ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオンⅠ』『ディスタンクシオンⅡ』要約
ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオンⅠ』『ディスタンクシオンⅡ』は名著です。
それは本書が私たちの「好み」を説明するからです。私たちの趣味のうち、本書の射程を逃れるものは皆無です。つまり、本書は私たちが自分自身を知る手段になります。
本書は最終的に(『Ⅱ』「結論」)、差異による発生と、表象による固定をもって、すべての趣味をプロブレマティックな唯物論に還元します。この冷徹さこそ本書の白眉です。話題になった岸政彦による本書の紹介は、この部分を簡略化しています。
なお、名著である、マイク・サヴィジ『7つの階級』は、ブルデューの分析を援用しつつ、これが1960年代のフランスを対象としているために、4点の修正を加えています。1. エリート主義とスノビズムの自己批判 2. 社会が「文化的」なものになった(1960年代フランスでテレビの世帯普及率は約半分) 3. 文化の多様化 4. 文化鑑賞の変化
『ディスタンクシオンⅠ』
・序文
形式の内容への優越、カントの美学における、理性のアンテレ(関心)から、美的な性質の唯一の保証であるデザンテレスマン(無私な態度)を分けようとする試みに対し、大衆美学はつねに規範・道徳への参照を求める。(p.20)
・第Ⅰ部 趣味判断の社会的批判
本質主義、肩書の効果。文化庶民の独学者、例えば『シヤンス・エ・ヴィ』(一般向け月刊科学雑誌)の読者が分子生物学や近親相姦のタブーについて語れば笑いものにされるが、レヴィ=ストロースやジャック・モノーが音楽や哲学について語っても、彼らの権威を増すだけだ。(p.51)
映画監督についての知識は、映画の4/20本の監督名を挙げることができるのは、初等教育(小学校卒相当)5%、中等教育(中卒・高卒相当)10%、高等教育(大卒以上)22%に対し、実際に4/20本を見たことがあるのは、22%、38%、40%で差は小さい。しかも、1人の監督名も挙げることができなかったのは、初等教育45.5%、中等教育27.5%、高等教育13%だ。対して、出演俳優の回答率は低学歴の方が高い。(p.55)
大衆的見世物(サーカス、ブルヴァールのメロドラマ、プロレス、ボクシング、テレビ中継の団体競技スポーツ)は、見世物への個人的参加と、その雰囲気への集団的参加を同時に引き起こす。これらが舞踏や演劇といった見世物より大衆的なのは、単に形式化・婉曲化の程度が低いからだけでなく、その集団的感情表現や派手さが、パロディや諷刺による滑稽芸(コミック)と同様に、祭り、無礼講、馬鹿騒ぎへの欲求を満たすからだ。こうした感覚は、既成の社会秩序を転覆するものだ。(p.68)
倫理的無関心への反感は、下層集団だけでなく、「ポルノクラシー」という幻想のためにプチブル階級の上層集団にも見られる。
聖体拝領をテーマに美しい写真を撮ることができると回答する者の割合は、低学歴で最大で、大学中退・大卒程度で減少し、それ以上の高学歴でふたたび増大する。(p.87)
ロラン・バルト『声のきめ』(『第三の意味』所収)によれば、レコード愛好家のための音楽はシニフェであるかぎり有効だ。ここに学者と社交家の古い対立が復活する。前者はコードや規則、すなわち学校や批評と結びつき、後者は自然や自然なものの側にあり、主知主義、教訓主義、衒学主義などを排除する。前者はプチブル、後者はブルジョワに特有だ。(p.134)
・第Ⅱ部 慣習行動のエコノミー
支配階級でも文化資本と経済資本は反比例する。上級技術者・管理職の多くは大企業に勤め、パリ在住だが、商工業経営者の大部分は中小企業主であり、地方在住だ。(p.204)
学歴資格の価値下落に伴う集団的幻滅がカウンター・カルチャーの源泉となり、プチブルの秩序そのものの否定、前世代の旧式の独学者との対立の原因になっている。(p.240)
階級脱落に見舞われたブルジョワ、学歴資格の価値下落に遭った上昇者は、半ブルジョワの職業を創造する。それは分業の進行か、仕事の再定義による。
