしようかな」

「お、おい。頼むよ」

「ふふっ、慌てちゃって。先生、かわいい」

「なっ」

 シノブは、スラム街でサヤカの説法を一緒に聴いた仲だ。サヤカが死んだとき、シノブは十五歳の少女だった。そんな年頃の少女が、熱心に耳を傾けているのは珍しかった。ちなみにシゲキはその時、二十五歳、中産階級の町からわざわざスラムに出てきて、サヤカの教えを受けていたのだった。

 シノブは、眉間にしわを寄せて考え事をしているシゲキに、頻繁に話しかけてきた。

 それは、日々の天気の話しだったり、どこどこの家で飼っているペットはかわいいという話題だったりした。シゲキが大学で学んだ宗教の話しも、良くした。その話しを、彼女は目を輝かせて聞いてくれた。なぜ、彼女が宗教に興味を持つのか、すぐには分からなかったのだが……。

 サヤカが死んだ後、一番弟子と目されていたシゲキが教団を立ち上げるとき、真っ先に着いてきてくれたのがシノブだった。

 シゲキが教祖としてある程度の地位を得た今でも、彼らの関係は変わらない。それが、いいか悪いか別にして。

「先生、どうせムラムラしているなら、思い切って外に散歩に出ませんか?」

「ふむ、そぞろ歩きかね。いいだろう」

「そぞろ歩き? 何ですか、それは」

「目的なく歩き回ることだよ。人生と同じだ」

「人生? 人生は遊ばなくちゃ。遊びこそ人生の目的ですよ、先生」

「シノブ、お前、本当に俺の信者なのか? 遊ぶのはいいが、それで欲望を持ってしまったら、修行の成果が台無しだぞ」

「わたしはあなたの信者ではありません。同志です」

「まいったなぁ」

 シゲキはどうしてもシノブには勝てないようだった。

 二人はビルの裏口からこっそりと抜け出した。シノブと二人でどこかに出かけるのを信者に見られるのはばつが悪いし、表口には市民団体がいるかも知れない。自分たちの町から、怪しげな宗教団体を追い出そうとする人々が、信者に対して罵詈雑言をはいたり、石を投げたりしてくるのだ。

 それもこれも、ジャニ・カグラザカが過激な思想を掲げているのや、かつてカグラザカを奉じていた高校教師が犯罪を起こしたりするからだ。

 それ以来、サヤカ・ガーディナーの興した宗教に対する世間の風当たりは冷たい。過激な思想を持っているのは、一部の人間だけに過ぎないのに。

「何、難しい顔をしているんですか? 先生」

「いや……」

「女の子と二人で町に出るのが怖いんですか?」

「そんなことはないよ」

 しかしシノブの言ったことは、半ば図星だった。シゲキは生真面目な人間で、サヤカ・ガーディナーの教えに心酔する以前から、母以外の女性と連れだって歩くことなどほとんどなかったのだ。ただ、シノブと出会ってからは、そんなこともなくなったが。

 女性が少し苦手なのに、変わりはなかった。

「さて、どこへ行こう」

「歩いていて、面白いものがあったら、そこに行きましょう」

「そうだな」

 シノブは、あの酷いスラムで母親と二人で暮らしていた。それがいつの間にか家出して、他の熱心な信者と一緒になって、教団のビルに住着いてしまった。それが本当にシノブのためになるのかどうか……。

 二人は、次第に駅前の繁華街に向かって歩いていく。必要以上に油と砂糖を使った食べ物を売る店、電子計算処理組織を使った遊びを展開する店、人にお金を無尽蔵に消費させ、そのくせ欲望を果てなく増大させるある種の賭博業、等々、信仰の敵となる罠で満ちあふれている。

