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小説の「作法」について思うこと

皆さま、こんにちは。オリヴィエ・ラシーヌです。

冷房の使用や水分補給などには気を付けていたつもりが、先日、熱中症になってしまいました。
しばらく暑いところにいた後、タイミング悪く冷房の効いた部屋に入ってしまったようで、体の中に熱がこもっているのに汗をかけなくなってしまったようなのです。
熱中症というと、暑いところで発症するとか汗が止まらないとか、そういうものだと思い込んでいたので、目が回り出すまで気が付きませんでした。
皆さまも、ご自身だけでなく周囲の方の様子にも十分お気を付けくださいませ。

 さて今回は、小説にまつわる「作法」についてお話ししようと思います。

新人賞への応募の仕方を調べたり、文芸サークルのようなものに参加したりしていると、たびたび小説の「作法」のことを口になさる方がいらっしゃいます。
「作法」というのは、例えば「三点リーダーは二つ以上続けなければならない」とか、「台詞のカギ括弧閉じに際しては、文末に句点をつけてはならない」といった、国語や作文などの学校教育では聞いたことのない「作法」です。

中には、そういった「作法」を守っていない小説は読むに値しない、と断じていらっしゃる方もいるようです。そういう方の中には、「作法」を守っていない作品は当然公募でも落とされると断言なさる方もいます。

せっかくしたためた物語を「無作法」と否定されたのでは憤りを感じますし、なにより、そんなところで評価されてしまうというのは恐ろしい話なのです。
この気持ち、おわかりいただけますでしょうか。
私の感覚に近い例え話をおひとつ挟みましょう。

あなたが一生懸命に育ててきたかぼちゃがあったとしましょう。土を耕して畝を作り、苗を植えて毎日世話をし、黄色い花を付けた日には喜び、実っていくかぼちゃをそっと見守る。
そうしてようやく育ったかぼちゃを抱えて市場に持って行ったところ、
「なんだ、種が250個も入っているじゃないか。ダメだよ。こんなの食べる気になんかならないよ」と言われたときの気持ち。
ご想像ください。

サークルに参加していた私の友人は、この手の批評を受けてひどく感情的になったことがありました。かく言う私も一緒になって憤慨したものです。
実はこのあたりの感情はきちんと理解しておきたいと思って、今回のエッセイを書き始めたのです。

 さて、この「作法」問題。
結論から申しますと、あまり気にすることはないのではないかと思います。

ご縁のあった情報誌の編集長の方がおっしゃるには
「そういう細かいところへの対応は編集者や校正者、ともすればアルバイトの仕事であるので、作家はむしろ作品にこそ打ち込むべきだと思う」とのことでした。
確かに出版関係者の方や受賞者の方がそういった「作法」について言及されるようなところを見たことがないので、私も今では「あんまり気にしなくてもいいや」と思っております。

 それでは、ここからは感情を客観視していきます。
なぜ「作法」を理由に作品を否定されるとあんなにもやるせないのでしょうか。

そこには単純に困惑というのがあるのかもしれません。
学校教育における文法や原稿用紙のルールではないことや、あるいはむしろそれに反することを、さも当然の良識のように掲げられると、やっぱり困惑してしまうのです。

また、理由が明確ではないというのも、拒絶反応の原因ですね。
「とにかくダメなものはダメなんだ。評価に値しない」といわれても説得力がありませんから、拒絶反応につながりやすいのでしょう。

さらに、小説に「自由さ」を求めている作者であった場合、禁則事項そのものを受け入れがたいと感じることもあります。
おそらく、当時の私はそのタイプであったと言えるでしょう。
色々なことに縛られているような気持ちがずっと付きまとっていた頃でしたから、私が無意識に小説という表現に求めていたのは、そういった縛りからの解放だったのかもしれません。

 ところで、そもそもの話になるのですが、この「作法」。もともとは小説のためのものではなく、違う業界のセオリーだったものを拡大解釈したという場合があるようです。
冒頭にあげた一つ目の「作法」は、まさにその典型と考えています。

