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お花について

母がずっといけばなをやっていたこともあり、花を見る機会が多く、子どもの頃の夢はお花屋さんでした。

働き出したらお花を習おうと思って、フラワーアレンジを始めたり、資格が取れる教室に通ったり、私もいけばなを始めたりして、気付けば部屋にはだいたいいつでもお花がある環境です。

最終的に今はいけばな一本ですが、アレンジにしてもいけばなにしても、そこそこのものは出来るんだけれど今一歩センスがないのと、全体としての美しさを完成させるために必要な、ちょっとした作業(花が多すぎるときは蕾を落とす、みたいな処理)が苦手で、趣味の範囲から抜け出せません。落とした花も小さな花瓶にいけたりはするけど、まあとにかく残念ながらセンスがない、に尽きます。


ここ数ヶ月は、コロナでお稽古も長らくお休みになっています。

いけばな教室などのお稽古がないことだけでなく、全国規模でのイベントの中止や、結婚式の中止、一時休業などで、生産されてきたお花がたくさん廃棄されているそうです。別にお花だけじゃなくて、食品なんかもそうだし、世界中でいろんなお仕事にものすごい打撃があるのですが、私にとっては、今回のことは、花の廃棄に関して考えるきっかけとなりました。

もともと食材廃棄には関心があり、マンションでできるコンポストなんかを始めてみたりしていたのですが、廃棄されるお花を買う、というのも、やるようになりました。普段買えないいいお花を大量に買う。ダリア10本とか、ガーベラ100本とか、バラ30本とか。お値段は廃棄救済と銘打っていることもありとってもお手頃なのですが、それにしても贅沢な買い物ではあります。今は芍薬を買うか迷っていて、この記事を書いています。


食べ物もお花も、コロナでなくてもたくさん廃棄されていて、今回それが生産されている方の生活にもろに影響を与える大きな力となっただけなのだと思います。私が何本か買ったって、私の自己満足でしかない。人々の暮らしを豊かに彩るために、必要以上のものがたくさんうまれていて、要らない分は処分される。今回のような異常な状況において、生活必需品でないと認識されたものは一番最初に切られてしまう。なんというか、彩りある豊かな生活の危うさのようなものを改めて感じました。

突き詰めていけば、栄養が摂取できる必要最低限の食事があり、睡眠が確保できる必要最低限の寝床があり、体を守るための衣服があり、必要なものを買うお金があれば生存はできる。でも、多くの人は、本当の意味で生存するために働いているのではなくて、自分の生活を豊かにするために働いているんじゃないかな、と思います。好きなアーティストのライブに行くとか、推しのグッズを買うとか、好きな服を着るとか、美味しいものを食べるとか、心癒される空間で過ごすとか、駅近でバストイレ別の部屋に住みたいとか、知的好奇心を満たすとか、行ったことのない場所で見たことのないものを見たいとか。仕事が好きで働いている人も当然いらっしゃるとは思うのですが、少なくとも私はもっと俗っぽいもののために働いています。

お花に関して言えば、ないと生きていけないものではないです。でも、花びらの可憐さや芳しさに心癒されます。ずっと眺めてしまうとかでないけど、ただ、きれいだな、って思います。

お花があると心が豊かになるのかな?でもそうなると、心の豊かさってなんだろうって考えます。たくさん本を読んでたくさん映画を見てたくさん絵を見てたくさん人と会ってたくさん美味しいものを食べてたくさん旅行に行けば心は豊かになるかな。最近、なんだか、豊かさ、に囚われてしまっているけど、心を豊かにしないといけないと思い込んでいるのかな、なんて思います。本当に心に必要なのは豊かさじゃなくて余裕なんじゃないかなぁ、って。心だけじゃなくて、時間とかお金とか人間関係とか生活全般とか、すべからく。

そう考えると、部屋にお花があるということは、私にさまざまな余裕がある状態でもあるということかな、と、しっくりきます。

小難しく考えてしまいましたが、まぁ結局のところ、私はお花が好きで、お花に価値があると感じているから、買うんだろうなぁ。


私が結婚式を挙げるまでは、いや、私や兄弟や従兄弟や友達のひ孫やその子どもたちが結婚式を挙げるまでは、お花の生産者さんたちには頑張っていただきたいな、と思っています。

それから、コロナが薄れても、どこかで廃棄されているお花があるということを忘れずに、いたいなぁと、思います。

そして、やっぱり、迷っていた芍薬も、買おうと思います。

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