『求道のマルメーレ』#8 第三編 全神会議(三)
第三編 全神会議(三)
メリッサに焚き付けられて、鋼の瞳は沸騰するように滾っていた。水の匂いが場内を満たす。なるほどこれが本性かと、場にいるほとんどが身震いするか苦笑を浮かべた。
その中で風神たちだけが明らかに顔をしかめたのに対し、キャロディルーナは唯一、全くの無表情を貫いていた。
右手の薬指のタンザナイトがスッと弧を描き前に出る。藤色の瞳は、シアンブルーに反してあまりにも冷ややかだった。
「議長である以前に水神女王として意見したい。全員が仮称ゴーストへの対処に肯定的であったので、悪魔の代弁者制に基づき対処は不要という考えの元に論じる。」
瞬間、鋼のはりつめた瞳孔がキャロディルーナを捉えた。そこには敵意も拒絶もなく、ただ自分が自分であるということのために費やさなければならない活力が止めどなく湧き出ていた。
藤色の瞳が一つまたたく。金のペンダントが揺れた。
「対処は不要である。なぜなら、第一に誰も仮称ゴーストの存在を立証できないからだ。そして第二に、仮にゴーストがいるとしても、それに対処する必要性を立証できないからだ。」
一瞬、鋼の瞳が揺れ動いた。キャロディルーナが続ける。
「ゴーストは、執念を元に寄り集まった人間の魂が機能的な体を持った状態とニェフリートは定義した。しかし実際のところ、機能的な体というのはマーメイドの海島でのみ、しかもニェフリートとその第一使徒にしか存在を確認されていない。霊道に溜まる黒い澱のようなものであれば他の領域でも度々発見される。が、それらが一定以上の体積を持つことは報告されていないのが現状だ。客観的な証拠を欠いた仮称ゴーストの存在に、信憑性を感じることはできない。」
鋼が表情のないまま、信憑性の三文字を心の中で復唱する。
「また此度、ニェフリートの第一使徒を襲ったのは、そのかつての同志であるゴルゴーンの堕使徒だという。一人救われた第一使徒への嫉妬が堕使徒を狂わせ、騒動を起こさせたというのなら、それが堕使徒ではなく、あくまで仮称ゴーストであったとは明言できない。よって仮称ゴーストが知能と理性を持ち、その上凶暴であるかなどはもちろん、環境の統治やエレメントの均衡に干渉するかも明らかでない。継承者や動植物への被害も可能性の域を出ないのであれば、対処の必要性は立証できない。以上である。」
キャロディルーナは静かに一歩引いた。
誰もが予想した通り、間髪入れず右手が宙に挙がる。議長は滑るようにニェフリートを指名した。鋼が証言台から乗り出さんとする勢いで、食らいつくように言い放つ。
「水神女王陛下のゴーストに対する論述に反駁いたします。」
そして、右手の指先で証言台を強く撫でた。艶やかな木目が革手袋とすれて、微かながら鳴き声を上げる。
「まず、水神女王陛下に質問申し上げます。ゴーストの存在を確認しているのは私と私の第一使徒のみという点に関してですが、私の第一使徒が捕縛していた二例目のゴーストに対処なさったのは女王陛下ではない、という事で間違いないでしょうか。」
「確かだ。そのようなものに接触した覚えはない。」
立ったままの姿勢でキャロディルーナは答えた。
「では、状況から鑑みるに、二例目のゴーストを処分したのはゴルゴーンの堕使徒でありましょう。しかし、ゴーストの体は粘着性のある液体、女王陛下のお言葉を借りるなら澱に常時覆われております。この澱は、実験で試したすべての物質にこびりつき、また生物に害を及ぼす性質があり、エレメントあるいは澱そのものを介さずに接触する事はできません。よって堕使徒が対処したのであれば、その体は侵食され著しく体力を消耗しているはずです。しかしながら堕使徒は、水神神技を有する私の第一使徒を昏倒させ、誘拐することができた。つまり、堕使徒はゴーストであったという結論に至ることができると考えます。」
