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「三つ編み」に共感できない4つの理由

全米が、いや全世界が泣いたと評判の小説「三つ編み」を読みました。
いい話でした。でも素直に感動していいのかな、という引っかかりは否めません。途中、かなりイライラモヤモヤしながら読みました。

以下、ネタばれを含むかもしれませんので、未読の方はご注意ください。もちろん、これは私の個人的な感想です。すでに読んだ方々の共感や感動を批判する意図は決してありません。

「同じ女性」という視点の限界

本作は、インド・イタリア・カナダという3地点で同時代を生きる3人のヒロインの境遇がオムニバス的に綴られ、最後に繋がるという構成です。

・スミタ(インド)・・推定30歳・代々「スカベンジャー」の仕事を受け継ぐアウトカースト出身。6歳の娘には違う生き方をさせたいと考えている。
・ジュリア(イタリア)・・20歳・シチリア島で家族経営の毛髪加工業を引き継ぐ。シーク教徒でインド人難民の男性と恋に落ちる。
・サラ(カナダ)・・40歳・モントリオールの大手法律事務所のアソシエイト弁護士であり、3人の子どもを育てるシングルマザー。

それぞれのヒロインが、「女性である」ことで直面する生きづらさと、それぞれがそれとどう向き合って闘っているかが描写されるのですが、「なんか無理がある」というのが、最初から最後までつきまとった違和感です。

何しろ、スミタの境遇が酷すぎる。インドのカースト制度とりわけ不可触民が抱える問題は、フェミニズムとは性質が異なると思います。

これを、他のヒロイン、シチリアの家内工業後継者(ジュリア)、カナダの上級弁護士(サラ)の抱えるそれと繋げて「同じ女性であるがゆえの」という世界観を作り上げるのは、「なんだか危険」という気がしたのです。

「生きづらさ」とジェンダーの間

本作は「#MeeToo」運動の広がりとともに、多くの人の共感と感動を呼んだと言われています。

私にも「生きづらさ」はあり、それは私が女性だからという部分も確かにある。一つひとつを明確に覚えていないけれど、痴漢にもあったことがあるし、「あれもそうだったのかも」という程度のセクハラも経験しました。

けれども、「#MeeToo」運動に積極的に参加していません。なぜか? この辺りの感覚は、本当に個人的なもので、論理的に説明できないもどかしさがあります。

このような態度は、時として批判の対象ともなることも理解しています。実際に、私自身も「差別や不正を明確に批判しないのは、それに加担しているのと同じ」とSNSにコメントされたことがあります。

「政治的正しさ」に対する拒否反応

最近では意識の高低に関わらず「SDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)」という言葉が一般的なものになっていて、ここに「ジェンダー平等」も掲げられています。

5: ジェンダー平等を達成し、すべての女性及び女児の能力強化を行う
5.1 あらゆる場所におけるすべての女性及び女児に対するあらゆる形態の差別を撤廃する。
5.2 人身売買や性的、その他の種類の搾取など、すべての女性および女子に対する、公共・私的空間におけるあらゆる形態の暴力を排除する。
5.3 未成年者の結婚、早期結婚、強制結婚、および女性器切除など、あらゆる有害な慣行を撤廃する。
5.4 公共のサービス、インフラ、および社会保障政策の提供、ならびに各国の状況に応じた世帯・家族内における責任分担を通じて、無報酬の育児・介護や家事労働を認識・評価する。
5.5 政治、経済、公共分野のあらゆるレベルの意思決定で、完全かつ効果的な女性の参加および平等なリーダーシップの機会を確保する。
5.6 国際人口開発会議 (ICPD) の行動計画および北京行動綱領、ならびにこれらの検討会議の成果文書に従い、性と生殖に関する健康および権利への普遍的アクセスを確保する。
5.a 女性に対し、経済的資源に対する同等の権利、ならびに各国法に従い、オーナーシップ、および土地その他の財産、金融サービス、相続財産、天然資源に対するアクセスを与えるための改革に着手する。
5.b 女性のエンパワーメント促進のため、ICTをはじめとする実現技術の活用を強化する。
5.c ジェンダー平等の促進、ならびにすべての女性および女子のあらゆるレベルでエンパワーメントのための適正な政策および拘束力のある法規を導入・強化する。

この目標達成のために、「連帯」や「共闘」が必要だと言われたら、もうそれは逆らいようのないほどの「政治的な正しさ(Political Corectness)」でしょう。

本書の著者、レティシア・コロンバニはインタビューに答えてこう語っています。「人間を愛していれば、自然にフェミニストになる」。

「本当にそうだろうか?」という疑問さえ挟む余地のない「正しさ」。フェミニストとして行動しないことは、反人道主義者であり、差別に加担しているのと同じ? 

