『求道のマルメーレ』#11 第五編 砂城の亡霊(一)
第五編 砂城の亡霊(一)
窓の外は相変わらず薄暗いままだったが、雲一つない晴天であった。深い空には無数の星が浮かび、大きな満月の暖かい光が家の中を照らしている。鋼は火の粉が爆ぜる音に耳を傾けながら、暖炉のすぐ横にひっそりとしゃがみこんだハイラを眺めていた。
彼は、昨日鋼が座るよう指示した時から微動だにしていなかった。命令がないと本当に何もできないらしい。まるで人間そのものだと思うと、無意識に眉が寄る。
晩年に見た人間のほとんどは、タンパク質でできたサイボーグのようだった。思考の大半を機械に任せ、システムの言いなりに働き、流行に合わせて姿かたちを変える、奇妙な生き物。かれらだって生まれ落ちた時には滑らかだったはずなのに、体裁のために取り繕った表層はやがてささくれ立って、果ては自らの肩を抱くことさえぎこちなくなるのだろう。だからと言って上塗りを重ねれば重ねるほど、輪郭が膨張して核心が希薄になる。そうやって核心と道をたがえるほどに、何も感じなくなって考えるのがおっくうになる。だから惰性的に上塗りをし続けるのだ。核心が飢えていることにも気付けず、心が貧しいことも認められない。
ハイラも多くの人々と同じく、ぎこちなく関心が乏しい。裏切り者の存在が明らかになった以上、実験個体としてではなく証拠としての情報を引き出す必要があるのだが、いかんせん本人が活動しないのでは厳しいと、鋼は半ばあきらめていた。
だが一つだけ、予想に反して早くも手がかりを見つけた。鋼が寝る前に絵日記をつけるのを彼がじっと見るものだから、試しにやらせてみたら面白いことが分かった。左利きなのだ。鋼がやって見せるのは右手なのに、わざわざ持ち替えてでも左手で筆を握る癖がある。
癖というのは個性だ。集団として生まれたゴーストに先天的な個性が存在しえない以上、それは経験によって発生したものとしか思えない。左利きであるという個性は、ハイラが覚えるほど見た動きなのだ。つまり、それを学習するだけの時間、ハイラをそばに置いた者がいるという事になる。
「ん、後ろ姿は完璧。」
降って来た声に引き戻されて鋼が顔を上げると、窓に映り込んだ黒刃が微笑んでいた。同じく窓に映る少女が継承者制服を着ているのを見て、ようやっと我に返る。礼を言った鋼は外套の裾をたなびかせて振り返った。何も知らずに目を細めた黒刃は、鋼の頬を愛おしそうに撫でて逆の頬にそっと口付けた。鋼が鼻にかかった笑いを漏らす。
「気を付けて……帰ってきて。」
すり寄るようにして、黒刃が低く告げる。鋼は幼稚な笑い声を止めると、ゆったりとため息を吐くように微笑み、黒刃の背中とうなじに手を回した。
「わかった。」
それでも黒刃は鋼を抱えたまま、藍色の髪の束を掴んで離さない。苦笑した鋼があやすように黒刃の背中を叩く。
「大丈夫だよ。今の俺には、待っててくれる人と帰りたいと思えるところがあるんだから。……でしょ?」
不安げな黄色い目を見つめてそう言うと、鋼はこわばった黒刃の頬を両手でこねまわした。薪が割れて高鳴る。やっとのことでちょっと表情を緩めた黒刃は、腕の囲いをほどいて半歩引いた。
「……行ってらっしゃい。」
じんわりと微笑んで、黒刃が真新しいランタンを差し出す。鋼は黙してそれを受け取ると、風除室の戸を開けた。冷気が足元に流れ込む。黒刃が足を踏み直す。
「あ、忘れ物。」
そう言って急旋回すると、鋼は黒刃に飛びつくようなキスをした。
「あは、大好きだよ。行ってきます。」
驚いて口が半開きになった黒刃にいたずらっぽく笑いかけた鋼は、あっという間もなく踵を返して、一秒後には玄関の戸を閉めていた。
刹那、冬の澄んだ冷たい空気が肺を満たした。木々を上手によけて、月明かりに青白く染まった雪がカーペットのように広がっている。そこに時折点々と獣の足跡が残されていて、他には何の息遣いも感じられない。
笑みの名残を浮かべていた鋼は急激に表情を欠落させ、まだ黒刃の頬の感触が残っている両手に革手袋を付けた。家の窓から、蝋燭の灯りが漏れて揺れている。鋼はほんの少しもそちらを見ないように、ほとんど息を止めて歩き出した。
うっすらと透けて見える小道を進む。鋼は不意に、木立の少し手前で立ち止まった。モミの木の幹をなぞるように視線を上げると、近くの枝に一羽のフクロウがとまっている。丸い頭をくいくいと小刻みにかしげるその様子をしばし眺め、鋼は微笑んだ。
「……今までありがとう。よく働いてくれたんだね。」