感情的になるのを抑えてわざとゆっくりと言い終えると、鋼は少しの会釈を上座に向けて半歩下がった。しかし、再び降ってきた冷ややかな声がそれ以上の後退を許さなかった。
「ニェフリートの論述に反駁する。」
メリッサが咎めるように議長席を睨んだ。フェイが呆れ顔で額に手をやる。
「二例目の仮称ゴーストに対処したのが堕使徒であるというのは憶測の域を出ない。また、仮称ゴーストの体を澱が常時覆っているという事は立証できない。さらに、生物に害を及ぼすという仮説についてだが、客観的事例は存在せず、どの程度体力を消耗するのかも分からぬ以上、それを証明する根拠がどこにあるのか。机上の空論と独自の解釈をもとに導き出された急拵えの結論は信じるに足らぬ。」
矢継ぎ早にそう言い切ったキャロディルーナは、鋼を静かに見下ろした。
証言台と上座との距離は必要以上に離れていて、それはまるで大きな亀裂のように両者を分断していた。底無しの亀裂から風の唸りが低く響く。
ブルーノとライナが首をすくめて怪訝な顔をする。フエゴも居心地悪そうに足首を組んだ。
「……つまり女王陛下は、私の報告がすべて、机上の空論と独自の解釈をもとにした仮説であって、それらは信用に足らぬと、そう仰せなのですか。」
鋼が挙手も忘れて、薄ら笑みを携え議長席を仰ぐ。それでも女王の表情は変わらず、声さえ揺らぎはしなかった。
「全神会議での許可を待たず調査を行うという事は、こういう評価を招きうるという事だ。立場をわきまえよ。」
藤色とシアンブルーがぶつかるほど、鼓動のようにだくだくと水の匂いが濃くなっていく。
なお噛みつき合おうとする母子の姿に耐えかねて、上座の何人かが風神女王の席を見やった。エーテルが左手を振るう。途端に議長席に向かって風がなびき、木槌がふわりと持ち上がった。
カンッ、と木槌の音がこだまする。その時、石壁を叩くような固い音が重なって響いた。ぎょっとしたすべての視線が、音源であろう一つの扉に注がれる。鋼が通ってきた水神の扉だ。固い音はその後三度鳴り響き、そして止まった。
両開きの戸が裂けて暗がりから広がる。ゆっくりと開いた戸の隙間を抜けて、黒い足がぬっと前に出た。
「会議中、失礼いたします。水神王女ニェフリートが第一使徒。議長陛下の命のもと、遅ればせながら出廷いたしますことをご容赦いただきたく存じます。」
鋼の表情が少し緩む。ひざまずき低く首を垂れた黒刃の一本に縛った髪が揺れた。破裂寸前の風船のようだった場の空気が一気に緩み、誰かのため息が聞こえる。
議長が改めて一度の木槌を打った。
「出廷を許可する。面を上げよ。風神女王からの休廷要求を承諾し、これより十分間の休憩をとる。」
そう言うや否や、議長席のカーテンが閉ざされ揺れた。追ってエーテルの席が隠れ、メリッサが身を引いていくのが見えた。
炎神のこどもたちが物珍しそうに見る中、黒刃は鋼の手を借りて立ち上がった。口が隠れるほど襟の高い宣教師のような黒装束の裾が滑らかに波打つ。
「いいよって言ったのに。」
鋼が小声で言うと、黒刃は目を細めた。
「うん。でもやらなきゃいけないこと、思いついたから。」
取った手がまだ熱い。微笑んだこめかみには、じんわりと汗が滲んでいる。鋼は困り笑いを浮かべた。
ふと顔を上げて上座のほうを見た黒刃が深くお辞儀をする。鋼が振り返ると、地面から音もなく柱が伸びていた。なるほど、タイルに見えた大理石は柱状で、地下に深く埋まっていたらしい。見る間にテラス席から下階層へ降りるための階段が築かれていく。鋼は降りてくる二人の地神に会釈を向けた。三人の炎神継承者も同じように頭を下げている。
「面を上げよ。休廷中だ。皆、楽にしてよい。」
フェイの凛とした声に顔を上げると、テオドロがこどもたちの元へ降りて行くのが見えた。フェイはというと、靴音を鳴らしてこちらに近付いてくる。切りそろえられた前髪が神楽鈴のようにシャンと揺れた。豊かなファーの首巻と深緋のチャイナドレスを着こなす彼女の胸元では、ほんのりと桃色に色づいたムーンストーンのブローチが光る。だが上品にくすんだ黄色のズボンは、花街より寺院を彷彿とさせた。