私はこの種の「Political Corectness(略してポリコレ)」に対して、敏感に警戒してしまうようなところがあります。

インタビューを読んでみれば、彼女の言ってることはもっともだし、フェミニズムやジェンダー平等の考え方に流れる「普遍的な正しさ」を認めることはできるのです。

けれども、「正しさ」を根拠としてある種の思考や行動が要請されようとすると「いやいやいや、ちょっと待って。そこんとこ、もうちょっと丁寧に考えさせて」という気持ちになるのです。

それは、同じ種類の押し付けをたくさん経験し、それに反発してきた私の「生きづらさ」によるのかもしれません。そしてそれは、どのように批判・非難されようと私自身にとって大事な「自分らしさ」だと捉えています。

「ジェンダー平等」はあくまでも「それぞれの個性やその人らしさが生かされる社会の構築」という目的のための手段に過ぎないことを思えば、私が「自分らしさ」を守ろうとすることもまた、「平等」への一つの道筋になりうるのではないでしょうか。

新自由主義的価値観への反省のなさ

この小説には、ヒロインたちを繋ぐ「髪」というアイテムが登場します。スミタが自分の髪を捧げものとしてヒンドゥー寺院に奉納し、ジュリアの恋人の友人であるインド人ビジネスマンによって買い取られた後、彼女の工場で加工され、最終的にサラがカツラとして購入します。

癌になったサラの髪が、治療の副反応によって失われたからなのですが、それまでの彼女の人生では、弱みも隙も決して見せることなく努力を重ね、それゆえに男性優位社会におけるエリートの地位を獲得していました。

それがニ度の離婚歴であり、3人の子がいながら私生活を犠牲にしたライフスタイルや、常に政治的な判断を下しながら働く彼女の行動様式として描かれています。

ところが病気が発覚した途端、自らの女性性を封印して優先させてきた「男性優位社会」は彼女を弱者として扱うようになります。それを残酷な仕打ちと受け取り、自分を否定されたように打ちひしがれるサラ。

彼女に女性としての自信を取り戻させたのが、スミタの髪を使い、ジュリアが加工したカツラです。ここで「点」であったヒロインたちは、「線」として繋がり、それぞれに明るい未来を予兆させる場面で物語は終わります。

サラは独立を決め、ライフワークバランスを重視した生き方にシフトさせようと考え、さらに自分の尊厳を踏みにじった法律事務所を告訴すると決心するのですが、その理由が「同様の苦しみを味わう人たちのために、自分が標的にされた差別を公にする」というものでした。これはちょっとついていけない感覚です。

えーと。あなたも病気になるまでは「そっち側」でしたよね? それに対する反省とか、内省とかは一切ないんですか? という感じです。

また、サラが購入したカツラは「希少で高額な商品」ということになっているのですが、元々はスミタが「奉納した」髪の毛。つまり彼女は一銭の報酬も受け取っていないのです。

チョコレートしかり、コーヒーしかり、ダイヤモンドしかり。

同じ人間でありながら、今日を生きることだけでも精一杯という階層が、無に等しい報酬で差し出したものが、加工されたり転売されることによって価値が上がり、高価な値付がされていくというグローバルな高度資本主義が保つ経済構造。

これについての釈明は一切ありません。私自身もこの構造の中では「加害側」だという自覚を持ちつつ、正直にいうと、ここに一番の引っかかりを感じました。

著者がこういったことに気がつかなかったとしたらあまりに無神経だと思うし、フェミニズムというテーマを優先させるために「見て見ぬ振り」をしていたのだとしたら、この本で弾劾しようとしている「差別」とは一体何だったのかを問い直したいです。

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