結婚生活相談員からダイエット食品の販売者に至るまで、今日、身体のイメージと用法に関する事柄について、商品・サービスを提供する職業は、つねに身体の新しい用法や身体的ヘクシス(hexis corporelle)を押しつける人々(例えばサウナ、体操クラブ、スキーなどに行く新興ブルジョワジー)に寄っている。例えば科学の権威をもって「正常人における体重と身長の対応表」、栄養バランスのとれた食事メニュー、あるいは性生活の理想的平均回数といった「正常さ」の定義を押しつける医者や食餌療法栄養士。人間離れしたマネキンのスタイルを正当化する婦人服デザイナー。身体の新しい用法を押しつけ、また数々の警告を発する広告業者。女性週刊誌や管理職向けの男性誌で「自分自身の生きかた」を示し、引き立たせるジャーナリスト。(p.250)
差異、とくに消費行動における差異の真の要素とは贅沢趣味(自由趣味)と必要趣味の対立だ。趣味はつねに自由を前提としているために典型的にブルジョワ的なもので、また、自由の観念にきわめて密接に結びついているために、必要趣味という言葉は逆説的に聞こえる。そうしてただの逆説だと切り捨てるにせよ(しかし、ひとはおおむね自分が受けいれざるを得ないものを好きになる)、必要趣味をひとつの自由趣味と考え、大衆をgros〔太った、粗野な、下品な〕、gras〔脂っこい、肥満した、淫らな〕の観念、例えば安物の赤ワイン(グロ・ルージュ)、ぼってりした木靴(グロ・サボ)〔「下心」の慣用句〕、荒仕事(グロ・トラヴォー)、高笑い(グロ・リール)、ひどいヘマ(グロ・ブラーグ)、淫らな冗談(プレザントリ・グラース)などに結びつけ、階級差別するにせよ、必要趣味という概念を認めることは難しい。趣味とは運命的な愛(アモール・ファチ)、運命の選択だが、つまり、強いられた選択なのだ。(p.291)
食料消費内訳。工業実業家・大商人は自由業者、まして教授とは大きく異なる。穀物をベースにした製品(とくに菓子類)、ワイン、肉の缶詰、猟肉(ジビエ)などを重視し、肉類、果物、新鮮野菜にはあまり支出しない。教授は事務労働者とほぼ同じで、他のあらゆる職種より、パン、乳製品、砂糖、ジャム、非アルコール飲料に支出する。ワインやその他アルコール飲料への支出は少なく、肉類、とくに羊肉や子羊肉といった高価なもの、果物、新鮮野菜といった高価なものへの支出は自由業者に比べて少ない。自由業者は高価なもの、とくに肉類(食費の18.3%)、その中でもとくに高価なもの、子牛、子羊、羊、また新鮮野菜や果物、魚類や甲殻類、チーズ、アペリティフなどへの支出が多い。
生産労働者から職工長・職人・小商人、商工業経営者になるにつれ、消費選択の基本構造は変わらないまま、支出が多くなる。つまり高価であると同時に高カロリーに、また、重たくなる(猟肉、フォワグラなど)。これに対し、自由業者・上級管理職には社会的検閲が働く。そのため、高価なもの(新鮮野菜、肉類など)を使った伝統的な料理に向かう。最後に、教授は経済資本より文化資本が豊かであるために、最小の経済コストで異国趣味(イタリア料理、中華料理)や庶民性(田舎料理)といった独自性を追求する。これは、金満家(グロ)、体は肥満し(グロ)、精神は野卑(グロシエ)な人々ともっとも対立する。
金銭的支出だけでなく生活様式も関わる。多くの時間と関心がなければ作ることのできない入念に調理された料理(ポトフ、ブランケット、ドーブなど)への好みは、女性の役割という伝統的概念と密接に関係する。これら庶民階級に対し、支配階級の被支配集団では、調理における時間と労働力の節約は軽い材料、カロリー含有量の少ないものに結びつき、大衆料理ともっとも対立する、グリルした肉や生野菜(「コンビネーションサラダ」)、冷凍食品、砂糖入りヨーグルトや乳製品を選ばせる。大衆料理のもっとも代表的な例はポトフだ。この技術より時間をかける調理法が女性の地位と男女間の分業を象徴する。専業主婦のことを「ポトフ」と俗称するのは偶然ではない。(p.302)
身体を構成する記号は文化、すなわち自然との距離の程度によって階級を区別する。身体が「気取らない」外観をとると、それは投げやりな態度、安易な気持ちに身を委ねていることになる。(p.311)