「三点リーダー(書式上noteでは正しく出力されないようなのですが『…』のことです)は二つ以上続けなければならない」
これはおそらく、演劇などの台本から派生した「作法」だと思います。
劇の台本の書き方を調べていた時、たまたま「三点リーダーは二個セットあるいはそれ以上で」というルールを目にしました。
さらに注意書きの最後には、
「台本というのは、演者が練習する際に必要になるものである。演者はその時、セリフだけでなく自らの所作でも演技をする。だから当然、常に台本を凝視して練習することはない。この場合、台本から読み取る情報はできる限り誤解なく、わかりやすくなければならない」と締めてありました。
実に、理にかなっていると思います。

そこで、三点リーダー『…』というのは、遠目に見ると漢数字の『一』に見えるのかもしれないと気付いたわけです。
そういう誤解をさけるために、明らかに二文字分以上の間を設ける必要があったので、演劇の業界では「三点リーダーは二個セットあるいはそれ以上で」というのがルールになったのでしょう。つまりこの「作法」は、演者を慮ってのことなのです。

つまり小説における「三点リーダー作法」とは、読者への心遣いにあたるわけです。
こういう配慮が背景にあるのだと知ると、この「作法」も有意義に思えます。
そして現在では私も、この「作法」を採用しています。

 しかしながら、二つ目の「作法」である、「台詞のカギ括弧閉じに際しては、文末に句点をつけてはならない」には、私はしたがっていません。
ただし、ここでいう台詞というのは独立したものであって、地の文の中に引用されたものとは別に考えてくださいね。

この「作法」の起源については、新聞であるという説があります。それによると、この「作法」の目的は、二十世紀初頭における混迷の中での、紙や印刷費用や作業量の削減だということなのです。
調べたところ、確かに芥川龍之介の「羅生門」(1915年初出)では、まだ句点が打たれています。が、江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」(1925年初出)ではなくなっています。

そうすると、この目的は出版社への配慮であって、読者への配慮ではないということになります。
それが現代にも適応されているとなると、今やその理由は、「見慣れているものが好き」といった恒常性への安心感とか、「得だと分かっている手法をやめたくない」という損得勘定に思えてきてしまうのです。
穿った考え方なのかもしれませんが、私にはこれが重要な「作法」とは思えませんでした。

 そのうえで私は、句点を打つ打たないというのは、台詞の感情表現になりうると考えています。
文末に句点があると言い切っている感じが、句点がないと言い淀んでいる雰囲気が滲むように思えるのです。
読者の皆さまにそれが伝わっているかどうかはわかりませんが、そういう使い分けができるという点で、「句点をつけてはならない」とするのはなんだかもったいないように思います。
こういう気持ちがあって、私は台詞におけるカギ括弧閉じ直前の句点について、使い分けることにしているわけです。

 と、こんなふうに「作法」の起源や相手の真意を理解すると、否定されて憤慨する必要なんてないし、とにかくダメと断じる必要もないように思えませんか?
きっとこういう「作法」などの特定のルールに対して、至上主義的になってしまったり、逆にむやみに反発したくなったりしてしまうのは、互いに無知であるままにコミュニケーションができるというネットの脆い一面なのでしょうね。

世界中と繋がれる環境だったはずなのに、ふと気が付いたら自分が共感しやすいグループの中でしか過ごしていなかった、なんていうことは昨今よく議論される話です。
そういう偏った世界で培われた考え方、すなわち「偏見」が独り歩きした結果、自分の真意に反して分断や暴力といった方向に流されてしまう。
そんな事件が起こることを、今や誰も他人事とは言い切れないのではないでしょうか。

様々な考え方に寛容であること。他者への配慮を忘れないようにすること。
私は未熟者なりに、この二点だけでもきちんと守れるようにしていきたいと考えています。

 今回も長々と書いてしまいました。最後まで読んでいただきありがとうございます。
前回のエッセイではたくさんのスキがいただけて、本当に励みになりました。御礼申し上げます。
今回の記事も楽しんでいただければ幸いです。

それではまた、お会いできるのを楽しみにしております。

この度のお話、お楽しみいただけましたでしょうか。今後も、内容やテーマに対して責任をもち、読んでくださるみなさまに思いが届くよう、作品と真摯に向き合っていく所存でございます。 もしも支持したいと思っていただけるようであれば、サポートという形でお気持ちをいただけると恐縮です。