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昔はキンモクセイが苦手だった。あの甘ったるい芳香が未熟な嗅覚には鮮烈すぎたのか、実家近くの土手を通り過ぎるたびウッとなっていた。 今は好きで好きで仕方がない。初秋の醍醐味はもみじ狩りならぬキンモクセイ狩りにありと、それなき秋なんて桜なき春、葵なき夏、六花なき冬に違いないと、ある種モノマニアックな愛着さえ覚えている。いつだったか夢にまで見たほどだ。 起きがけ両腕が枝に変わっていた。ざわざわ繁る葉のすきまに無数の黄花がほころんでいる。脚は変わらないからそのまま仕事に出た
日差しやわらぎ暦は処暑、あれほど勢力あった蝉時雨もだんだん疎らになってきて、夜は鈴虫がリイリイ鳴きだしている。首都西方は曇りがちだが暑いものは暑いので、このごろ散歩に出るのはもっぱら黄昏、逢魔時である。 いかにも「魔的」な時間帯だ。じりじり紺青に襲われる夕焼け空は残喘を尽かしつつあるみたいで、うそ寒い空気が混じりだしてなんだか肌寒くもある。駅の方からふらふらやってくる影法師ひとつひとつにも「誰そ彼」と、人か鬼か妖かつい確かめてみたくなる。 「じゃあなァ!」 「またあし
やや早めの仕事帰りは午後4時過ぎ、毎年のように聞いている気がするラニーニャのせいか梅雨明け早々の真夏日である。こんなことなら日没まで図書館で時間をつぶしてくればよかったと、暑気に澱んだ駅前を抜けたあたりから悔やんでいた。 ほんの数分が果てしなく遠い。路地には陽炎が踊り、まるで地獄の一丁目だ。住宅街につき日よけもない。こんなときこそ日傘があれば楽なのに、誰に笑われようが指さされようが今さら構うまいと前年も前々年も痛感していたのに、喉元過ぎればの要領で忘れていた、そのことも
不快ばかり謳われる六月末に誕生日がある。 梅雨は好きじゃない、が手放しに嫌いとも言えない。曇ぐもりに晴れ間が覗けば洗濯事情だけじゃなく喜ばしいし、虹まで架かれば命あることの感激ひとしおだ。なにより重たげな灰白一色の空にも雨だれの透明にも映える、におわしき藤色や葵色の大輪に出会える。 この花、英語では学名そのままハイドランジアという。古代ギリシャ語が語源で直訳すれば「水の器」、他方われらが「紫陽花」は当て字かつ誤記が由来らしいが、どちらにせよ字からも甲乙つけがたいほど
語源「晴る→春」など知らぬと言わんばかり、朝から白々しいまでの曇り空である。拙宅を出たときから足もとには花びらが延々と落ちている。青天を衝かんと伸びて匂わしき桜花この世の春を謳えど、かくもあえなき三日天下よ。桜は散りきった。 春は桜、夏は蝉、秋は紅葉、冬は雪と、四季には「刹那」が欠かせない。しからずば、その中にある人事一切の塵労もまた邯鄲一炊、夢のまた夢、いずれ消えゆくものなるや。路傍に茶ばんで干からびる数多の残滓がいっせいに「無常」ということを物語っている── 死
物心ついたころから冬好きなのは確かなのに、持病の腰痛のせいで年々冷えと寒さが億劫になってきている。今年もお彼岸ごろまで散歩すらままならないほど不如意が続いて、仕事を除けば食糧調達くらいでしかロクに外出していなかった。 年度改まり心機一転、まだ日によっては固い腰を引きずってリハブにと歩きだした。マンションの階段を下りているだけで左側が尻までジンジンするので、「あんよは上手」の要領で右足左足ゆっくりのっそり、さながら冬眠明けのクマだ。 前に読んだ江戸期の典籍に、雪山で遭
三一書房版の『夢野久作全集』を読み進めていたら、四巻『ドグラ・マグラ』に至ってある画が思い浮かんだ。春めく淡色の構図で万朶の桃色をまとった木がぽつり、風景画である。 おどろおどろしい文脈にそぐわなくてハテと目を窓に遊ばせたら、街路のイチョウがふさふさ黄葉をそよめかせている。まさか、と見直すや寒々しい枝と枝ばかり、三月下旬のうららかな午後だ。 白昼幻覚なんていよいよ名高い奇書の呪いかと心躍らせるも束の間、風景画が気になる。「だれ」の「なに」なのかてんで思い出せないのだ