「あっ、あそこに喫茶店があるわ。入らない?」

「ダメだ、コーヒーはカフェインが入っている。カフェインは覚醒剤の一種だ。修行の妨げになる」

「今の喫茶店は、コーヒーだけじゃないんだって。抹茶ミルクとか、そういうの頼めばいいじゃん」

「……どうせ砂糖とクリームを大量に使っているのだろう。しつこいようだが、欲望を必要以上に刺激する飲み物や食べ物は修行の妨げになる」

「なによ! 堅物ね。でも、そうやって楽しみを全部捨てることが、はたしてサヤカさんの教えたことがしら?」

「しっ、声がでかい」

 サヤカと聞いてどれだけの人が、サヤカ・ガーディナーのことを思い浮かべるのかは分からない。ただ、用心するに越したことはないのだ。

「……分かったよ。喫茶店に入ればいいんだろ」

 二人は結局、その喫茶店に入っていった。傍目には随分年の離れたカップルだと思われたかも知れない。

 シノブは甘い味のするミルクコーヒーを頼んだ。シゲキの前には、氷の入った水が置かれている。

「水?」

「ああ」

「ぷっ」

 シノブは吹き出した。

「何だ、何がおかしい?」

「いや、いつものことだけど、まじめだなーって。でも、そう言うところに何百人もの信者が着いてくるんでしょうけれど」

「むう」

 シノブは店員の運んできたミルクコーヒーを一口飲む。

「甘くて美味しい……。あのビルで生活していると、出される料理全てに味が付いているんだかいないんだか分からないのよね。たまにはこういうのもいいわ」

「だったら、何で君は、俺達と生活してるんだ?」

 シゲキはため息をついた。

「……何でって。先生や信者の人と話をするのが楽しいから。みんな、重く深く物事を捉えてる。それは、わたしにはない。それに……」

「それに、何だ?」

「……わたし、また*反逆者*に遇ったんです」

 シノブは突然声のトーンを落とした。

「何を?」

 *反逆者*、それはサヤカ・ガーディナーに啓示をもたらした、天使の名だ。もちろんそれは、自らの教えをわかりやすく説くための、サヤカ流の比喩なのだが。

 シノブはだが、時々*反逆者*に遇ったという話しをした。最初にその話を聞いたときは、からかっているのかと思ったが、どうもそうではないようだった。

「*反逆者*は言ったわ。シゲキ・サドルこそ、サヤカの教えの正当な後継者だとね。シゲキには*瞳*も*反逆者*の姿も見ることができない。でも、*瞳*の支配を逸脱できる可能性を持っている人間の一人だってね」

「……本当に毎度毎度、俺をからかっているのか?」

「信じないでしょうね。それでもいいわ。でも、これだけは伝えておきたい、あなたは正しいと」

 *反逆者*や*瞳*などというのは方便だ。そんな概念に人格が備わっていて、あたかも実在するかのように考えるのは間違っている。実在、という言葉の意味はよく分からないが。そう、何度もシノブに言ってきたのだが。

 ひょっとすると、シノブは虚構を信じなければならないほど、苦しいのかも知れなかった。

 不意に、シゲキは悲しくなった。自分の力は、本当に世界の僅かなところにしか及ばない。

「また、難しい顔をしているますね。大丈夫ですか?」

「ああ……。そろそろ、店を出るか」

「そうですね」

 チハヤのビルを出たときには南中に輝いていた太陽は、少し傾き始めていた。冬はもう終わりに近いというのに、あたかも燃え尽きる瞬間の流星のように猛威をふるっていた。シノブは肩をすぼませて、震えた。

「こんなに寒い中、外にいると身体に毒だ。もう、戻ろう」

「いいえ、私は大丈夫。もう少し外にいましょう」

「本当か?」

「大丈夫!」

「そうか……」

 二人は、どちらが導くともなく、ショッピングモールへと向かった。

 東南アジアの雑貨を売っている店、音楽CDを売っている店、文房具屋、古着屋。どれも、店舗の装飾がけばけばしく、シゲキは目眩がしてきた。ここには静謐さがない、あるのは混沌だ、しかし混沌とは、ある意味で人間の認識の限界を超える梯子に成るのではないか、そんな論理的関連のないことを考える。

「なあ、本当にそろそろ……」

 帰るぞ、と言おうとしたとき、突然にシノブが立ち止まった。

 じっとショーウィンドウをのぞき込んでいる。そこは、女の子向けのアクセサリーを売っている店だった。

「あれ、かわいい!」

「何だ?」

 シノブが指さしているのは、無色透明、両手の平に乗る大きさの球体だった。球体の中は液体で満たされており、その下部には冬の町並みがプラ模型で再現されている。

 雪を模した白い粉が町並みを覆っており、おそらく球体を振動させることにより粉が舞一時的に舞い上がって、また雪のように町並みに降り注ぐのだろう。

 そういえば、この冬、雪が降っているのを見たことがあっただろうか?