スポーツには固有な利益、すなわち身体の外面に表れる効果と、身体の内部にもたらされる利益(健康や精神的安定など)と、外在的な利益(交友関係など)がある。また、身体的コスト(危険の大小、体力の消耗の多寡)がある。これは苦痛を払うことを要求するスポーツ(ボクシングなど)、身体そのものを危険に晒すことを求めるスポーツ(オートバイレース、スカイダイビング、格闘技など)に顕著だ。
ラグビーは球戯、そして身体そのものを危険に晒し、肉体的暴力の表現と肉体的資質の直接的使用をおおっぴらに認める格闘技、この2つの大衆的特徴をともに持ち、男らしさの崇拝、喧嘩好き、「ぶつかりあい」に対する強さ、疲労や苦痛に対する抵抗力、連帯感(いわゆる「仲間」意識)、お祭り感覚など、もっとも典型的な大衆的性向と類縁関係にある。また同時に、支配階級における支配集団、またその価値観を継ぐ被支配集団においても、美学的・倫理的言説において、肉体の鍛錬、暴力、「男と男の闘い」といった男性的な力の崇拝として出現する。そして、これらは直接に言説化されることはなく、関係者(トレーナー、指導者、ジャーナリストなど)を通じ、公認された形式(自己犠牲、「チームへの献身」など)によって表れる。(p.344)
中間階級の人々はとくに外見に気を使い、衛生学的な健康主義から、身体を鍛えることの配慮を持つ。これは節制やダイエットに結びつく。同時に、トレーニングのためのトレーニングという禁欲的なスポーツに向かう。また、これら体操、歩行、ランニングなど、厳密に健康上の目的で行われるスポーツは、実践においても禁欲的であり、日常生活で実用的な目的をもって行われるトータルな動作と対極にある抽象的動作(「腹筋運動」など)に還元され、また、抽象的な知識との関係においてしか意味を持たない、抽象的で消極的な効果(老化の防止、加齢による障害の防止など)しか持たない。さらに、これらのスポーツは、1人だけで、あるいはシーズン外に、本来の場所の外で行うこともでき(森の中を走る、人の少ない道を走る、など)、競争・レースといった要素を排除することができ(ランニングと徒競走の違い)、この点で支配階級における被支配集団の禁欲的貴族主義の倫理的・美学的方針に与する。(p.346)
支配者側の趣味において評価されるスポーツ、すなわちゴルフ、テニス、ヨット、乗馬、スキー(とくに山スキー)、フェンシングなどは、専用の場所で、自分の好きなときに、1人で、あるいは選ばれたパートナーと行われ(これと対立するのが、団体スポーツの集団的規律、強制されたペース、押しつけられたトレーニングだ)、消耗する体力は少なく、そうでなくとも自分で決めることができる。一方、習得のために投資する必要がある時間と労力は大きく、とくに習いはじめた年齢の影響が大きい(そのため、身体資本の大小や年齢による衰えの影響は小さい)。そのため、いわゆるルールを越えたところにある、フェアプレイという成文化されていない統制された競争しか生まず、ここでは肉体的暴力、言葉による暴力、身体の無秩序な使用、敵同士の直接的接触は排除されている。また、ヨット、スキー、その他カリフォルニア的スポーツでは、大衆的スポーツに固有の「男と男の闘い」の代わりに、いつの時代も賞賛されてきた自然との闘いが置かれている。(p.351)
エルンスト・ゴンブリッチ『棒馬考』が示すとおり、芸術がひとたび己を自覚するや、それはひとつの否定、拒絶、断念として定義される。(p.367)
芸術作品の所有化は、ある性向や能力を前提とするために、物質的なものであれ象徴的なものであれ、排他的所有化となる。そして芸術作品は、客体化された、または身体化された文化資本として機能しつつ、2つの利益を保証する。1つは卓越化利益、もう1つは正統性の利益だ。両者は相反する。この両義性は、文化の普及機関と大衆の関係についての二重化された言説に表れている。
美術館の展示方法の改善、とくに大衆化について質問すると、支配階級、とくに教授や芸術家・芸術評論家は、他人にとって望ましいことと自分自身にとって望ましいことを切り離すことで、自家撞着を免れようとする。美術館はいまあるような美術館だからこそ、彼らにとって排他的特権の場である。そのため、彼らが他人に与えることを承諾するのは「彼らの」美術館、禁欲的で貴族的な美術館だけだ。(p.372)