話しかけると、フクロウは目を丸くして顎を引いた。足を踏みかえる辺り、言葉を理解しているようにも思える。鋼はハイラにも覚えさせようと決めた。
「平原へお帰り。君はもう自由だ。私を見ている義務はないんだよ。」
丘の向こうを指差しながら言うと、フクロウはそちらと鋼を交互に見やり、そして飛び立った。モミの枝に積もっていた雪がはらはらと舞って外套に落ちる。やはり生き物はこうあるべきなのだろうなと思い、鋼は若干俯いた。守ることと囲うことは別なはずだと感じながら雪を掃う。そして外套に残った透明なシミに、唇を引き締めた。
幻想界に降る純白の雪は、もう地球上では見られない。鋼には、それが空しくて仕方なかった。単に自然美の喪失を憂いているわけではない。むしろ上澄みの綺麗な部分ばかり目につく幻想界がそうさせていた。きっとそれは、現状への諦めや現実への絶望に由来している。地上にない楽土を死後の世界に夢想するから、幻想界は美しく輝くのだ。
そして霊道こそが、今やその差異の狭間にある混沌だ。神々は地上に残された子孫の現状を直視することに耐えかねて、現世界どころか霊道そのものから目をそらしてきた。そうして霊道は、本来の道という意味を超えて、無意識の領域に変わってしまったのだ。
古今東西、虚ろには何かが潜む。そこに生まれ落ちたゴーストに背後を突かれたとて、我々には文句を言う権利などないのだろう。
ザン、としぶきを上げて岸壁を大波が打つ。浮子から離れてしばらくも経たないというのに、鋼は思考の波にのまれて前後不覚に陥っていた。
「おはよう、ニェフリート。」
突然そう呼びかけられてようやく我に返る。目をしばたき声のした方を向くと、鼻の頭を赤くしたテオドロが岩山の絶壁にもたれるように立っていた。青緑色のストールを首に巻き、緻密な刺繍が施された白いシャルワニを着ている。左胸に付けられたターコイズのブローチをちらっと伺い、鋼は取り繕うように姿勢を正した。
「おはようございます、地神王陛下。ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。」
「とんでもない。むしろきちんと弔問できなくてすまないね。君も、どうか気を落とさないように。」
テオドロの気遣いに感謝の意を表し、深く下げた頭をゆっくりと持ち上げる間、彼の両手をじっと観察する。猜疑心をおくびにも出さず、鋼は寂しげな微笑みを浮かべてみせた。
「では、行こうか。」
テオドロが霊道を示す。鋼はそれに会釈して足を踏み出した。
月明かりから逃れた茂みをランタンで照らしながら分け進む。まもなく二人は霊道を塞ぐ結界と対峙した。歩みが止まり、一瞬の静寂が母女王の遺した結界を見上げる。手袋を外した鋼は、湖面のような水の膜にそっと右手を付け、くっと押し込んだ。高く軽い破裂音と共に結界が解け、散った水の粒が重力に従う。黙祷するテオドロを横目に、鋼は右手の中に残った水の粒をころころと転がしてから地面に返した。
聖水に照らされて洞窟の中がほんのりと光る。澄んだ水の軽やかな匂いに誘われるように、二人は熔岩洞に踏み入った。奥に進むにつれて、土の地面が固い岩肌に変わっていく。コツコツと靴音が鳴るのに混ざって、細かな砂粒がすり合わされる音がした。
「陛下は平素より裁縫をなさるのですか?」
唐突に鋼が発する。テオドロはきょとんとした後、含み笑いを漏らした。
「さすがだね。どうして分かったんだい?」
「右手の中指の第一関節と第二関節の間に、厚みのある指輪状のものを付けた跡が見えました。親指方向からの圧痕が顕著でしたから、指抜きかと。」
微笑みながら鋼が言うと、テオドロが楽しそうに笑う。
「君の世代は指抜きなんて知らないと思っていたよ。」
「あら、あいにく簡単な服くらいは自作しております。」
冗談めかしてそう言いながら、鋼はテオドロが右利きであるという情報を記憶に深く刻み込んだ。ひどく疲れたような顔が一瞬浮かんだ。
洞窟ののど元を過ぎ、岐路を過ぎる。いつか聞いた風音は全く聞き取れなかった。靴音だけの静けさを破って、テオドロはハープのような声音で穏やかに言った。
「クルスは元気にしているかい。しばらく顔を合わせていないから、よかったら帰りにお邪魔してもいいかな。」
そう垂れ目がちな笑顔で首を傾げる。鋼は細かく目をしばたいて、それを見上げた。
「寒さに文句を言いながらも何とか元気にやっています。こちらこそ、直していただきたいものがあってお越しいただければと思っていたところです。ぜひ彼にも声をかけてやってください。」