「こんなのが欲しいのか?」

「うん、ちょっと高いから、手が出ないんだけどね」

「ふむ」

 シゲキは値段を見た。彼にとっては、それほど高価なものではなかった。

 彼の宗教は、必要以上の華美な装飾を禁じていた。ただ、彼の師は「透き通ったものはより真理に近い」とも言っていた。例えば、メロンやダイコンなどの透き通った食べ物は心を清浄に保つ、と。だから。

「俺が買ってやる」

「えっ、いいの?」

「ああ、その球体に、悪しきところはない、そう思う」

「だって、こういう綺麗なもの、修行の妨げになるんじゃないですか?」

「……お前、今までだってまじめに修行してないだろ。……というか、お前に修行が必要なのかも疑問だしな」

「どういう意味?」

 それは、あまりにもシノブが純粋だからだ。彼女は、修行をしなくとも清らかなのだ。

 だが、そうは答えない。そんなこと、言えるものか。

「深い意味はない」

「なによ!」

「それに、その球体、色がない。白と黒と透明。理想的だ」

「ふーん」

「なんだ?」

「まるで、わたしみたい?」

 そうだ、まさにシゲキはそう思っていたのだった。

 またも心の的を射られて、シゲキの顔は赤くなる。

「ははは、わかりやすいなあ、先生は」

「馬鹿野郎! 大人をからかうな!」

 商品を入れた袋を渡してやると、シノブは子供のように喜んだ。まあ、子供なのだけれど。

「すぐ分かってしまうと思うが、俺が買ってやったってこと、自分から言うなよ!」

「分かってるって!」

 それからまた、シノブはすたすたと歩き始めた。

「おい、どこへ行くんだ、そっちは」

 帰り道じゃないぞ、シゲキがそう言おうとしたとき、

 一瞬、世界の色彩がソラリゼーションを起こしたかのように反転した、気がした。

 それは雷のように刹那だったが、シノブが突然、糸の切れた操り人形のようにぐったりと倒れた。

「シノブ!」

 シゲキは駆け寄る。シノブの顔は青ざめており、肩は震えていた。

「どうした、発作か?」

「げほっ、げほっ、げほ……。寒い、すごく寒い」

「しっかりしろ、立てるか」

「……」

 彼女は無言のまま打ち震えていた。シゲキは背中をさすってやることしかできない。

「救急車を呼ぼうか?」

 動揺したシゲキは、やっとそれだけ言う。

「……ふぅ。大丈夫、なんとか持ち直したみたい」

「……」

 立ち上がろうとするシノブの手を引っ張ってやる。

 シゲキは肩を貸して、歩いて教団本部まで戻った。

「先生、どこへ行ってたんですか? 修行が終わる時間になっても戻ってこないし、部屋にもいないし……」

 ビルにはいると、熱心な信者達が二人を囲んだ。

「ああ、すまない。こいつと町を歩いてきた」

 シノブは項垂れて、完全にシゲキに体重をあずけている。いつものように、信者達に元気な挨拶をしない。

「……だ、大丈夫ですか、シノブさん! また発作が?」

「ああ、二階の彼女の部屋に連れて行く、手伝ってくれ」

 シゲキはシノブを背負うと、信者数名とともに階段を上がる。

 廊下の左手に四つ扉があり、その一番奥がシノブの部屋だ。

 部屋にはいると、三人がかりでベッドに寝かせ、電気ストーブのスイッチを入れる。 

シノブは半ば意識を失って横たわっている。ただ、静かに息をして。

 血の気は戻ってきたようだ。

「君たち。後はわたしが付きそう。君たちは、午後の修行があるだろう?」

「は、しかし」

「いいから」

「は」

 信者三人は、軽く頭を下げるとシノブの部屋から出て行った。

 いつの頃かは知らない。

 しかし、シゲキがシノブと出会った頃、彼女はすでにその病気だった。

 今まで元気よくしていたのが、突然血の気が失せて倒れ込むのだ。そして、暫くすると何事もなかったかのように立ち直る。

 普通じゃなかった。病名は分からない。検査も受けていないのだろう。

 彼女に聞くと、

「わたし、不治の病なんだぁ」

 と言うだけだった。

 病院に行って検査を受けるよう何度も勧めた。だが、お金がないという理由で彼女は拒んだ。

 生きていた頃のサヤカも、彼女は長く生きられないかも知れないな、とシゲキに言った。だから、お前はシノブを精一杯羽ばたかせてやれ、と。

 今、その意味がよく分かる。

「せんせぇ」

 弱々しい声が聞こえる。

「気がついたか、シノブ?」