黒刃はフェイを見下ろさないように頭を低くしている。鋼は改めて会釈をした。
「ご無沙汰しております。フェイ女王陛下。」
「ん、お前も変わりないようで何よりだ。しかしまぁ……」
言葉を切った薔薇色の目が、黒刃を見やって言う。
「病み上がりでよく霊道を抜けられたな。悪くない。」
「お褒めに預かり大変恐縮でございます。」
黒刃が深く頭を下げると、衣装の胸元に施された、五芒星とその頂点を結ぶ白い刺繍が揺れた。星の中心に浮かび上がった逆五角形とその右肩の三角形の中を、澄んだ海のような青が塗りつぶしている。三角形の位置は主人の種族を、糸の色は主人のブローチを表す使徒印だ。それに目をやると、フェイは含み笑いを漏らした。
「どうも見慣れんな。まぁよい、楽にせよ。」
「はい、女王陛下。」
黒刃が目を伏せたまま首をもたげる。フェイは鋼に向き直ると、不意に右手でそっぽを指差した。
「さてニェフ。お前の、少し借りてもいいか?」
言われた鋼が反射的な速度で黒刃の方を見る。そして視線をフェイに戻し、愛想よく上目遣いで小首をかしげた。
「どうぞお手柔らかに。」
「はは。何、話がしたいだけさ。」
そう言って鮮やかな切れ長の瞳でいたずらっぽくはにかんだフェイは、ちょいちょいと手をこまねきながら黒刃を連れて去っていった。鋼に背を向けながらも微笑みかける黒刃を見て、鋼は行っておいでというふうに軽く手を振った。その手が、静かに落ちていく。
できるだけ何も、考えたくなかった。鋼は証言台にもたれかかって、汚れのないブーツの先をじっと見つめた。気を緩めると人体解剖図が頭の中を走り抜ける。鋼はこめかみを回すように押し込んだ。だが、チャンネルを変えるためのダイヤルが空回って、ガシャガシャと不快な音を立てるだけだった。
薄く開いた唇から、深いため息が漏れた。
鋼から距離を取るように、フェイは歩き進めた。そして壁にもたれるようにして振り返ると、萎えた左腕を右手で掴み上げて腕を組んだ。
黒刃は彼女に向かって影を落としつつも、その鋭い薔薇色の瞳に見透かされないように視線をそらし続けている。しかしこれがほとんど無意味なことは経験上明らかだった。案の定、フェイがかすかに鼻で笑う。
「それで? 用は私にか。それとも他にか。」
「地神のお二方に、ご相談に参りました。」
黒刃はフェイの木靴の先をじっと見て、先回りされたことへの動揺を気取らせないことに集中した。
「ではひとまずこちらで聞こう。」
即座にフェイが人差し指を振って促す。黒刃は昨晩の鋼の言葉が頭の中を錯綜するのを感じながら、そっと口を開いた。
「……地神神技を、お貸しいただきたいのです。」
心底真面目な声音でそう言った黒刃の口が閉じる。フェイは腕を組んだ姿勢のまましばらく沈黙した。だが、まもなくその口の端が曲がる。
「あぁ、なるほど。実に……うん、お前らしい、な。」
やっとのことでそこまで言い切って、フェイはこらえ損ねた自分の笑い声がホールに響いたことに我慢できず、本格的に笑い始めた。場にいる全員の視線が痛いほどに刺さる。黒刃は居心地悪そうに肩をすくめた。フェイの右の爪先が紅をさした唇をなぞる。
「すまん。いや分かるぞ、言いたいことは。確かにお前のそういう、気の抜けるようなところも嫌いではないがな。」
「……お褒めに預かり——」
「褒めてなどおらんわ馬鹿者。慣れん言葉遣いなどせんでいい。もう気楽にしろ。」
ぴしゃりと遮られ、黒刃はやっと頭を上げた。かち合った視線にフェイが満足そうな笑みを見せる。黄色の瞳をしばらく見つめたフェイは、一本調子にわざとらしく息を吐いた。腕組みをやめた右手が顎を触り、左腕がぶらんと垂れる。数秒の後、彼女はふと顔を上げた。そしてすいっと黒刃を見上げ、指を差す。
「お前、あいつの加護の話を忘れたのか。ならだめだな。正確には可能だが了承できん。」
