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夢現徂徠

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ロマンの織物/澱物
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#アート

凡人、あまりに凡人

 数年前、吉田秀和を読んでいて、あるピアノソナタを知った。楽匠ダニエル・バレンボイムが弾く第一楽章にぞっこん惚れ込み、常住坐臥いつも流すようになった。  まもなくふらっと古書店をのぞいたら、その楽譜を見つけた。夥しい音楽関係の平積みに、1955年ヘンレ社発行の原典版が燦然と紛れていたのである。五百円、考える前に手が伸びた。  運命とはこういうものかと、翌週にはまあまあ質のよい電子ピアノをワンルームに据えた。本棚二架を処分して、マットレスやらカーペットやら模様替えして、防音

生きるという孤独

 雨の夜に出会ったヤギの「メイ」とオオカミ「ガブ」の友情を描いた傑作『あらしのよるに』シリーズ、その番外編である。もしかしたら本編より好きかもしれない。  かつてガブは温かい両親のもとで幸せに暮らしていた。だが群れを治める偉大な父ガルルを亡くすと状況は一変、優しかった母は厳しくなる。  ある日ガブは親友グルリのところへ遊びに行く。するとふたりの上下関係を決めるためケンカをしろと嗾けられる。親友の泣きっ面を見たくないガブはわざと負ける。その結果、仲間うちで一番の下っ端とされ

大人のための絵本

 酒井駒子さんといえば、いわく言い難い感情のまざりをそっと置きにくる画風で、ややもすれば荒めでよそよそしい筆致なのに読後感は不思議と優しく柔らかい、一言で言えば巨匠である。  そんな人と御大あまんきみこさんとの共作なんて垂涎必至、20年近く前の作品だが絵本は新しいからいいというわけじゃない。  なにげない一日に暮らす子たちが、いつもの公園で夢のような世界に紛れ込み、遊び、うちへ帰る。日常と非日常がひとつづきの、ザ・童話である。  銃火に怯えることなく、涙にまみれることも

手仕事の哀愁

 大切な植物事典が傷んでしまったので「製本屋」を探しに出る女の子ソフィーの物語である。  パリの朝、くすんだ空と人気の絶えた描写に「冬」を感じる。植物をめぐる話なのに青空も太陽も出てこないぶん、よけいに寒々しい。  だからこそ仕事にかかるおじ(い)さんの手もとを照らす暖色や、仕上がった装丁の緑や茶色が温かい。水彩ならではの明暗法か。  出会うまでの二人は見開きページの左右別々に描かれている。駆け回る方には独白が添えられているが、仕事場へ向かう方は無言だ。  家を出て、