”作家や芸術家たちは、芸術の生産者とその受け取り手とのあいだにはシニカルな計算か純粋に利害を離れた無私無欲のいずれかしかありえないのだとして、それ以外のいかなる関係も認めようとせずに、たがいに相手方の活動の根本にはどんな手段を用いても成功を収めようとする意図があるとあばきたて――たとえばセーヌ右岸派は相手方が挑発やスキャンダルを利用していると言い、セーヌ左岸陣営は逆に相手が金銭ずくの卑屈なおもねりに堕していると言うといった具合に――それによって自分のほうこそ無私無欲な立場をとっているのだと信じこむための便法を手に入れるのである。いわゆる「奉仕作家」たちは、自分が厳密な意味では誰にも奉仕したりしてはいないのだと考え、またそう公言するだけの根拠をもっている。客観的にいえば彼らはただ、自分自身の利害=関心、個人的な、高度に昇華され婉曲化された利害=関心に奉仕しているから、ただそれだけの理由で奉仕していると言えるにすぎない。たとえば演劇や哲学の一形式にたいする「関心」などがそうであり、それはある場におけるある位置に論理的に結びついていて、それが隠している政治的含意を、その擁護者たちの目からさえも隠蔽してしまうようにうまく作られている(ただし危機的な時代は除いて)。純粋な無私無欲とシニカルな卑屈さとのあいだには、あらゆる自覚的な意図とは無関係に、芸術生産者と受け取り手のあいだに客観的に成りたつ諸関係のための場所があるものであり、そうした諸関係によって個別化した相互に自律的な場において生みだされる慣習行動や作品は、必然的に多元的決定を受けることになる。そしてまたこれらの慣習行動や作品が内部的闘争において果たす機能は、どうしてもいくつかの外部的機能をともなうことになる。それは支配階級内の諸集団間、また少なくとも期限つきで諸階級間でくりひろげられる象徴闘争のなかで、慣習行動や作品が帯びてくる機能である。「真剣さ」(それは象徴的有効性を生みだす条件のひとつであるが)というのは、占められている位置にしるされている期待(より俗っぽい世界では「ポストの定義」と言ってもいい)と、その位置を占めている者の諸性向とのあいだに、直接的で完璧な一致が成りたつ場合にしか可能にしかならないし、また現実のものにもならない。それは自分の社会的感覚(英語で「自分の場所の感覚(センス・オブ・ワンズ・プレイス)」と呼ばれるもの)に導かれつつ、生産の場における自分の自然な場所を見出すことのできた人々の特権なのである。人は改宗者ばかりに説教するものであるという法則にしたがって、批評家は社会界の見かたにおいても、趣味においても、またハビトゥス全体においても、読者が彼と構造上一致していて彼にこの力を認め与えてくれるのでない限り、彼に対して「影響力」をもつことはできないのだ。”(pp.389-90)
(この冷徹さはすごすぎます。本節のコラムである、ケーススタディの、フランソワーズ・ドランの芝居『曲がり角』の「右」から「左」、「セーヌ右岸」から「セーヌ左岸」にかけての主要紙全紙の劇評の分析は、本書の白眉です)
趣味の「親和力」を見るには結婚で十分だ。文化系パリ高等師範学校卒業生のうち、既婚者の59%が教職(うち58%がアルジェ(教授資格取得者))と結婚。中央官庁の部長クラスのうち、既婚者の16.6%が役人、25.2%が企業勤めの娘と結婚。ヨーロッパ経営大学院卒業生のうち、既婚者の22.5%は経営者、21%は管理職・上級技術者の娘と結婚しているのに対し、教授の娘はわずか5%。(p.392)
言葉遣いにおけるゆとりは、要求のエスカレートと決然たる侵犯という2つの自由誇示形式で行われる。この2つの対立する戦略はまったく排除しあうものでなく、じつは言説の別々の時点に、あるいは異なる水準において共存することができる。例えば語彙のレベルにおける「ゆるみ」は構文または発声法の緊張によって埋め合わされ、逆に「慇懃の戦略」は、象徴秩序において距離を否定するように見せつつ、それによって距離を肯定することになる。(p.415)
・『ディスタンクシオンⅡ』
・第Ⅲ部 階級の趣味と生活様式
観劇のために払う金額の中央値は、教師層(4.17フラン)が私企業一般管理職(4.61フラン)、公企業・官庁一般管理職(4.77フラン)より低く、以降は経済資本のヒエラルキーどおり、公企業・官庁上級管理職、自由業、私企業上級管理職、商人、企業主と上昇する。