よかったとテオドロがはにかむ。鋼はテオドロの水色の瞳にブルーノを重ねた。髪もそっくりの光沢がかった黒だ。黒刃や地神女王フェイの沼底のように深い髪色とは少し違う。
鋼はふと、岩壁の向こう側を透かし見るような遠い目をして、鼓動の不規則な動きを自覚した。黒刃の祈るような抱擁の感触を思い出す。ランタンを持ち替え、自然な風を装って肩をさすると、テオドロが不意に切り出した。
「心配なのは彼? それとも君かな。」
突然の問いにも、鋼の心臓は平静を保っていた。かといって目を合わせられるほどの自信はない。代わりに独り言のような声が漏れた。
「疲れているだけ、ではないのでしょうね。混乱とも違う。単に、荷が重いのです。」
言いながらさらに目を伏せる。不思議と心の中身に触られるようだった。それでいて、どうしてか不快感がない。鋼はそうぼんやり感じながら、唇を小さく噛んだ。
「一人に慣れたつもりでいた。他人を尊敬することもほとんどなかったどころか、大抵は拒絶してきた。それがいまさら、この世を許し、受け止められるようになろうなんて……想像もできません。」
しおらしく首が垂れる。テオドロは小さくなっていく背中に、息を吐くように微笑みかけた。
「世界を愛したいのなら、まずは隣人を愛すればいい。隣人を愛したいのなら、隣人への欲に気付けばいい。隣人への欲に気付きたいのなら、自分自身と向き合うことだ。君は今からそれをしに行くんだよ。焦る必要はないさ。」
テオドロがそう言う間、鋼はゆっくりと顔を上げていった。やっと合った視線に、テオドロが頬を緩める。
「私はね、君が今日から、昨日までの自分を超えていくことを確信しているんだ。ずっと閉鎖的だったニェフリートが、今日は私とこんなに言葉を交えている。世間話でもなく、腹を探るでもなく、むしろ率直な心情をあらわにしてね。」
微笑んだテオドロの目の下にできた薄い涙袋の影に、鋼は黒刃の笑みを重ねた。心底うれしい時の笑顔だ。黒刃がかつてテオドロのことを、年の離れた兄のように語ったことを思い出す。
「君はきっと、いい神になれるよ。」
テオドロはそう言って歩みを止めた。眼前の岩壁には、装飾の破損したドアノッカーが下がっていた。
霊道内の空気は一貫して乾いていたが、この辺りにはざらついた砂のような感触が混ざっている。鋼は小さく咳払いをした。テオドロは少しの間、ドアノッカーを見つめた。
「女王選別とは言っても、継承者を返さないことはない。誰もが何の確証もなくそう信じていた。だから妹たちまでは、こうやって王が付き添う事も、再試行もなかったんだけれどね。」
そう呟く間、テオドロはずっとノッカーのえぐれた部分をなぞっている。声音が少し低いことに気付いた鋼は若干顎を引いた。黙っていると、何食わぬ顔でテオドロが振り返る。
「選別を行う領域は神技の相性で決まるんだ。分かるね。全神会議により、君の選別再試行は認められている。万が一の場合には私を呼びなさい。終わるまではここにいるから。」
「承知いたしました。」
鋼が会釈をすると、テオドロは取り繕うように何度か頷いた。
テオドロがノッカーに右手をかける。鋼は深く息を吸い姿勢を正した。
「雷神の管理領域である乾燥地帯を抜け、霊道を探せ。」
テオドロの声と共に、一打目のノック音が洞窟内にこだまする。
「そして霊道をたどり、ここまで戻ること。」
二打目。ノッカーのいびつな形状のせいか、響く音が一定でない。
「神技は幻想界内のみを対象とする。」
三打目。今度は低く、唸るような音が鳴った。
「神として、孤独に挑め。」
四打目と共に、壁に亀裂が走った。切れ目から差し込んだ白く強い光に目がくらむ。鋼は目の前に手を掲げ、薄目で指の間を見つめた。ずいぶん久しぶりに目にする太陽光は温かく、強引なまでに鋼の輪郭を照らし出していた。
「気を付けて行っておいで。」
右手からテオドロの声だけが聞こえる。あまりに強い光にあてられて見えないその姿の方に目をやり、鋼は光の射す方に向き直った。手で作っていたブラインドを上げる。
「行ってきます。」
その声と共に、黒いブーツが一歩、亀裂の中に踏み込む。純白の外套が光の中に溶けこんだ。
この度のお話、お楽しみいただけましたでしょうか。今後も、内容やテーマに対して責任をもち、読んでくださるみなさまに思いが届くよう、作品と真摯に向き合っていく所存でございます。 もしも支持したいと思っていただけるようであれば、サポートという形でお気持ちをいただけると恐縮です。