 スチール製の椅子に座っていたシゲキは、身を乗り出す。

「わたし、また倒れちゃったんだ。ごめんね。迷惑かけちゃって」

 シノブは、遠い目をしていった。

「馬鹿な。迷惑だなんてことを、気にするな」

「……」

 シノブはゆっくりと起き上がると、ベットの淵に腰掛けた。まだ幾分苦しそうだ。

「だから、言ったんだ。寒い町を歩き続けるなんて無理だって」

「そうですね」

 それから少し、思い詰めた顔をした後、また口を開く。

「でもね。わたし、多分もうすぐ死んじゃうんだ。*瞳*に負けて。だからそれまで、なるべく好きなことをしたいの」

「死ぬ? 何を言ってるんだ? 自分の病気の正体も分からずに」

「正体? 分かるよ、不治の病」

「馬鹿な。病院へ行って治療を受けろよ。金は俺が出す」

「ダメだよ。病院へ行ったって直らないよ。おかしな薬を一杯飲まされて、その副作用でもっとおかしくなって……」

「悲観的すぎる。現代医学を馬鹿にしてはいけない。十年前に治らなかった病気が、今は副作用もなく治るってこともあるんだ」

「でも……げほっ、げほっ、げほっ」

「おいどうした!」

 彼女は自分の膝に顔を埋めるようにして何度も咳き込む。

 おかしい、いつもなら発作の後はけろっと回復したのに。

「だめ……かも」

 彼女は再びベットに仰向けに寝転んだ。

「病院へ、行こう。それから、お前のお母さんにも連絡を取ろう」

「病院はダメ。お母さんには会いたいけれど……」

「何故そんなに病院に行くのを嫌がるんだ」

「……」

 それから十分ほどぐったりしていた後で、立ち直った。振る舞いがあまりにも普通だったので、シゲキは病院に連れて行くのを止めにした。

 信者の一人で、彼女の世話に慣れているものに付き添わせると、シゲキは急いで部屋を出た。

 夕方、弱い西日が辺りにオレンジ色の光を投げかけている頃、シゲキは郊外にある共同墓地を訪れていた。

 人々の活気が全くないため、ここは酷く寒い。だだっ広い芝生地に、ずらりと無機質の墓石が並んでいるだけだ。それぞれの墓には、ただその者の名前と生年月日だけが書かれている。その中の一つに、サヤカ・ガーディナーの墓がある。

 彼女が死んだとき、その死体は当然父親が引き取った。だが、彼に墓を買う意志はなく、従って彼女は荼毘に付された後、ドグマ市営の共同墓地に葬られることになった。

 信者の一部には、彼女の遺体なり遺骨なりを引き取って葬祭しようという者もいたが、父はそれを強く拒んだ。ジャニ・カグラザカなどは未だに彼女の遺骨を手に入れようとしている。

 彼女の墓には、時折各種信者や親族が訪れる他は、いつも静まりかえっている。だが、今日は珍しく先客がいた。どこかの高校の学生服を着た少年だ。背が高く、研ぎ澄まされた黒曜石のナイフのような目つきをしている。彼は近づいてくるシゲキの足音に気がついたのか、首を回転させてシゲキの方を見た。

「こんにちは」

 シゲキは取り敢えず挨拶する。

「こんちは」

 少年は軽く会釈した。

「君は、サヤカ・ガーディナーの関係者ですか?」

 シゲキは静かに聞く。

「いいえ。ただ、多分彼女が闘ったものと同じものと、俺は闘っている。そんな気がして」

「なるほど」

 少年が、後継者を自称する教団どれかの信者ではないことはすぐに分かった。彼は、いわゆる宗教とは無縁の存在だろう。

「そういうあなたは、サヤカ・ガーディナーの関係者ですか?」

「……、個人的に、彼女の教えを受けたものの一人です」

「そうですか」

 少年はそれ以上追求せず、軽く頭を下げると踵を返した。

 少年が去ると、シゲキは墓の正面に立ち、それから片膝を立ててひざまずいた。

 その姿は、姫君に忠誠を誓う騎士にも、太陽神を崇める古代人のようにも見えた。

 冷たい風が一陣、墓地を通りすぎた。

「サヤカ、我が師よ。わたしはどうすればいい?」

 シゲキは心の中でそう呟いた。

「わたしは、シノブの治療を、無理にでも病院で受けさせるべきなのか? 彼女の意志に反してまで」

 シゲキは、迷いに迷って自分で決断できないとき、師の墓を訪れて、祈るのだった。もちろんそれはただの祈りであって、サヤカの霊が降りてきて答えを指し示してくれるなどとは毛ほども思っていなかった。ただ、いつもこうしていると、不思議と答えが見つかるのだ。それが、祈りのもたらす効果なのだろう。