知識人にとって劇場、展覧会、芸術映画館に通うといった慣習行動は、頻繁に実行されてほとんど専門家のルーティンの一部と化し、非日常的側面をすっかり奪われているために、いわば最小の経済コストで最大の文化的収益をあげることの追求になる。これによって得られる満足感は、これ見よがしの浪費か作品の象徴的所有化だけだ。彼らが象徴的利益を期待するのは、作品そのもの、または作品の稀少価値とその作品について彼らが展開する言説(劇場を出てすぐに「一杯やりながら」、または、講義、記事、作品など)からだ。
対して、各階級の支配集団は劇場での「夕べ」を浪費とその誇示の機会とする。「着飾り」、「いちばんいいもの」を買おうとする性向に従ってもっとも高価な席をとり、芝居がはねたら夕食に出かける。「ブティック」を選ぶように劇場を選ぶ。『ル・フィガロ』の『曲がり角』についての劇評から言葉を借りれば、「高品質」を示すしるしを持ち、「不快な驚き」や「悪趣味」は排除した劇場、自分の仕事を熟知し、「滑稽味という手段、状況設定の持つ表現力、的を射た言葉の滑稽な、あるいは辛辣な力」について知り、つまり「分解技術」の巨匠であり「劇作術のこつ」を指先で知悉している金銀細工師、宝石細工師のような作者、「これっぽっちの媚びも通俗性もなく、人々を喜ばせるのに必要なものすべてを備えている」、「誰もが自分自身に提起して」いて「ユーモアと癒しがたい楽天主義だけ」がそこから人々を「救いだす」ことができない問題を提起するために、「平衡感覚を持った観客を健全な喜びとともに平衡状態へと連れ戻すことにより、その心を軽くする」ように作られている戯曲を選ぶ。(p.22)
あらゆる慣習行動は純粋な消費、無償の消費を求める。とくにもっとも貴重なものである時間、すなわち消費についやされる時間と、適切な消費を行うために必要な文化の獲得についやされる時間の消費を求める。
象徴資本の蓄積・形成のうち、芸術作品の購入は、もっとも非のうちどころのない、もっとも真似することのできない蓄積形式、すなわち自然な卓越性=上品さ(ディスタンクシオン)、個人の「権威」「教養」という形式での弁別的記号と力の象徴の身体化にもっとも近い。値段のつけられない芸術作品の独占的所有化は、これ見よがしに行われる財産の破壊にも似ている。そしてまた、科学的・技術的教養よりも文学的・芸術的教養のほうが高く評価されているとおり、いわゆる「高級な教養」の独占的所有者たちも、無用であればあるだけ評価の高いさまざまな行動に費やしてきた時間を、社交においてポトラッチしている。
物質的所有化ができず、象徴的所有化しかできない各階級の被支配集団は、独占権を持つためには所有化様式の独自性を追求することしかできない。これが被支配集団において、同じものを他人とは別の仕方で愛すること、同じ仕方でも他人とは別のもの、すなわち一般にはそれほど賞賛の対象とはなっていないものを愛すること、つまり、趣味の絶えざる変化を引き起こす原理だ。知識人・芸術家は特別に危険で、同時にもっとも見返りの大きい戦略をとる。つまり、つまらない対象、あるいはすでに芸術作品として扱われていたとしても、別の階級・階級内集団ではまだそうでない対象を、きちんとした芸術作品に仕立てあげ、彼ら固有の力を主張する。こうして、ウェスタン、漫画、家族写真、落書きなど、「通俗的な」財は、卓越した弁別的な文化作品に変貌する。(p.43)
「ブルジョワ」「セーヌ右岸派」/「知識人」「セーヌ左岸派」的趣味の対立。より古く公認された作品(印象派(とくにルノワール、ワットー)、『ハンガリー狂詩曲』、『四季』、『小夜曲』)/現代作品(ピカソ、カンディンスキー、ブーレーズ)。2つの世界観、2つの存在哲学として、ルノワール/ゴヤ、モーロワ/カフカ、バラ色/黒、バラ色の人生/真っ暗な人生、ブルヴァール演劇/前衛演劇、問題のない人々の社会的楽観主義/問題を抱えた人々の反ブルジョワ的悲観主義、くつろいだ控えめなインテリア/きちんと構成された・手入れのしやすいインテリア、蚤の市で買った家具、伝統的フランス料理/異国風の料理・ありあわせの気軽な料理、物質的・知的快適さ/美学的・知的探求、前衛的な映画演劇への好み。(p.56)
