見出し画像

『求道のマルメーレ』#6 第三編 全神会議(一)

前回    目次    次回

第三編 全神会議(一)

 目覚めは唐突に、海底から浮上する泡のように襲い来た。鋼は頭の奥がジーンと痛むのを感じながらしばらく寝そべっていたが、手のひらに書かれた「弁明」の文字を見るなり、その手で額をベチ、と叩いた。
 ぐっと首を伸ばし仰ぎ見ると、壁に掛けられたネジ巻き時計の針が無情にも五時過ぎを指している。窓の外は朝日が差す少し前といった様子だった。群れの目覚めを促す野鳥たちの澄んだ鳴き声も、いったん聞こえ出すとうるさく思えてくる。
 鋼は仕方なく上体を起こした。頭痛を散らかすように首を振って、分厚い布団から引きずり出した体を肌寒さにさらす。ベッドサイドテーブルに置かれた水を飲み、続けて日記を眺めたが、それでもいまいちしゃっきりしない。頭の中に砂でも詰まっているかのようだった。
 ふと、背後から微かな呻き声が聞こえる。振り返ると、力なく横たわったままの黒刃がぼんやりと鋼を見上げていた。
 眠そうな目尻がまだ赤い。首にうっすらと浮かんだ鬱血痕に反して、吊られたままの左腕の傷はもうほとんど塞がっていた。ヒビの入っていたあばら骨も、もう支えてやる必要がないほどにまで回復しているようだ。
 鋼は無理に起き上がろうとする黒刃の肩を押し返した。
「いいの、まだ寝てて。会議は俺一人で出るから。」
 そう言いながら、抵抗せず枕に収まった黒く滑らかな髪をかき混ぜる。黒刃は何か言おうとして、咳払いで嗄れたのどを目覚めさせた。
「へいき?」
 そのたどたどしい発音に鋼は微笑み、指の甲で黒刃の頬を撫でた。おとなしく伏せられたまつ毛の間から覗く黄色の瞳が、わずかに震える。
「もう大丈夫。ありがとう。」
 昨夜とは一変した穏やかな声音に、黒刃は少しだけかぶりを振った。
 ふと、その上気した頬に体温の異常を認めた鋼が、布団越しに黒刃の体をさする。
「帰ってきたら朝ごはん作ってあげるから、それまで待っててね。」
 返事と共につぐまれた唇を塞ぐと、鋼は黒刃の顔にかかっていた髪を掃った。
「……大好きだよ、黒刃。」
「うん……俺も、愛してる。」
 黒刃がそう言って手に口付けを返した瞬間、鋼はやはり表情を硬くした。
「黒刃、今のは……?」
 細い声でそう尋ねると、ぐずるような低い声が返って来る。そのわずかな刺激に心臓が跳ね、答えが放たれるまでの一瞬の間、みぞおちの縮み上がる感覚が鋼をいじめた。
「……ずっとそばにいるから、心配しなくていいよってこと。」
 穏やかな声と共に、冷たくなった指先を熱いくらいの手に握られる。鋼は何度か激しく目をしばたき、
「そっか」と言って手を握り返した。
 しばらく黙っていると、黒刃の息が深くなってくる。繋いだのと逆の手で胸の辺りをトントンと規則的に叩いてやると、黒刃はすぐに眠りに落ちた。手をそっと引き抜く。ずり下がった布団をかけ直すと、鋼は音もなく滑るように一階へ降りていった。
