2人の魔術師について:小川哲『魔術師』短評
※小川哲著『魔術師』とクリストファー・ノーラン監督『プレステージ』のネタバレがあります。
小川哲著『魔術師』について語るには、クリストファー・ノーラン監督『プレステージ』を経由するのがいいだろう。
なぜなら、この両作のハウダニットは同じものだからだ。
『魔術師』では時間転移というマジックにつき、実際に過去に録画していたというトリックが明かされる。『プレステージ』では瞬間移動というマジックにつき、実際に人間を複製していたというトリックが明かされる。
『プレステージ』では結尾部において、なかばメタ=フィクショナルにステージの美学が語られる。その美学論は、ハウダニットがトリックがないというトリックである以上、事実は演出に勝るという素朴主義でしかありえない。
だが、フィクションであるかぎり、すべては演出だ。そこで事実は演出に勝ると主張することは、ただフィクションの一部を「事実」と命名し、存在論的に特権化することでしかない。
事実、『プレステージ』ではステージごとに複製人間のオリジナルを殺している、『魔術師』ではひとつのマジックのためにマジシャンが人生を犠牲にしているというコケおどしで、「事実」をドラマチックなものにしている。もちろん、電線も開通していない時代のマジシャンが何人死のうが、ドサ回りのマジシャンの家族が一家離散しようがどうでもいい。
さらに言えば、フィクションの一部を存在論的に特権化するという美学論は、その素朴主義のために、全体主義や家族主義といった保守主義と容易に結びつくだろう。
私たちがマジックに魅せられるのは、それが「事実」という退屈なものでなく、演出によって創造されたものだからだ。マジックにトリックがなく、ただの事実なのだとしたら、それは『ギャグマンガ日和』の『終末』のようにギャグでしかない。
その意味で、ジェフリー・ディーヴァー著『魔術師(イリュージョニスト)』の犯人こそ、真の魔術師だろう。イングマール・ベルイマン監督『魔術師』の詐欺師もそうだ。
この2人の魔術師を称えて、ここで擱筆する。
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