2人の魔術師について:小川哲『魔術師』短評

 ※小川哲著『魔術師』とクリストファー・ノーラン監督『プレステージ』のネタバレがあります。

 小川哲著『魔術師』について語るには、クリストファー・ノーラン監督『プレステージ』を経由するのがいいだろう。
 なぜなら、この両作のハウダニットは同じものだからだ。
 『魔術師』では時間転移というマジックにつき、実際に過去に録画していたというトリックが明かされる。『プレステージ』では瞬間移動というマジックにつき、実際に人間を複製していたというトリックが明かされる。
 『プレステージ』では結尾部において、なかばメタ=フィクショナルにステージの美学が語られる。その美学論は、ハウダニットがトリックがないというトリックである以上、事実は演出に勝るという素朴主義でしかありえない。
 だが、フィクションであるかぎり、すべては演出だ。そこで事実は演出に勝ると主張することは、ただフィクションの一部を「事実」と命名し、存在論的に特権化することでしかない。
 事実、『プレステージ』ではステージごとに複製人間のオリジナルを殺している、『魔術師』ではひとつのマジックのためにマジシャンが人生を犠牲にしているというコケおどしで、「事実」をドラマチックなものにしている。もちろん、電線も開通していない時代のマジシャンが何人死のうが、ドサ回りのマジシャンの家族が一家離散しようがどうでもいい。
 さらに言えば、フィクションの一部を存在論的に特権化するという美学論は、その素朴主義のために、全体主義や家族主義といった保守主義と容易に結びつくだろう。

(傍論① デイヴィッド・グレーバーは『バットマンと構成的権力の問題について』で、『ダークナイト・ライジング』の失敗について、ノーランは『ダークナイト』でやめておくべきだったと語っている。『ダークナイト』のメッセージは政治とはフィクションのアートだというものだ。しかし、現実はそうではないからだ。『ダークナイト』も、フィクションの一部を「フィクションのアート」とし、素朴主義的に残りを自明視したと言えるだろう)

 私たちがマジックに魅せられるのは、それが「事実」という退屈なものでなく、演出によって創造されたものだからだ。マジックにトリックがなく、ただの事実なのだとしたら、それは『ギャグマンガ日和』の『終末』のようにギャグでしかない。
 その意味で、ジェフリー・ディーヴァー著『魔術師(イリュージョニスト)』の犯人こそ、真の魔術師だろう。イングマール・ベルイマン監督『魔術師』の詐欺師もそうだ。
 この2人の魔術師を称えて、ここで擱筆する。

(傍論② 小川哲著『魔術師』と同録の短編『嘘と正典』も、物語の主要主題は存在論的な特権化だ。これはジャック・デリダが『マルクスの亡霊たち』で提唱した憑在論(オントロジー)を援用したものだろう。憑在論は、マルクス主義の唯物論は、決定論を修辞的に強調したものに過ぎないという主張だ。『嘘と正典』は、この歴史はタイムパトロールが修正したものだという物語だ。ここにも「歴史」によって「正史」から「偽史」を区別できるという存在論的な発想がある。
 なお、『嘘と正典』ではエンゲルスのほうがマルクスより人格高邁だったことになっているが、ジョナサン・スパーパー著『マルクス』によれば、マルクスのほうが知人たちと打ちとけ、エンゲルスのほうが独善的な性格のためにしばしば問題行動を起こしていたらしい。
 奇しくも、クリストファー・ノーラン監督『テネット』も、『嘘と正典』と同じくタイムパトロールを主題にしている。ただし『テネット』の時間SFとしてのシナリオはノーランらしく巧妙で、そのため唯物論的だ。そのシナリオの素朴主義的な美学論に対し、『プレステージ』のマジック対決や『ダークナイト』のアクション、『テネット』の特撮は、洗練された演出で観客を楽しませている)

(付論(2022年12月追記) 小川哲著『君のクイズ』のハウダニットも下らなかった。こうした下らないハウダニットなら、もとより推理小説の形式を取るべきではなかった。だが、ジャンルフィクションでなければ読むに堪えないものだっただろう。老成した推理小説家は、しばしば推理小説のジャンルで純文学を志して嘲笑されるが、小川哲はデビュー数年にして、すでにそうした大御所の貫禄を身につけているようだ)

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