 改めて目の当たりにするとやはり、使徒に備わった再生能力というのはすさまじい。鋼は鳥肌の立った二の腕をさすりながらそう思った。古い文献によれば、契約を交わした主人が命じるか死ぬかしない限り、使徒は増殖や欠損を許されないらしいのだ。それは、使徒が主人の財産であるからだという。言い換えれば、使徒が主人の財産を左右することなどあり得ないというわけなのだ。
 実のところ、解約についても主人からのみ有効というこの一方的な契約が、鋼はあまり好きではなかった。まるで奴隷のようで、理性では嫌っていた。少女時代の衝動的な契約を惰性で継続しているだけなのだ。それだのにいまだなぜか、解約できていない自分がいる。
 朝支度を済ませ、鋼は鏡の中の自分を睨むように覗き込んだ。右手首の傷口に一瞬痛みが走る。だがいくら見つめても、あれほど重かった背中には、もう何もいなかった。
 踵を返しクロゼットの戸を軋ませると、中には水に覆われた三つの衣類が佇んでいた。真ん中の灰色の塊に鋼が手を伸ばすと、埃除けのための水が道を開ける。
 ハンガーにかかっていたのは灰色のスーツ。それも軍服に近いデザインのものだった。鋼は金の装飾が所々に施された硬い生地を身にまとい、黒いブーツの紐を絞った。ベルトでウエストを締め、小さなポケットのついた革の襷を肩からかける。
 この上にカラーリングの自由な外套を羽織るのが、鋼がこの服で唯一気に入っているところだった。裏地を紺桔梗色に染め上げた純白の外套を羽織って、ブルートルマリンのブローチでその襟を留める。外套のしわを伸ばし、両手には黒い革手袋を着けた。
 準備が終わり水回りから一歩出ると、朝日が窓から入り込んできていた。鳥の鳴き声もいつの間にかやんでいる。風の音もない。こうなってみると、いやに静かなものだ。
「……行ってきます。」
 吹き抜けの下から二階を見やって呟いたが、当然返事はなかった。鋼は静かに家を出て、そして外からかんぬきをかけ直した。
 静穏な草原を足早に通り過ぎると、鋼は岩山の影に踏み込んだ。黄色い日の光が届かない熔岩洞の入り口は、冷たく青みがかっている。鋼は結界が張られた霊道の手前にもたれかかって、手持ち無沙汰に女王からの命令を待った。いつでも暗闇を覗けるように『妖狐』をきらめかせ、待ちぼうけをちまちまとついばむ。
 人として死んで以来ずっと黒刃と一緒にいたせいで、どうも暇のつぶし方を忘れてしまったらしい。鋼はしばらく揺れる植物の穂先を凝視していたが、不意に蘇った父王に関する記憶の断片にひどく顔をしかめた。勢い良く首を振ってため息をつくと、胃もたれしそうな記憶を押しのけて口当たりのいい思い出に浸り直す。
 それでやっと、ある詩にたどり着いた。当時は五拍子が謡いにくいと屁理屈をたれて、よく父王を困らせたものだ。だがそれでも父王は根気強く謡った。今や脊髄に刷り込まれた、神の教典を。

