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聖なるマンガ――『ルリドラゴン』『チェンソーマン』

 さきの10月に眞藤雅興『ルリドラゴン』の単行本が刊行されました。
 本作は今年『週刊少年ジャンプ』で連載され、残念ながら休載したものです。
 明確に「良い」漫画であるにもかかわらず、ストーリーは平板で、シナリオ、演出ともに抑制的です。そのため、その「良さ」はあまり言語化されてきませんでした。
 強いて言えば、藤本タツキにスタイルが似ているというくらいです。
 もちろん、ルリがかわいい、ルリの母親が性的に魅力的だ、というくらいのことは言われましたが、それが本作の「良さ」の本質的なところだとは思えません。

 映画監督、映画評論家であるポール・シュレイダーの『聖なる映画』という映画評論があります。
 本書は小津安二郎、ロベール・ブレッソン、カール・テホ・ドライヤーを通じ、ストーリーのドラマ性と演出の抑揚に欠けた映画の「良さ」を論じたものです。
 この分析が『ルリドラゴン』にも援用できるのではないかと思います。本稿ではそれを試みます。
 また、この分析は藤本タツキ『チェンソーマン』にも援用できそうです。ですので、これもあわせて論じます。
 いわゆるアートシネマに対し、『チェンソーマン』のようなキッチュな漫画が近しいのか疑問を抱かれるかもしれません。ですが、シュレイダーはバイオレンス映画の『タクシードライバー』や『レイジング・ブル』の脚本家でもあります。
 なお、藤本は『ルックバック』や『さよなら絵梨』でアートシネマのような演出を極端にしていますが、シュレイダーは映画におけるそうした極端さには批判的だそうです。
(参考:『非物語映画の三つの方向 スローシネマとポール・シュレイダー『聖なる映画』(2018)

 シュレイダーは「聖なる映画」を3つの部分に分類します。
 ①日常的なもの ②乖離(「決定的瞬間」) ③静止状態 です。
 それぞれ見ていきましょう。

 ①日常的なものは、いわゆる現実そのものです。フィクションでそれを再現するということは、アンチ・ロマンになります。
 これによって、フィクションがフィクションに留まらず、私たちの現実そのものになります。
 ここで「現実もドラマチックなものではないか」と反論するひとは思いちがいをしています。例えば、友人や恋人との喧嘩です。喧嘩そのものは一瞬です。そして、友人や恋人と別れたあとの気まずい時間のほうが圧倒的に長いです。現実とはそれほどドラマチックでないものなのです。
 小津安二郎は"「見えすいたプロットの映画は私には退屈だ。もちろん映画である以上、構造がなくてはならないが、ドラマ、あるいは事件が多すぎるようなのは良い映画ではないと思う」"とコメントしています。
 小津の映画では、人間と自然、異なる世代のひととひとが、緊張関係を保ちつつ、和解することはありません。そのため、小津の観察は平明で、公平に見えます。
 脚本と同じく、小津の演出も抑制的なものになります。
 撮影は畳に座ったときの座高=床上90cmのアイ・ポジションで、固定ショットです。映画の区切りをしめす編集はカットだけで、しかも、比喩や対照といった作為のない、一定の間隔のものです。
 1.ロング・ショット 2.ミディアム・ショット 3.クローズ・アップ が1-2-3-2-1という順番で展開します。そして、1で静物画・風景画に似た、人間のいない映像が挿入されます。
 この①日常的なものという概念が『ルリドラゴン』で行われていることは、お分かりいただけるでしょう。
 小津の映画や『ルリドラゴン』では、ドラマチックな出来事は起きず、悪人もいなければ善人もいません。

 ですが、現実とまったく変わらないなら、あらためてフィクションで再現する意味はありません。そのため、②乖離(「決定的瞬間」)が展開します。
 現実、つまりこの世界が人間と無関係なものなら、人間と世界のあいだには乖離が生じます。
 『ルリドラゴン』でルリは角が生えたために不安をおぼえ、行動する前につねに逡巡します。ですが、それは具体的なことに起因するわけではありません。むしろ、ルリ自身に起因する、あるいは、世界に対する違和感や抵抗感として生じるものなのです。
 こうした世界との乖離には、ユーモアやアイロニーが緩衝材となります。
 ですが、「聖なる映画」では、そうしたものでは補えないほどの乖離、「決定的瞬間」が起きます。
 『ルリドラゴン』の第1話、そして読み切り版では、ルリの火吹きですね。

 「決定的瞬間」のあとで、「聖なる映画」は人間と世界のあいだの乖離を統合… しません。そうではなく、私たちに人間と世界が乖離していることを受けいれさせるのです。これが③静止状態です。
 こうして「聖なる映画」を見終わったあと、私たちは「現実に帰っていく」のではなく、私たちが放りだされていた現実、この世界そのものを受けいれるのです。この呆然自失する感覚をシュレイダーは超越と言います。
 『チェンソーマン』なら、最終回の前回である、第96話の終わりでデンジが"「マキマさんってこんな味かぁ…」"と言うところですね。
 『ルリドラゴン』でも、そのうちこうした最終回を迎えたのでしょうが、残念ながら休載しました。