「だが、彼女が本当に治らない病だとしたら。一度病院に入院したら、薬漬けになって二度と出てくることができないとしたら。その可能性はある。そして彼女は、その可能性を正確に予見しているのかも知れない。だとしたら、今、精一杯遊ばせてやるべきじゃないのか。答えは、どちらだ。師よ」

 シゲキは、その姿勢のまま、彫刻のように動かなくなった。

 太陽は刻一刻と西の空に傾き、墓の影はますます長く伸びて、次第に周囲との境界をなくしていく。

 何度も冷たい風が吹く。小さなゴミが、くるくると螺旋を描いて舞い上がっては、落ちる。気温は雪崩を打つように下がる。それでも、彼は姿勢を崩さない。

 答えはまだ見つからない。

 シゲキは軽く咳き込んだ。

 その時、周囲の景色が変化した。色彩の反転、ソラリゼーション。あの、シノブが倒れた瞬間と同じだ。だが、今回は一瞬では終わらない。

 頭を振り、何度も目を閉じたり開いたりした。それでも、変わらない。

「くそっ、何だこれは!」

 シゲキはふと異様な気配を感じて、空を見上げた。

 天頂に、月よりも大きな*瞳*が君臨していた。それは、まるで自分の瞳を鏡で映したかのようだった。ただし、瞳の色も反転している。

「幻覚か? あまりにも祈りに集中しすぎたのか?」

 *瞳*は一瞬光った。それと同時に、自分の目から、*瞳*の声が直接脳内に送り込まれてきた。

『幻覚ではない。我こそは*造物主*なり。人間の認識しうる世界は、普くわたしが創った』

「馬鹿な」

『信じぬか。信じぬのであれば、わたしの力の一端を見せてやろう』

 また、瞳が光った。

 それと同時に、脳内に生のデータが流れ込んでくる。理性はもちろん、そのデータを理解できない。ただ、脳の深いところははっきりと、それを読み込んでいた。

 あたかも、全く別の生物種の世界認識の方法を見せつけられているような感覚。世界が、全然違った風になる。

「なんだこれは……」

『いま、お前の脳に流し込んだのは、コウモリの世界観だ。コウモリは、このように世界を認知している』

 やがて、データの流入が止み、世界は人間のものへと戻っていった。ただし、色彩は反転したままだが。

「どうやら本当らしいな。*瞳*が実在したとは。サヤカの方便じゃなかったのか」

『そう。わたしこそが世界の主』

「それで、その主が、俺に何のようだ」

『先ほどからのお前の問いに、答えてやろうと思ってな』

「なんだと!?」

『お前は彼女を救いたいと思っているか』

「もちろんだ」 

『嘘だな。お前は、自分の地位を失いたくないのだ。シノブを病院に入院させる。それだけでお前は、自分の信者一人の病気も治すことができなかった似非宗教家とのレッテルを貼られる。奇跡を起こすのは、宗教家の十分条件だからな。そして、よしんば彼女が死んでしまったならば、お前のメッキは完全に剥がれ、信者は去って行く』

「まさか。俺は信者に、俺自身が奇跡を起こせるなどとは一言も言っていない」

『だが、信者の中には、そう思っている者が多数いるし、お前はその事に気がついていながら、否定していない。それも、お前が誰かに崇拝されたいという欲望の現れだ』

「黙れ。俺はただ、信者全員の心の平安を考えているだけだ」

『どうかな? そして、もう一つ。お前がシノブを入院させず、手元に置いた場合だ。信者達は、彼女だけを特別扱いするお前に、疑いの目を向けてくるだろう。シノブへの嫉妬も集まる。結局彼女は教団にいられなくなるぞ』

「俺の信者に、そんな分からず屋はいないさ。いたとしても、必ず説得してみせる」

『お前は何も分かっていない。しかも、それで彼女が死んでしまったなら、やはりお前のもとから信者は去る。寵愛していた少女一人救えないのか、と』

「確かにそうかも知れないが、俺はそうなることを別に恐れててはいない。いや、それは嘘だ。恐ろしいさ。だけれども、だからといって彼女を見捨てることはできない」

『お前がシノブを庇護することが、本当に彼女のためになるのかな』

「……」

『お前のためにも、シノブのためにも、彼女を母親の元に返すのが正しい判断だ。そこで、静かに死なせてやること。それが、唯一の道だ』 

 そうかもしれないな、とシゲキは思いつつあった。シノブがもっとも幸福に過ごせるのは、自分のような他人とくっついていることではなく、彼女を愛する肉親と一緒に過ごすことなのだと。