放たれたフェイの言葉に、黒刃は心臓がぎくりと妙な音を立てて痛んだのを感じた。そのひきつった顔を案じてか、フェイが困り笑いを浮かべる。
「ま、一と四半世紀も前の話だ。別に恩知らずとは言わんよ。私だって、弟と妹を同時にとられたような気になっていなかったら、きっと今頃忘れていたさ。」
肩をすくめるフェイの気遣いにいたたまれなさを感じて、黒刃は自分の指を撫でるように拳を作った。
「御恩に無礼で返してしまい、申し訳ありません。」
「馬鹿者。そういうのは思い出してから言え。」
そう言って、フェイは少し意地悪な笑みを見せる。それでも黒刃は顔を伏せたまま、悔しさと負い目を感じたような顔で黙り込んでいた。それを見かねたのだろう。フェイはくすりと笑って天を指した。
「お前は私たちとは違う。神技で及ばないのは当然のことだ。だが、それを悪びれることはない。お前は、私たちが進化の過程や人生の中で失ったものを、まだ持っている。今やお前だけが持つものだ。力なんかよりもよっぽど大事なものさ。」
そう言って右手を下ろすと、フェイは目を細めて小首を傾げている。ようやく顔を上げた黒刃は、半ば縋るように、されど半ば怪訝そうに眉を寄せて問うた。
「なんですか。その、俺だけが持つものというのは。」
だがフェイは、おどけた表情を浮かべた後、ただ黙って肩をすくめるだけだった。さすがの黒刃も己の愚かさに気付くと、すぐに引き下がって会釈をした。
「失礼しました。助言をいただきありがとうございます。ですが、その……また行き詰まったら、どうか知恵をお貸しくださいませ。」
「気にするな。訪ねてくるのも構わんし、むしろ……」
笑っていたフェイは不意にそこで言葉を切って、ベルトに挟んでいた木の扇子を取り出した。そして扇子を片手で器用に広げると、ひょいと持ち上げて口元を隠す。途端に、その視線がいつになく真剣なものになった。
「そちらの水が合わないのなら里帰りも一案だと、私は思っている。」
フェイは低い声でそう告げた。見透かされるような気迫を感じて、思わず唾を飲む。口元を隠した真意に気付いた黒刃は目をしばたき、鋼の方に一瞥を投げると、姿勢を正した。
「お気遣い感謝します。ですが……主人を支える力を得るために主人の元を離れていては、お笑いになるでしょうから。」
目を伏せたままそう応えると、フェイは黙したまま黒刃を見据えた。彼女のお団子髪からは、輪飾りを介して垂れた黒いベールが揺れている。
「……それもそうだな。この話は忘れろ。」
しばらくして不意に目をそらしたフェイは、それだけを言ってゆっくりと左腕を撫でた。その様子に少し間を開けて微笑んだ黒刃は、ふと高い襟を密かにめくり、視線を戻したフェイに顔を見せた。
「田植えと稲刈りの時期には、必ずお伺いします。」
そう言われた途端フェイは目を丸め、そして若干呆れたような笑顔で視線を落とした。そしてフンと息をついて扇子をしっしっと振りながら踵を返す。黒刃はその後ろ姿にお辞儀をし、しばらく見送ると、鋼の方へと引き返した。
若干の揺らぎを伴って靴音を鳴らし行くと、目を閉じていた鋼がフッと瞼を上げた。その頭がゆっくりと持ち上がり、そして表情が緩む。
「ただいま。」
「うん、おかえり。」
ふれあいのない挨拶に、鋼はへろりと笑った。瞳の輪郭が力なくふやけている。かといって抱き寄せるわけにもいかないので、黒刃はただ悲しそうな笑みを浮かべた。
「どうだった?」
呆けた笑顔に尋ねられ、黒刃はかぶりを振った。
「ヒントはもらえたけどな。」
「どんな?」
「ん、内緒。」
そう言っていたずらっぽく笑いかけた途端、鋼の口がすぼんで頬が膨れる。黒刃は彼女に一歩近付き、その幼すぎる顔つきを体で隠した。と、頬がしゅんとしぼむ。
「上見すぎて首凝っちゃった。」
無邪気な色に塗りつぶされた笑みは、黒刃にすり寄るように首を垂れた。
「ほぐそうか?」
「大丈夫?」
「それくらい平気。」