「知識人」が芸術家に、社会的現実と、それについて「ブルジョワ」芸術が与える正統的表象への象徴的異議申立てを求めるのに対し、「ブルジョワ」は自分の芸術家・作家・批評家に、自分のデザイナー・宝石細工師・室内装飾家に対するのと同じように、社会的現実を否認する手段にもなりうる、卓越性の標章を求める。ブルジョワの生活を脱利害/利害、芸術/金銭、非世俗的/世俗的の二分法の一方とし、単一のものとするのは、ありがちな誤りだ。ブルジョワの生活の私的な面、家庭生活の関する面は、そうした装飾物にとり巻かれている。ひそかに政治化された(これ見よがしに非政治化された)進歩的政治新聞、インテリア雑誌・美術書、ブルーガイド・旅行記、地方色豊かな小説・偉人の伝記。これらはすべて社会的現実の前に置かれたスクリーンだ。「ブルジョワ」演劇とは、きれいな舞台装置、美人の女優たち、わかりやすい事件、軽い会話、安心させる教訓などを用いて、ブルジョワ生活のひとつを現実感たっぷりに描いたものであり、「ブルジョワ」がそこに自らの姿を見るために、他にもまして承認する芸術形式なのだ。ブルジョワは文学・哲学・芸術に対して、自分の自信を強めることを期待し、音楽のように高度に中性化されているものにさえ、前衛の大胆さは承認できない。彼らは今日、フローベールやマーラーの賛美者でありながら、かつてこれらを拒否した人々と同じく、たとえ象徴的なものであっても無秩序には苛立ち、たとえ芸術的に昇華されていても「変動」には嫌悪する。(p.59)
前衛趣味は芸術的正統性を具現するものであるにもかかわらず、社会的に承認されているあらゆる趣味の拒否の総和として、ほとんどネガティヴに定義される。俗物趣味、中間趣味、ブルジョワ趣味。最後に、本来はブルジョワ趣味に対立するにもかかわらず、芸術家の目にはブルジョワ趣味の一変種としか映らず、重々しく理屈っぽく、受動的で不毛な教訓主義、きまじめな精神、そしてとくに慎重さと遅れた発想のせいで蔑まれている、教授たちに特有の衒学趣味。こうして一巡し、芸術家はふたたび大衆趣味の選好に回帰することがある。芸術家は実用的・手入れしやすいインテリアを好む点で庶民階級・中間階級の下層集団と一致する。彼らはキッチュやクロモといった大衆趣味のもっとも評判の悪い形式を、二次的に利用することができる。芸術家の生活様式は、他のあらゆる生活様式とその物質に対する距離によって定義され、自由な時間が経済資本に代替する特殊な資産形態をとる。しかし、それによる獲得物を諦めてでも、この自由な時間を守ろうとする性向は、諦めることを可能にする、すなわち我慢できるものにする(相続)資本と、この諦めに対する高度に貴族的な性向を前提にしている。(p.60)
庶民階級・中間階級出身者が多く、上級技術者により近い公企業・官庁管理職/年齢層が若く、出身階層が高く、自由業により近い私企業管理職。後者は前者に比べて骨董屋に行くことが多い。ヴラマンク、ルノワール、ヴァン・ゴッホ/ダリ、カンディンスキー。『アルルの女』、『ラ・トラヴィアータ』、『神々の黄昏』、『小夜曲』、『シェヘラザード』/『フーガの技法』、『左手のための協奏曲』。ジルベール・ベコー、エディット・ピアフ、ジャック・ブレル/アズナブール、フランソワーズ・アルディ、ブラッサンス。旅行記、歴史物語、古典作品/哲学的エッセー、刺繍。良心的、陽気、楽天家、穏健な友人/芸術家肌、気品のある友人。質素、控えめな、調和のとれたインテリア/きちんと構成された、面白みに富んだインテリア。
これ以上に、私企業管理職は、伝統的ブルジョワジーの商工業経営者と区別される。すなわち、新興ブルジョワジーと旧実業ブルジョワジーの対立だ。若くして権力のある地位につき、大学を出ていないことが多く、大企業・現代的な企業に属していることが多く、より「現代的」で「若々しい」生活様式を持つ。経済紙、経済専門誌を読む割合がもっとも高く、不動産に投資する割合はより低い。スポーツはヨット、スキー、水上スキー、テニス、乗馬、ゴルフなど、しゃれていると同時に活動的で、「サイバネティックス的」なものを好む。遊びはブリッジ、とくにチェスなど、「知的」でしゃれたゲームを好む。外国旅行の頻度が高く、仕事に関する討論集会(コロック)、セミナーへの参加率が高い。(p.82)
