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『五枚めくり』

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実学全盛時代に文学部を博士課程まで進んでしもうた三十路どん詰まりワンルーム独居男のエッセイ集。四季折々の散歩漫遊また退屈鬱屈の常住坐臥に思い描く意想夢想を綴る、各5枚=2000字…
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花と芥のフラグメント

 三月末に母の誕生日がある。大学は春季休暇の終盤で、非常勤講師ごとき親不孝者にも暇ができるので、今年も帰省した。  帰省中は母とよく散歩するが、折からの陽気のせいか今年は桜が満開だった。過疎と高齢化を極めつつある山国の片田舎では人出もなく、そよ風にちりめくさまを毎日のように堪能できた。 「おおっ」 「綺麗だねえ」  桜木の春たけなわに綻びて万朶の命いざと散りなむ。この色、この風、この潔さ、これぞ春である。  去年と同じく、十八年前から同じく、四月初旬の新横浜駅にひとり

ひび

 気がつけば一年のうち最も好ましい冬を過ぎるに任せてしまっている。春から実入りが減ってしまう非正規につき金策に奔走する日々である。飲まず食わずとまでは行かぬが読まず書かずの貧乏暇なし、われながら実に情けない。  霞がかった碧空の下をそぞろ歩いていたら、ぼとぼと侘助の首が落ちていて、ふと落とし穴にでもはまったかのように足が竦んでしまった。年が巡る、また巡る、もう巡る、──春がすぐそこに迫っている気配はどうも落ち着かない。  貧すれば鈍するとは言い得て妙で、俗事ばかりにかまけ

言海ヲ游グ

 年末年始も課題添削やら試験作成やら齷齪しておりました。ひまを盗んで本を読んだり散歩したり、叶えたためしのない一年の計を懲りず念じてみたり、要するに平年並みです。  この「齷齪」って、字面だけでもジタバタしている感がありますね。似たものに「齟齬」がありますが、これとて通じ合っていない様子が目に浮かびます。四字とも偏は「齒」、近代文学で「よわい」とルビが振ってあったり「年齒」と使われていたりする、「歯」の旧字体です。歯が年輪を表すって、いかにも口腔ケア後進国たる日本らしいです

 晩秋の夕焼けには絶命間近の感がある。早くもおやつ時から傾き始めている日が午後4時を回ったあたりで強烈に濃い朱色を放ったと思えばたちまち暗転、この時季の日没が「釣瓶落とし」と呼ばれるのも肯えるほどあっさり暮れる。  釣瓶とは井戸に滑車で釣られている汲み桶のことだ。上下水道が完備された今では知る人ぞ知るという代物だろう。たしかにはるか地下で地上の光を映す水面へとそれを落としたとき予測よりよほど早くボチャッといっていた、ような気がする。それが喩えられたわけである。  国語か日

独身者の秋

 昔はキンモクセイが苦手だった。あの甘ったるい芳香が未熟な嗅覚には鮮烈すぎたのか、実家近くの土手を通り過ぎるたびウッとなっていた。  今は好きで好きで仕方がない。初秋の醍醐味はもみじ狩りならぬキンモクセイ狩りにありと、それなき秋なんて桜なき春、葵なき夏、六花なき冬に違いないと、ある種モノマニアックな愛着さえ覚えている。いつだったか夢にまで見たほどだ。  起きがけ両腕が枝に変わっていた。ざわざわ繁る葉のすきまに無数の黄花がほころんでいる。脚は変わらないからそのまま仕事に出た

魔に逢えば夏の夜は夢

 日差しやわらぎ暦は処暑、あれほど勢力あった蝉時雨もだんだん疎らになってきて、夜は鈴虫がリイリイ鳴きだしている。首都西方は曇りがちだが暑いものは暑いので、このごろ散歩に出るのはもっぱら黄昏、逢魔時である。  いかにも「魔的」な時間帯だ。じりじり紺青に襲われる夕焼け空は残喘を尽かしつつあるみたいで、うそ寒い空気が混じりだしてなんだか肌寒くもある。駅の方からふらふらやってくる影法師ひとつひとつにも「誰そ彼」と、人か鬼か妖かつい確かめてみたくなる。 「じゃあなァ!」 「またあし