「ありがと。じゃあお願いしよっかな。」
鋼がその場で足踏みをして背を向ける。黒刃は外套にしわを付けないように気を使いながら、彼女の首の付け根に手を当てた。表面は火照っているのに芯が冷えている。血流を促すように指圧すると、張った気がわずかにほぐれていくのが分かった。
細い肩だ。寒冷地の生活と農耕で多少肉付きがいいとはいえ、鋼の肩は年格好にふさわしく薄い。その上に、生きてくる中で背負わざるをえなかったしがらみと、背負わなくてよかったはずの不信がのしかかって、そもそも重い神という運命をさらに重くしていた。黒刃が下唇をほんの少しだけ噛む。
余裕が必要だ。彼女に寄り添い、支えるだけの余裕が。だがそれは、自分の身も守れないような弱さからは生まれない。誰かを守ることは、その命の分だけ欲深いことなのだ。
トントンと鋼の首の付け根を叩きながら、黒刃は以前の主人のことを思い出そうとした。だが、思い浮かぶのはおぼろげなことばかりで、郷愁と喪失以外の記憶は特に曖昧なようだった。
そうこうしているうちに木槌が鳴る。黒刃は即座に、顔を上げ姿勢を正した鋼の外套を整えた。テオドロはいつの間にかこどもたちとの談笑を終え、上座に戻っていたらしい。落ち着き払って鳴る二度目の木槌で黒刃は鋼の後方に後ずさり、三度目でひざまずいた。
レッドカーテンが開かれる。
「全神会議を再開する。先の議論について、追加して意見のあるものは名乗り出よ。」
静寂の中、手をあげる者はいなかった。数秒を待って、議長が木槌を打ち鳴らす。
「では先の議論を踏まえ、各々の最終意見を求める。」
議長が席に着くと、左端から靴音がした。
「風神女王エーテルより、先にゴーストについて。」
かすれた声を小さな咳払いが立ち止まらせる。
「ニェフリートに対し、ゴーストに関する情報の収集と詳しい研究分析を公に求める必要があると考える。また罰則について、ゴースト問題及び有事を除く一年間の神技剥奪は、今一度その力の影響のほどを顧みるためにも有効であり、妥当であると考える。」
言い終わると、ドレスがすれる音がテラス席の奥に帰っていった。エーテルの着席と同時にフェイが立ち上がって進み出る。
「地神女王フェイ並びに風神王キースからは、ニェフリートの罰則について、前述の通り反省と精進のみを求めたい。またゴースト問題については風神女王同様、全神会議からの公式な研究の許可をニェフリートに与えるべきと考える。」
微動だにしない風神王の隣にフェイが座ると、次いでメリッサが立ち上がった。蝋燭の火が少しだけなびく。
「炎神女王メリッサから、まずニェフリートの罰則について。数年を費やしたゴースト研究の公的な否定と、母女王その人による不信感の表明をもって、ニェフリートに対する精神的罰則は十分に行われたと解釈する。よって、有事を除く三ヶ月間の自宅謹慎処分を求める。またゴースト問題については前四名と同様、公式な研究許可をニェフリートに与えることが必要だと考える。」
メリッサが下がると、金属製のヒールの音と入れ替わりにテオドロが窓辺に立った。
「地神王テオドロからはニェフリートに対する罰則として、ゴースト問題及び有事を除く半年の神技剥奪と、その間、自らの立場と役割についての熟考を求めたい。ゴースト問題については、前五名に同意する。以上です。」
テオドロも、淡々とそれだけ言って静かに席に戻った。
居心地の悪い静寂を破り、議長が席を立つ。
「では、ニェフリートに対する罰則を、ゴースト問題及び有事を除く一年間の神技剥奪と反省の義務に決定。三ヶ月間の自宅謹慎は努力義務に留める。また、全神会議からニェフリートに、ゴーストに対する調査研究分析の権利と内容報告の義務を与える。これらを最終結論とすることに反駁する者は名乗り出よ。」
数秒の静寂。そして木槌が二度鳴った。
「それでは現時刻をもって、水神王女ニェフリートに対する一年間の神技剥奪を実行する。また、同ニェフリートに対し、ゴーストについての調査研究分析の公式な許可と内容報告の義務を与える。」