 こうした概念が具体的にどう表現されているか、見てみましょう。
 映画における撮影と編集の意味は、ジル・ドゥルーズの『シネマⅠ・Ⅱ』を参考にします。
 『シネマⅠ・Ⅱ』については、映画評論家の蓮實重彦が、最近のインタビューで「映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の衒学趣味の悪習を継いでいる」と批判していますが、技術論だけではその意味合いが分かりにくいので、やはり参考にします。なお技術論については、基本書であるボードウェルとトンプソンの『フィルム・アート』を参考にしています。
 ドゥルーズは、映画の全体は「誤ったつなぎ」というカット間のつなぎに表れると言います。これに対するのが、ひとつのショットです。
 この対比は「感情(エモーション)のシステム」で、よりはっきりします。複数のカットによる表現と、顔やそうしたもののクローズ・アップです。喚起される情動(アフェクト)について、複数のカットによるものは、より細かく分かれていて、非人間的です。クローズ・アップによるものは、抽象的な感情から、まだ分化されていないものです。後者について、ドゥルーズは映画監督のロジェ・レーナルトの「クローズ・アップはすべての顔を類似させる」というコメントを引用しています。メークアップをしていない顔はすべて『裁かるるジャンヌ』のファルコネッティに、メークアップをした顔はすべてグレタ・ガルボに似ています。
 こうしてカットをつないでいくことには、より大きな意味があります。ひとが断片化される閉じた全体から、ひとが創造する開いた精神的な全体へ。空間から、精神的な次元である開いた空間へと導くことです。ドゥルーズはこれを、「規定された空間から任意の空間へ」と言います。
 この対比は、旧来のリアリズムに対するイタリアのネオ・リアリスモによく表れています。ネオ・リアリスモは戦禍のあとの廃墟や原野でロケーションをして、空間的な座標系を廃棄しました。
 ドゥルーズは、小津の映画も任意の空間に導かれていると言います。

 "小津の空間は、非接続によって、あるいは空虚によって任意の空間の状態までのぼりつめる。視線の誤ったつなぎ、対象の方向や、さらに位置の誤ったつなぎは恒常的であり、一貫している。"

(ジル・ドゥルーズ『シネマⅡ』p.21)

 なおここで、ドゥルーズは小津の空虚な空間を、ネオ・リアリスモにおける無人や自然と結びつけています。

『ルリドラゴン』第2話

 これは『ルリドラゴン』の第2話です。
 第1コマでは、消失点を画面の左端に位置し、空間の広さを強調しています。また、被写体であるルリとルリの母親は小さく、モブも排除され、空虚な空間を示しています。
 また、第2-4コマでは、イマジナリーラインを破る切り返し、すなわち「誤ったつなぎ」が行われています。
 『ルリドラゴン』が「任意の空間」を展開していることが、お分かりいただけると思います。
 さらに、『ルリドラゴン』でもっとも『ルリドラゴン』らしいコマは、第3話でルリが出かけるところでしょう(『僕とロボコ』がパロったところです)。ここは「誤ったつなぎ」に特徴的な、正面からのショットになっています。

『チェンソーマン』第22話

 参考までに、『チェンソーマン』の第22話です。
 ここでも、「誤ったつなぎ」正面からのショット空虚な空間により、「任意の空間」が展開されています。

 こうして、『ルリドラゴン』と『チェンソーマン』は「聖なる漫画」の基盤を技術的に整えています。

 ついでに、『シネマⅠ・Ⅱ』から、なぜバイオレンス漫画である『チェンソーマン』が「聖なる漫画」なのか検討します。
 ドゥルーズは奇妙なことに、ルキノ・ヴィスコンティやジャン・ルノワールの貴族主義的な映画と、サミュエル・フラーやニコラス・レイのバイオレンス映画を近しいものだと言います。それは、自然主義(ゾライズム)に対してのことです。
 自然主義(ゾライズム)では原始的な世界と分化した環境、欲求と行動が混沌としています。それぞれが現実的に区別され、十分に分離されているものは、どれだけ性や暴力が描かれていても自然主義(ゾライズム)ではありません。
 もちろん、ヴィスコンティやルノワールは、そうした野蛮を描きつつも、客観的な視点を保ちました。フラーやレイはリアリズムの作家とされますが、それは、登場人物の行動が環境に決定づけられているためです。そこでは、逆に欲求は抑圧されています。
 これは『チェンソーマン』におけるデンジの行動についても言えることでしょう。デンジの行動が欲望に忠実にもかかわらず、下品に感じられないのは、そのためです。
 そして、こうした客観的、非人間的な視点は「任意の空間」のものだと言えます。