  炎の蹄を鳴らし駆ける、熱き多雨林の守護者
  それは獣だが人であって神なる者
  業火はすべてを焼き払い、亡骸で土地を癒すためにある

  風の翼を広げ舞う、太陽に近き山々の守護者
  それは鳥だが人であって神なる者
  突風はすべてを薙ぎ倒し、大気の圧力を均すためにある
 
  地の鱗を光らせ目す、移り行く四季の守護者
  それは蛇だが人であって神なる者
  地震はすべてを押し潰し、大地に鼓動を促すためにある
 
  水の尾鰭を靡かせ泳ぐ、凍てつく海の守護者
  それは魚だが人であって神なる者
  洪水はすべてを飲み込み、その地の時を戻すためにある
 
  歴史から受け継いだ知恵を絞り
  女王から受け継いだ力を使い
  人々から受け継いだ血肉を返して
  種族から受け継いだ治を守る者たちよ
  一つ、知恵を奢らず
  二つ、力をあなどらず
  三つ、血肉を蔑まず
  四つ、治を怠らず
  決して、恐れに囚われてはならない

父王はいつも、それを謡った後で付け加えるのだ。
「覚えておきなさい。すべてを許すことは神にしかできないことなのだと」と、寂しそうに海の向こうを眺めながら。
 だけど父様。私はいまだに、自分の中に存在する数々の矛盾をどうすべきなのか考えあぐねているよ。そう、鋼は唇を小さくして俯いた。この辺りをうろつくしかない自分が、この後たかだか十年かそこらで神たりうるのかという不安が、抱え込んだ矛盾を増幅させている。そう自覚していながら、かといって多くの大人になれた者たちのように、自らの気持ちや心の状態を分解して正当化するような気にもなれない。だから私はいまだに、血肉を蔑み続けているのだ。
 にわか雨のように唐突な衝撃が後頭部を押し、鋼は長い回想から突然我に返った。大きくかぶりを振って結界を通過し霊道の中に踏み入ると、冷たい空気に鼻がツンとする。整列した聖水が発する月のようなきらめきを塗り潰すように『妖狐』が輝いた。
 外套の白色や髪の藍色やブローチの澄んだ青色に照らし出される入り組んだ洞窟の中を、鋼はほとんど迷いなく進んでいく。数分と経たず行き着いた突き当たりの壁面には、波と魚を象ったドアノッカーが垂れ下がっていた。鋼は外套のよれを伸ばし、靴のほこりを払うとノッカーに手をかけた。
 澄んだ音が四度、洞窟の壁を伝いこだまする。音の波が暗闇を駆け巡り帰ってきたちょうどその時、行き止まりだったはずの岩壁に一筋の亀裂が走った。その隙間から漏れ出た光と共に広がった裂け目が、両開きの扉のように鋼を迎える。
 光の中に踏み込めばすぐさま、目が眩むほど高い天井と、そこから下がる大きなシャンデリアが姿を現した。灯された数百の蝋燭の火が、そこかしこで反射しては鋼の影を塗りつぶしている。黒と白の大理石がタイル状に敷き詰められた輝く床からは、黄金の支柱がついた白い石造りの階段が伸びていた。
 背後で扉の閉まる音がする。『妖狐』を解いた鋼はその場で一礼すると、十字に分岐したレッドカーペットを直進し、証言台へ足を進めた。
 左右の分岐はそれぞれ、証言台を囲むように弧を描きながら階段へと続き、正面にある中二階傍聴席の足元で環状に繋がっている。傍聴席に置かれた三脚の椅子に座っているのは、事前の告知によればいずれも炎神の継承者たちだ。真ん中に王女が座し、その両脇に護衛さながらの兄王子たちがいた。みな、鋼と似たような年格好だ。不躾に思われないように気を付けながら、見知らぬ面々を眺める。黒髪の王子は議場の空気に緊張しているのか本物の騎士のように張りつめていたが、茶髪の王子は体格と無関係に居住まいがどっしりしていて、どぎまぎしている王女よりよほど要人のような風格があった。
 そんなことを考えているうちに、鋼の足は証言台の前にたどり着いていた。仕方なくかれらのさらに上段を仰ぎ見ると、テラス席のような五つの窓がある。空っぽな右端の席を除いたすべての窓には、赤い上質そうなカーテンが降りていた。
 鋼は気を付けの姿勢を取り、テラス席の真ん中にある一際大きな窓を見上げた。
「マーメイドの海島より、水神王女ニェフリート。議長の命により出廷いたします。」
 張りのある声が響くと、すぐさま中央の窓から木槌の音が三度高鳴った。炎神継承者の三人が立ち上がり、閉じていたカーテンが一斉に開く。座したままで現れた六人分の視線が、静かに証言台へと注がれた。議長席で鳴らされた追加の一打に、テラス席の全員が起立する。
 鋼が議長をちらりと窺うと、タンザナイトのブローチが右手の薬指で光っていた。空色の髪をなびかせ金のロケットを揺らして、見慣れた長身が声を上げる。
「西暦にして二一〇五年、九月三日ないし四日。全てのエレメント神の集結を認め、ここに全神会議を開廷する。議長はマーメイドの海島より、水神女王キャロディルーナが務める。異議のある者はこの場で名乗り出よ。」
 三秒ほどの静寂を待って、議長は木槌を一度だけ打った。鋼と議長以外が静かに席につく。
 水神女王はいつものように、冷厳な視線をもって鋼を見下ろした。シャンデリアから注ぐ光が、紺色のドレスの重厚さをより一層際立たせている。
視線が絡んだ一瞬のせめぎ合いの末、尋問が始まった。