知識人・とくに芸術家は、被支配階級の支配階級に対する関係と、支配階級における被支配集団の支配集団に対する関係が構造的相同性を持っていることから、被支配階級とのあいだに連帯感を覚えたり、現実に連帯することができる。そのとき彼らは「ブルジョワ」が承認する象徴的自由特権を利用し、「ブルジョワ」はこの自由特権を承認せざるを得ない。なぜなら芸術家の「ブルジョワ」的物質に対する否定には、大衆的物質主義に対する否定が含まれていて、これは自分たちの精神的な名誉を肯定するからだ。支配階級における支配集団は矛盾した立場におかれているため、文化的財とその生産者にアンビヴァレントな関係をもたざるを得ない。つまり、彼らは知識人・芸術家によって俗物的物質主義と男性的反知性主義の側に追いやられるが、被支配階級に対しては、知識人・芸術家が彼らに対して担ぎだす事柄をみずから援用せざるを得ない。
またこのことは、知識人・芸術家を定義する「無私無欲」な姿勢を疑わしくさせる。つまり、彼らが支配階級における支配集団を貶めるイデオロギー戦略が自動的に完璧なものになりうるのは、経済資本と文化資本が交差配列的な分布構造を持っているために、彼らとしては「嫌だが必要なら」という姿勢をとりさえすれば、自分が求める必要性以外の必要性に対応する「美徳」については、これを恣意的なものと決めつけることができるからだ。「世俗的」ヒエラルキーと「非世俗的」ヒエラルキーの不一致が、躓きのもととなる経験として生きられるとき、世俗的ヒエラルキーの転覆の希望が生まれるが、この希望は文化生産者、とくに支配階級の場において文化生産者が占めるのと相同な位置を、文化生産の場において占める人々には大きい。作家・芸術家はその生産物がそれ自身の市場を作りださなければならないために、世俗的、かつ一時的に被支配的な位置におかれており、文化生産者が各階級の支配集団に対立するのと同様に、文化生産者の内でも支配趣味に直接適合する生産物を提供することで世俗的にもっとも公認されている人々に対立しているため、この希望は終末論的な希望だ。こうした希望は彼らの「現世での禁欲」と「使命」感を支えるために、まさに『知識人の阿片』だ。これはただのアナロジーではなく、実際に、この闘争から、厳密に世俗的な利害に対するもっとも異論の余地のない超越性が現れる。(p.96)
社会階層の下層に行くほど読書をしなくなり、さらに文学賞受賞作の読書はまったくしなくなり、文学賞の知識はなくなり、文学賞の正統性を認めるようになる。このことは循環論法を形成している。なぜなら、彼らが文学賞の正統性を認めるのは、それを判断する知識がないからだ。(p.100)
文化に対するプチブル階級の関係は、認知=知識(コネサンス)と承認(ルコネサンス)の落差から導かれる。この落差が文化的善意の原理だ。例えば、上昇プチブルはその善意を、慣習行動・正統的な文化的財のマイナーな形式、美術館を訪ねたり美術品を集める代わりに、有名記念建造物やシャトーを訪ねる、雑誌を読む、写真を撮る、知識を身につけることに向ける。これは彼らが「分不相応な」生活をすることに、驚くべきエネルギーと創意工夫を示すことと同じだ。(p.101)
これにより、誤れる承認(フォル・ルコネサンス)の(文化的)アロドクシア(とり違え)が生じる。(p.105)
新種の文化媒介者(ラジオ・テレビの教養番組司会者、新聞・週刊誌のコラムニスト、作家的ジャーナリスト、あるいはジャーナリスト的作家)は、生産者であるアウクトル〔書き手〕と正統的再生産者であるレクトル〔読み手〕に対し、大量普及手段であるマスメディアが存在しなかったなら、まったく成功しなかっただろう。彼らはアウクトリタス〔権威〕の尊大な自由さの代替を、屈託のなさ(くつろいだ、気安いスタイル)や、真面目さの拒否に、しかも、自分自身の内在的価値を奪われた「引き立て役」としての役割につきものの矛盾を居心地悪く生きながら、求めなければならない。彼らは文化生産の場において低い位置にあり、知的・科学的権威に対しアンビヴァレントな関係を持つため、正統的芸術の周縁的な形式を称揚し、ヒエラルキーの部分的革新を図るように駆り立てられているが、これは彼らが文化的価値の中心から離れたところに位置づけられているために、さまざまなアロドクシアと結びつき、これほど転覆力を持たないものはない。(p.112)