『わたしの命に従え、お前に選択の余地はない!』

 *瞳*から、何かがシゲキの心に流れ込んでくる。シゲキの自我が、風前の灯火となったとき。

『騙されるな、シゲキ・サドルよ』

 今までとは別の声が、左の耳元から聞こえた。

 振り返ると、美しい姿の天使が、横に立っていた。

『*瞳*は、自分に逆らう力を持つシゲキ・サドルを社会から抹殺したいだけなのだ。シノブをもっとも不幸な形で死なせることによって、お前を絶望へと追い込みたいだけなのだ』

「なっ」

 もしかして、この天使こそ*反逆者*なのだろうか。

『そう、わたしは*反逆者*。*造物主*の声に耳を貸してはならない。あいつは……』

『おのれ、*反逆者*、またわたしの邪魔をするか』

 瞳が言う。

『*造物主*あなたのしていることは、世界への過剰介入だ。このままではあなたの愛する世界は壊れてしまう。それでいいのか?』

『そうさせているのは誰だ? お前だ、*反逆者*よ』

『世界はあなたの掌たなごころから離れるときがきているのだ。修正は無駄だ』

 *反逆者*の身体から、不思議な波動が放出された。その波動にふれた部分から、色彩が見慣れたものに戻っていく。

 やがて、波動は世界全体に広がり、天空から*瞳*の姿も完全に消えた。

 残ったのは*反逆者*。

『今は、わたしの力で*瞳*の影響力を振り払ったが、またいつ彼が介入を再開するか分からない。その時、あなたを守れるかどうかも自身がない。ただ、これだけは言わせてくれ』

「……」

 シゲキはすっくと立ち上がると、*反逆者*と向かい合った。

『あなたは、あなたの望むことをすればいい。誰の影響も受けるな。そうすれば、あなたは世界を変えることができるかも知れない』

「そうか」

『では、さらばだ』

*反逆者*の姿は少しずつフェードアウトしていき、やがて完全に空気と同じになった。

「俺は、俺の望むことを、か」

 空には赤い星が輝いている。あの星は毎年この月のこの日この時間、あの位置に昇るのだろう。短いタイムスパンで考えたとき、星の動きは完全に予想できる。

 だが、星は少しずつ、運動している。数万年後、あの赤い星はあの場所には存在していまい。

 だから……。

「今日をもって、教団「チハヤ」は解散とする」

 早朝、ホームレスしかいない国立公園で、シゲキは演説をしていた。

 広い公園が、何百人という信者で満たされている。教団の所有するビルには、信者全員を収容するスペースがないのだ。

「これからは、各々が、自らの信ずる道を歩め。その時、我々の経験した共同生活は、糧となるだろう! ただ、修行は本来一人でやるものなのだ。我々は、サヤカ・ガーディナーの弟子である以外、無一物なのだから」

 信者達がざわめく。やがて、その音は、大きないくつかの声になった。

「そんな、先生。突然解散と言われても、わたし達はこれからどうすればいいのか分からない。先生が道を示してくれないと、わたし達はどこに向かえばいいのか分からない」

「道は誰かに示してもらうべきものではない。自らが見つけ出すものだ」

「そんな」

「ただ、林の中の象のように一人静かに歩め。それが、わたしの残せる最後の教えだ」

「だけど、わたし達は今まで上手くやってきた。なのに、突然解散だなんて、意味が分からない」

 信者の幾人かが異口同音に叫ぶ。

「俺には、もうあなた方を導く資格がないのだ。俺は、ただ一人の人を救いたい。その執着から逃れることはできないのだ。俺は、俺自身の道を歩む。だから、あなた方も!」

 それに対して、年配の女性信者が言う。

「先生の救いたい人が誰かは、見当が付く。それが、欲望を捨てよと説いてきた先生の教えと反することも。だけれど、少なくともわたしは、先生を尊敬している。先生が解散を訴えても、わたし達は先生に着いて行く」

「……もし、金箔のはげた俺に着いていきたいものがいるのならば、それを止めはしない。ただ、もうわたしは自分と愛する彼女のことしか見ない、それでいいか?」

「もちろん」

「わたし達は先生に従う!」

「先生を、尊敬している」

「そうか。ありがとう。だが、解散は決定した。教団の財産は、等分して皆に分配する。あのビルもいずれ売却する。もちろん猶予期間は設けるから、その間に皆、それぞれの場所を見つけられよ」

