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扉(掌編小説)

 街を歩けばみんながマスクで顔を覆っていて、こんな異常な世の中になると誰が想像してたか? と思いながらわたしは世界堂で大量の絵の具を買う。
 しかし世界の名だたる大学だの研究所だのに勤務している研究者やら教授やらは、こういう世界が早かれ遅かれ来ることを知っていたのだろうかと思うも、そもそも世界の氷が溶けてそこから未知のウィルスが世界を覆ってしまうかもしれないという情報は、普段そういう研究に携わっていないわたしの耳にも入っているわけで、それなら、こういう世の中が来ることを想像できたではないかと、絵の具を目の前に考えた。
 ならば何故大量の絵の具を、それを知ったときに買わなかったのか、と訊かれれば、まさか自分が生きている時代にそんな事態に世界が陥るなんて想像をしていたわけでもなく、それならどうだ、うん十年以内に起こると言われている大地震だって今来てもおかしくない、富士山が今噴火してもおかしくないなどと妄想しながら、赤やら黄色やらオレンジやらの、明るい色ばかりをカゴに入れていく。
 べつにここまで直接足を運ばなくても、ネットで買えばいいじゃないかと脳に直接問いかけてくる誰かの声に、いや、今日ほしいのだ、いますぐ絵を描き始めなければならないのだ、と返事をし、カゴがいっぱいになったところでレジへと向かった。

 さて家に帰りアトリエに来ると、買ってきたものを床に並べて、ただの白い壁に鉛筆で輪郭を描き始めた。だいたいでいい、自分よりも大きいアーチを描き、次は鉛筆の上にオレンジ色をのせていく。青やグレー、茶などは使ってはいけない、わたしが望むものは分かりやすく歓喜、愛、優しさ、に満ち溢れている世界であるために、わたしのイメージするそれらと、青やグレーなどという色は合わないのだ。
 さて輪郭を描き終えると、真ん中に一本の線を引いた。それは今描いたアーチ型のものを真っ二つに分けてくれる線であり、そう、これは扉なのだ。わたしは扉を黄色や赤、ピンク、水色、とにかくわたしにとっての明るい色で塗った。抽象画のような、なにかを具体的に表しているのではなく、とにかく窮屈ではなく、先の広がる世界。
 そして最後に忘れぬように取っ手を描いた。目立つように、描いた。
「描き終えたぞ、これで、これでわたしは自由だ」 
 取っ手に手をかけ、ぐるりと回すと、目の前には花畑が、噴水が、太陽が、どこまでも広がる水色の空が、マスクをしていない人々の姿が現れた。わたしはゆっくりその世界に足を踏み入れた。その瞬間、忘れかけていた花の香りがわたしを包み込んだ。

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