あの堆い積乱雲のむこう

 小学三年の夏休みの宿題に「ぼくの・わたしの夢」という作文があったらしい。先だって母と電話する中で話題になった。田畑山水に囲まれた祖母の家で、手を真っ黒にして書き上げていたという。もう四半世紀より前のこと、そう言われてもなかなか思い出せなかった。  勉強なんて、どちらかと言わずとも嫌いだった。国語算数理科社会より虫取り網とカゴと水路と杉の木の方が絶対的に大事だった。今はベランダにアブラゼミがひっくり返っているだけで肝が冷えるのに。 「『飛』は、こう、こう、こうじゃ。ハネ、

Sとの契約

 やや早めの仕事帰りは午後4時過ぎ、毎年のように聞いている気がするラニーニャのせいか梅雨明け早々の真夏日である。こんなことなら日没まで図書館で時間をつぶしてくればよかったと、暑気に澱んだ駅前を抜けたあたりから悔やんでいた。  ほんの数分が果てしなく遠い。路地には陽炎が踊り、まるで地獄の一丁目だ。住宅街につき日よけもない。こんなときこそ日傘があれば楽なのに、誰に笑われようが指さされようが今さら構うまいと前年も前々年も痛感していたのに、喉元過ぎればの要領で忘れていた、そのことも

雨あめ降れふれ母さんが

 不快ばかり謳われる六月末に誕生日がある。  梅雨は好きじゃない、が手放しに嫌いとも言えない。曇ぐもりに晴れ間が覗けば洗濯事情だけじゃなく喜ばしいし、虹まで架かれば命あることの感激ひとしおだ。なにより重たげな灰白一色の空にも雨だれの透明にも映える、におわしき藤色や葵色の大輪に出会える。  この花、英語では学名そのままハイドランジアという。古代ギリシャ語が語源で直訳すれば「水の器」、他方われらが「紫陽花」は当て字かつ誤記が由来らしいが、どちらにせよ字からも甲乙つけがたいほど

花曇りセンチメンタリズム

 語源「晴る→春」など知らぬと言わんばかり、朝から白々しいまでの曇り空である。拙宅を出たときから足もとには花びらが延々と落ちている。青天を衝かんと伸びて匂わしき桜花この世の春を謳えど、かくもあえなき三日天下よ。桜は散りきった。  春は桜、夏は蝉、秋は紅葉、冬は雪と、四季には「刹那」が欠かせない。しからずば、その中にある人事一切の塵労もまた邯鄲一炊、夢のまた夢、いずれ消えゆくものなるや。路傍に茶ばんで干からびる数多の残滓がいっせいに「無常」ということを物語っている──  死

四月の底ゆくフラヌール

 物心ついたころから冬好きなのは確かなのに、持病の腰痛のせいで年々冷えと寒さが億劫になってきている。今年もお彼岸ごろまで散歩すらままならないほど不如意が続いて、仕事を除けば食糧調達くらいでしかロクに外出していなかった。  年度改まり心機一転、まだ日によっては固い腰を引きずってリハブにと歩きだした。マンションの階段を下りているだけで左側が尻までジンジンするので、「あんよは上手」の要領で右足左足ゆっくりのっそり、さながら冬眠明けのクマだ。  前に読んだ江戸期の典籍に、雪山で遭

ねがわくば

 三一書房版の『夢野久作全集』を読み進めていたら、四巻『ドグラ・マグラ』に至ってある画が思い浮かんだ。春めく淡色の構図で万朶の桃色をまとった木がぽつり、風景画である。  おどろおどろしい文脈にそぐわなくてハテと目を窓に遊ばせたら、街路のイチョウがふさふさ黄葉をそよめかせている。まさか、と見直すや寒々しい枝と枝ばかり、三月下旬のうららかな午後だ。  白昼幻覚なんていよいよ名高い奇書の呪いかと心躍らせるも束の間、風景画が気になる。「だれ」の「なに」なのかてんで思い出せないのだ