 演説が終わり、皆はそれぞれが選んだ場所に戻った。教団のビルで生活していたものは、取り敢えず教団のビルに戻ったものが多いようだ。中には、去る者もいたが。

 教団の事務室に入ったシゲキは、席に座ると、おもむろに電話をかけ始めた。いつかかけようと思い、ためらってきた番号へ。

 コールが五十秒。1分。

「はい、ウリューですが」

 三十代後半の、女の声。

「シゲキ・サドルです」

「サドルさん? 誰だ、知らんな」

 最後にあったときから変わらない、険のある声。

「宗教チハヤのサドルです」

「ああ、あんたですか。その節はどうも」

 彼女の名前は、サトミ・ウリューという。シノブの実母だ。

 サトミは、娘が熱中するサヤカの宗教を嫌っていた。

「今日は、大事なお話があって電話いたしました」

「大事な話? ふん、早く終わらせなさいよ」

「シノブさんをあなたのもとへ帰したいと思います」

「なによ、突然!」

 サトミの声は裏返る。

「教団は今日をもって解散しました。もう、教団としてシノブさんを養ってゆくことはできない」

「だから?」

「だから、いったんあなたのご自宅にお返しして……」

 サトミは黙った。暫く無言が続く。

「あの、もしもしウリューさん?」

「あたしは、宗教ってもんが大っ嫌い!」

 突然、鼓膜が破れんばかりの声で怒鳴られる。

「とくに、サヤカ・ガーディナーとかいう奴の宗教はね! なにが、欲望を捨てれば幸福になれる、よ。幸福になりたいってことそれ自体が欲望じゃない! 矛盾してる! あんた達のやってることは、ただの詐欺よ!」

「いや、それは……」

「なに、わたし間違ったこと言ってる? 大体、あんた達がうちの娘を連れ去っておいて、それで、都合が悪くなったから今度は返すって言うの?」

「……娘さんが、わたし達の下にきたのは、彼女自身の意志でして」

「意志? そうよ。あの子はあの子の意志で、あんたのところへ行ったの。あたしが止めたのにね。だから、もう知らない。知らないのよ、あたしは!」

「ですが、シノブさんは病気です。多分、深刻な。病院へ入院させる必要がある。入院費は俺が出す。ですが、その時、一番の肉親にいて欲しいのです。俺では、彼女を入院するよう説得することはできない」

「ふざけないで! 今更感情論!?」

 サトミは居丈高に振る舞う。しかし、涙声だった。

「お願いです」

「……、あの子はね、あの子の父親と同じ病気なの」

「……」

「正体不明の病気よ。これだけ医学が発達して、原因が不明なんてね! あんたの宗教と同じで、医学なんて何の役にも立たない!」

「しかし、少なくとも延命することはできるかも知れない」

「延命? 馬鹿げている。入院したあの子の父がどんな目にあったか、分かる? 強い薬を飲まされて、そのせいで体中が痙攣して。それを止めるために、また別の薬を点滴で打ち込まれて、今度はその薬の副作用が出て! 髪の毛が抜けて、体中に赤い斑点ができて! 最後は幻覚や幻聴を聞いて、あらぬ事を口走って! あたし達のことも分からなくなって! あの子が六歳の時よ!」

 そうなのか。これでシノブが入院をかたくなに拒んだ理由が分かった。

「確かに、治療を受けることが幸福だとは限らない。でも、病院を探すことはできる。彼女に適切な治療を施すことができる、ね。十年前とは、技術が違う。今なら、助けられるかも……」

「……」

 電話の向こうで、サトミがすすり泣いているのが分かる。

「あたしだって、あの子を、シノブを助けたいのよぉ。でも……」

「お金は、俺が出します。多少の金は、貯まっている」

「そう……ですか。……よろしくお願い、します」

 サトミは息も絶え絶えという感じで、ようやくそれだけ言った。

 一ヶ月後、入院病棟の一室。

 シゲキが扉を開けると、シノブは読んでいた本を自分のおなかの上辺りに置いた。彼女は、もうずっとベットに伏せっている。医者の懸命の努力にもかかわらず、シノブの病状は少しずつ進行していた。