 今しがた、どうも窓のすぐそばで小鳥が鳴いたような気がする。黒刃は横になったまま瞼だけを動かした。手足が重たい。頭の奥がタールのように溶けて、枕とその下のベッドにくっついてしまったようだった。
 ほんの少しの寒気を感じ、のそのそと布団をかき集める。引き寄せたやわらかいブランケットからは焼き立てパンのような鋼のにおいがした。くしゃみを一つして、黒刃はミンク質のふわふわした感触の中に顔をうずめた。
 冷える足をこすり合わせて横向きに寝返りを打つと、左手首の両面がチクチクと痛む。だがそれよりも、軋むのどの感触の方が鮮明に残っていた。黄色の瞳がおぼろげにまたたく。
 出会って一年が経った頃、気付けば鋼は獣のようなものを背負っていた。いまさら古傷がじくりと痛む錯覚に、当時は傷が治ったら逃げ出そうと思ったんだっけ、と腹をさする。なのに、その直後には真逆のことを考えている自分がいたのだ。両手を血で濡らして震えながらうなだれる彼女と、その背後に滲み出た獣のようなものの一睨に射止められた瞬間、最優先なはずの生存本能にあらがってでも彼女のそばにいようと思った自分が。
 それから共に過ごした時間が、少しずつ彼女のことを教えてくれた。同情を受けることへの劣等感が、俺を拒んだのだと。薄暗い衝動への恐れと罪悪感が、背中の獣を産んだのだと。思えば彼女はまだ、ほんの少女だった。鬱憤の吐き出し方が分からず、自棄になって暴挙に走り、知識不足の結果にどうしていいのか分からなくなった思春期のこども。愛という言葉の裏に秘められた画策に不信と恐怖を募らせた、体温に飢えたこどもだったのだ。
 少しの痒みがのどを這う。黒刃は自分の首元に右手を伸ばし、鋼の手の痕をそっと撫でた。すると奇妙にも思い出し笑いのようなものが沸き上がって無邪気な声が漏れた。思わずもぞりと身をよじる。声が掠れているのを自覚した黒刃は、水を飲むために上体を起こした。
 ベッドの上を四つん這いで進み、サイドテーブルに手を伸ばす。と、床にはメモがいくつか、獣の抜け毛の塊のように散乱しており、水の瓶とガラスのコップの脇にはノートが三冊たむろしていた。そのうちの二冊は見慣れたもので、年号と共に箇条書き用とスケッチ用の字が表紙に記されている。だが一番下に、タイトルのない分厚いリングノートが置かれていた。
 黒刃は水をあおりながら、視線だけそれに向けて離さなかった。コップを置いた手がそのまま見知らぬノートを持ち上げ、開く。鋼の几帳面な性格を思えば、さしてやましくも感じなかった。
 ページをめくると、それはアイデア帳だった。誰かに漏らすのもはばかられるような本音が、寄せ集めの取っ散らかった言葉で綴られている。修正線が何重にも引かれた走り書きなどは読みにくいことこの上なく、途中から急にモチーフが変わるようなものさえ見受けられた。だがその中に、ある種の力強さと生々しさが蠢いている。
 黒刃は唇を舐めて、一番新しいインクの匂いを追いかけた。そしてはたと手を止め、あるページをなぞった。

——私はいつも、時を戻すことができたらと考え、自分の立ち回りのやり直しを想像し、やめる。自分がもっと度胸やカリスマがあるかのように行動できていたらと、そんなふうに考えて、やめる。つまるところ私は誰かのための未来より、自分のための現状を欲しているらしい。時を戻したって、きっとむなしいだけだ。——

 崩した字体を現像する万年筆の濃淡は、泣いた女の横顔を連想させた。

この度のお話、お楽しみいただけましたでしょうか。今後も、内容やテーマに対して責任をもち、読んでくださるみなさまに思いが届くよう、作品と真摯に向き合っていく所存でございます。 もしも支持したいと思っていただけるようであれば、サポートという形でお気持ちをいただけると恐縮です。