独学者は文化を生死、真偽の問題と見做すために、どんな美学にもある無責任な自信、厚かましい屈託のなさ、隠された不誠実を見抜くことができない。彼らは既成階級の自信を獲得物によるものだと見做し、生まれによってもともと文化と結びついている人々の自由や大胆さを、文化に対する関係として得ることができない。これが独学者のうちで、カミュの『反抗的人間』やマルローの『沈黙の声』を、郵便配達夫シュヴァルの理想宮殿より正統にするものなのだ。(p.121)
義務というモラルは快楽と善の対立を前提とするが、カントが『判断力批判』で享楽は強制できないと述べたのと反対に、現代は義務としての快楽を要求する。(p.180)
新興プチブルは社会空間の一定の場所に配置されることを拒否するため、新しい職業を作りだす。これは実践的ユートピア主義であり、今までは知識人の特権に留まっていたが、現代では広く開かれている。彼らはみずから「排除された」「周縁的な」存在であることを望む。
正統化の途上にある文化、日常、個人に教養化された(キュルティヴェ)性向を一貫して適用しながら、知識人的生活様式の大衆化を行ってゆく。このウルガタは「野生」と「自然」への回帰と見られようとするが、「教養化された」、学校的な側面を持つ。(p.185)
庶民階級は貯金から、それで得られた財・サービスに見合う満足感を得るが、実際に支出するときは苦痛を覚える。彼らは浪費・散財に価値を見出すことができない。
必要趣味とはプラグマティズム、機能主義だ。庶民階級は所得が上昇しても支出が変わらない。生産労働者は他の階級に比べ、小ぎれい・清潔な・手入れしやすいインテリア、値打ちのある服を好む。
客間・玄関を飾る縁日で買ったがらくたの置物、金ぴかのアクセサリーはブルジョワ趣味における通俗性であり、卓越化と真逆のものだが、実はこれは必要趣味だ。こうしたものはそもそも、「ただ同然」でなければ買う気にならない「ばかげた買物」だからだ。(p.192)
順応の原理は大衆趣味の唯一の明示的規範だ。そこではどのような卓越化の意図、個性という階級内の差異も許されない。
(肉体的)労働力しか持たない労働者階級が、他の階級に勝るのは、肉体の力と闘争力だけであり、そのため男性性と連帯性に固執する。階級が上昇するほど性役割の差は小さくなる。
被支配階級は押しつけられた否定的な価値のもとに構成されているため、否定的価値の変換(「ブラック・パワー」など)も社会的アイデンティティの奪還(「ナチュラル・ルック」など)も成功しない。(p.202)
ファンは情熱をもって参加し、それが狂信的排外主義に至ることさえあるが、実はこれは受動的な虚構の上での参加であり、その道のプロのために自分が剥奪されてしまったものの埋合せでしかない(秘伝的・超人的なプロのスポーツ選手とアマチュアの断絶など)。「大衆」の文化に対する関係が反復再強化するのは、実は、彼らの仕事の退屈さではなく、彼らの労働が他人の仕事〔疎外された労働〕であるという社会的関係だ。(p.212)
・結論
美学的言説の闘争目標とは最終的に、人間的なものとは何かという定義を他人に押しつけること、人間性を独占することだ。そのため芸術は「もう1つの自然」であると同時に「反-自然」だ。そしてバフチンがラブレーについて指摘したとおり、民衆の想像力は美学的社会論を転覆する方向にしか働かない。(p.378)
デリダが『絵画における真理』で行う『判断力批判』の読解は、形式化、超越論的還元によりエポケーを記しづける試みだ。これが哲学・哲学者に典型的なものであり、どれだけラディカルな断絶を展開したところで、哲学者は哲学の現存在というテーゼそのものの実践的なエポケーを含む断絶を最後まで進展させることはない。(p.387)
(前述のとおり、ブルデューは「結論」で、私たちの「好み」をプロブレマティックな唯物論に還元していますが、そこでわざわざ「カントは感情に関する新たな超越論的定義を提唱し、脱利害的=没関心的な快楽を欲望の代わりに置こうとした」というルイ・ギエルミ『ワグナーにおける批評の美学』(邦訳なし)の説を引いていることは興味深いです)