木槌の音と共に、黒刃以外の全員が立ち上がる。
「以上をもって全神会議を閉廷する。解散。」
キャロディルーナの一声に、テオドロ以外の女王や王がたちまちその姿を消した。黒刃は上げた視線の先で、鋼が肩を落とし冷笑するのを捕らえた。藍色の髪が、ぐるりと回った首に振られて乱れる。
黒刃は自力で立ち上がると、鋼のすぐ横に進み出た。色の溶けた瞳が、黒刃を映そうともせず遠くを見つめている。黒刃がとっさに彼女の指先を握ると、視線がシアンブルーを取り戻した。
「帰ろう。」
微笑みながらそう言うと、鋼は幼く
「うん」と返した。
炎神のこどもたちと、そのもとに降り立ったテオドロに向かって、そろってお辞儀をし、黒刃は踵を返した鋼の後を追った。水神の扉を静かに開き広間を出ると、周囲が岩壁に変わる。
肺に冷たい空気が満ち、灯りが途切れた。途端にどちらからともなく姿勢を崩す。黒刃はしたたかに打ち付けた腿の痛みに眉を寄せながら、手探りでベルトの水瓶を探った。
「この身に応えろ、妖狐。」
浮かび上がった水の灯火に照らされ、鋼と黒刃はようやく、互いに疲弊しきっていたことを思い出した。足の筋肉がひくひくと痙攣する様に、どちらかが、生まれたての小鹿みたいだとか言う。弱々しい笑い声がむなしく洞窟にこだまする。
息をついた鋼は外套が泥だらけになるのを気にも止めず、尻もちをついた黒刃のもとへ這って来てヒシと抱きついた。黒刃は立ち上がる気もそがれ、そのままの体勢で鋼の頭をゆっくり撫でた。
「最悪隔離だった。……よかった。」
顔の見えない声が緊張の名残で震えている。黒刃は若干違和感の残る左手で鋼を抱き返した。
「ありがとうな。頑張ったんだな。」
「俺じゃない。……母様のおかげ。」
「……そうか。」
鈍く体温が広がっていく。黒刃はぐいぐい押し付けられる鋼の小さな頭に嫌がるそぶりも見せなかった。波の音も地面の音も聞こえない。相手の心音しか、聞こえない。
「……帰り道わかる?」
しばらくして、鋼が黒刃の首元に顔をうずめたままモゴモゴと言った。黒刃は思い出そうと首をひねったが、結局横に振った。
「あは、帰れなかったら凍死しそう。そしたら母様、迎えに来てくれるのかなぁ……」
絵本をこどもに読んで聞かせるような声でまどろむ鋼に、黒刃が体をこわばらせる。そして大きく身震いを起こした。
「早く帰ろう。匂いが残ってればたどっていける。」
「ん。一緒に帰る。……朝ごはんも」
「あぁ、一緒に作ろうな。」
鋼の髪をそっと撫でて、黒刃は十番目の技である『雨蛙』を呼んだ。すぐさま瓶からあふれ出した水が黒刃の体にまとわりつき、姿勢を支えて立ち上がらせる。体表に密着した水の温度と座標を制御するのに数秒を要し、黒刃はゆっくりと右腕を差し出した。鋼が心配そうに見上げる。
「補助だけにするから。歩行器みたいなもんだよ。」
そう言うと鋼は少し泣きそうな顔をしてから腕にすがりついた。水で鋼を包むように支えながら右手を引き上げる。
「ん、平気平気。」
ふらつく鋼をエスコートするように腰に手を回すと、鋼が黒刃の背中を左腕で支え返す。
「無理しないでね。」
「大丈夫。ありがとな。」
微笑んで返す黒刃の足首が軋んでも、鋼は気付きもしなかった。
冷たく光る水の球に先導されるように、二人は歩きだした。時折よろけてはどちらかがそれを支えて、次の一歩を踏み出す。残り香が漂う方へ、波の音がする方へ、帰るべき場所が待っている方へ。二人はゆっくり、ゆっくりと前へ進んだ。
寄り添い合った体の片側だけが、ただただずっと温かかった。
この度のお話、お楽しみいただけましたでしょうか。今後も、内容やテーマに対して責任をもち、読んでくださるみなさまに思いが届くよう、作品と真摯に向き合っていく所存でございます。 もしも支持したいと思っていただけるようであれば、サポートという形でお気持ちをいただけると恐縮です。