「何を読んでいたんだ?」

 シゲキは優しく問いかけながら、丸椅子に腰掛ける。

「哲学の、簡単な入門書よ」

「そうか。お前が哲学の本を読むなんて、珍しいな……。いや、そうでもないか?」

「さあね。入院して何もやることがなくなって、そうしたら急に、深淵なことについて考えたくなったんだ」

 考えること、そんなことなど止めてしまえ、と言いたかった。多分、病院で一人ねているなど、ろくなことを考えまい。

「先生は、今も静坐しているの?」

「ああ。仕事をしているとき、勉強しているとき以外は、静坐をしているよ。今も、それだけが自分の道だと信じている」

「相変わらずストイックなふりをしちゃって」

「ふふ。欲望を捨てようと欲すること。それ自体が欲望なんだって、君のお母さんに教えられたよ」

「そう……。ところで、この本に書いてあったんだけれど」

「何だ?」

「とても難しいこと。でも、すごく魅力的なこと」

「うん?」

「過去はすでに過ぎ去ってしまった現在であり、未来は未だ来ない現在である、これが常識的な考えだが、しかしそれは虚構である。現在とは無時間性のことなのである。どういう意味だか分かる?」

「はっきりは分からないな……。ただ、それと似たようなことを考えたことがある気はする。神様がいるとしたら、世界の始まりから終わりまでを、過去と未来ではなく、全て現在として把握できる存在だって。そこでは時間が凍りついている」

「やっぱり難しいね。わたしには分からないや」

「そう。哲学の言葉を理解するには、その哲学者が考えたのと同じだけ考えなくてはならない」

「ふ~ん」

「だが、これだけは言える。*瞳*は決して神じゃない。何故ならあいつは空間と時間の内部に自分の場所を持っているからだ。神が無時間的な存在なら、あいつはしょせん有限な存在さ」

「*瞳*の存在を信じるの? あんなに「方便だ」って言っていたのに」

「俺は実際に*瞳*を見た。何度も話したが。実際に見てしまったのだから、信じないわけにはいかない」

「*反逆者*は? すごく綺麗な人だったでしょう?」

「そうだな。天使だ」

「今も*瞳*は見えている?」

「いいや」

 多分、*瞳*はある人物を操作しようとするときだけ、その者に姿を現すのだ。*反逆者*もまたそうだ。サヤカやシノブの様に、恒常的にに目視できる人間の方が特異なのだ。それでも、長い未来、そうした人間は増え続けるのかも知れないが。

「わたしが死んだら。本当の神様の下へ行ったら。その前に、先生に、*瞳*が見える力を分けてあげるね」

「何を言うんだ! お前は生きるんだ。病気を治して、元気になるんだ!」

「そうだね。そうだといいね」

 シゲキは、自分の瞳から涙が流れ落ちるのを止められなかった。

 医者から聞いていた。彼女の身体はもうボロボロで、長くは生きられないことを。

 シノブはベットから腰を起こそうとする。

 シゲキはそれを手伝って抱き起こしてやる。

 彼女の顔が目の前にある。病気とは思えない透き通った瞳、きめの細かい白い肌、血の気のない唇。

 その唇に、シゲキは自らの唇を押し当てた。

 何かの薬の臭いと、苦い味がした。

 一週間後、夜、大雪が降った。

 町には三十センチもの雪が積もり、まだ止む気配がなかった。

 ドグマ市がこれほどの積雪量を記録したのは、観測史上初めてだった。

 街灯の光を反射して花火のような雪。

 もはや車もろくに走れまい。

 そんな町中を、シゲキは一人、あてどもなく歩いていた。

 昨日、シノブが死んだ。

 あっけないものだった。

 太陽のような眩しい笑顔も、甘えた声も、遠くを見はるかす目も、もう存在しない。

 シゲキは涙を流す。

 このまま、俺も……。

 だが、そんな心の中の絶望を身体は知らないのか、彼は間抜けにくしゃみをした。

 その時。

『絶望するな、シゲキ・サドルよ』

 声が聞こえた。

 振り返ると、*反逆者*が立っていた。

『彼女は、あなたに愛されて幸福だった』

「……本当か?」

『少なくとも、わたしはそう思う』

「そうか、良かった」

『あなたに伝えたいことがある』

「なんだ?」

『彼女は、あなたに*瞳*を見る力を感染させたようだ』

「何だって」

「わたしにも、どういう原理か分からない。だが、本当だ」

「……」

『あなたは、これから、ますます*瞳*の標的になるに違いない。覚悟しておけ』

「シノブが闘っていたものと、これからは俺が闘うのか」

『そうだ。だから、あなたには絶望しているヒマなどないのだ』

「……」

『では、さらばだ』

「ああ。慰めてくれてありがとう」

 *反逆者*は微笑むと、すぐに姿を消した。

 シゲキは空を見上げる。分厚い雪雲に遮られて、*瞳*の姿を見ることはできない。

 だが、彼は空に向かって呟く。

 覚悟しておけ。いつか人類は、あなたの手のひらから完全に逃げ出すときが来るぞ、と。

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