 ところで、「聖なる映画」が古典的な映画から例外的であることにはお気づきでしょうか。
 つまり、「聖なる映画」は非映画的なのです。
 藤本タツキの漫画が「聖なる映画」のスタイルを使用していることは、ここまで述べたとおりです。
 つまり、映画的だと言われる藤本タツキの漫画は非映画的なのです

 藤本の漫画が映画的だと言われるのは、鳥山明『ドラゴンボール』や尾田栄一郎『ワンピース』に対してのことでしょう。
 ですが、『ドラゴンボール』や『ワンピース』の画面上の表現はイマジナリーラインに沿っていて、古典的な映画に近しいものです。
 それだけではありません。尾田は『ワンピース』で三大将の菅原文太、松田優作、田中邦衛を客演させるのみならず、勝新太郎を座頭市ほぼそのままで客演させています。しかも、その後に渥美清まで客演させています。
 映画的な引用をここまで得手勝手に行えるのは、映画監督ならクエンティン・タランティーノかジャン=リュック・ゴダールくらいのものです。
 藤本の映画的な引用など、尾田に比べればささやかなものです。

『ワンピース』第228話

 これは『ワンピース』空島編の第228話です。
 それぞれのコマで注目すべき点への視線誘導が行われ、かつ、コマとコマのあいだで視線の方向の変化が自然になっていることが分かります。
 イマジナリーラインを守った、古典的な映画のスタイルをとっています。
 動的で、いわば主観的な一人称視点のカメラワークにより、読者の没入感を誘います。対して、「聖なる映画」のスタイルは静的で、いわば客観的な三人称視点のカメラワークにより、読者の緊張感を煽ります。
 とくにアラバスタ編から空島編のジャヤ編にかけては、こうした演出が緊密です。さながら、ハリウッドの黄金時代です。

 ところが、尾田はみずからこのスタイルを放棄します。
 おおよその転機は、話数が長大化し、マンネリ化が目立ったウォーターセブン編からエニエス・ロビー編です。
 エニエス・ロビー編で例外的な名バトルとされ、『ワンピース』全編でも名高いのが、ルフィとブルーノのバトルです。
 ですが、これは奇妙なことです。CP9の諜報部員がガレーラカンパニーの幹部であるルッチ、カク、カリファだったと明かされるなるなかで、ブルーノだけモブで、CP9の諜報部員だったことはあからさまに後付けです。
 この疑問は、エニエス・ロビー編のラスボスであるルッチとのバトルと比較すれば解決します。

『ワンピース』第383話
『ワンピース』第427話

 それぞれ『ワンピース』の第383話におけるブルーノ、第427話におけるルッチとの決戦の導入です。
 ブルーノとのバトルでは、それぞれのコマで注目すべき点が視線誘導によって強調され、コマ間の視線の移動もまっすぐ下り、つかえることがないものになっています。
 対して、ルッチとのバトルでは、コマ数が多すぎ、雑然としていて、しかも、どのコマもメリハリに欠けるものになっています。

 実際、この比較対照は数値に明確に表れています。
 扉絵を除き、第383話は17ページ、89コマです。対して、第427話は18ページ、112コマです。第427話は見開き1ページがあるため、これを外れ値として除外すれば、16ページ、111コマになります。
 さらに、それぞれの話数でコマを①ロング・ショット ②フル・ショット ③ミディアム・ショット ④バスト・アップ ⑤クローズ・アップ に分類します。
 第383話は①24コマ(26.9%) ②13コマ(14.6%) ③6コマ(6.7%) ④7コマ(7.5%) ⑤39コマ(43.8%) です。
 第427話は①41コマ(36.6%) ②10コマ(8.9%) ③3コマ(2.6%) ④12コマ(10.7%) ⑤46コマ(41.0%) です。

 第383話から第427にかけて、フル・ショットとミディアム・ショットが減少し、すべてロング・ショットに統合されています。
 コマはセリフのあるコマのクローズ・アップと、それ以外のコマのロング・ショットに二極分化しています。それぞれのコマを番号の数字で表し、分散を計算すると、第383話の3.05から第427話の3.32に大幅に増加しています。
 この2話のあいだには、ロビンの長い回想が挟まります。このあたりで演出が散漫なものになったことは明白です。

 このことが顕著に表れているのは、頂上決戦編のマリンフォード編、第555話におけるエースとオーガの回想です。

『ワンピース』第555話

 脚本も無内容なものですが、それ以上に、演出が固定的な正面からのショットと、180度の切り返しによるつなぎで、形式的なものになっています。
 つまり、ストーリーは古典的な映画のままにもかかわらず、スタイルは「聖なる映画」に近づいています。
 さらに、マリンフォード編から、ページをまたぐ大ゴマと、斜めの枠線のコマ割りが急増します。また、ナレーションを多用するようになります。
 これはコマ間を視線で追うのではなく、ページ全体をひと目で見て、それから各コマのテキストを読ませるものです。文章を中心とする脚本と、絵を中心とする演出が分離し、しかも、演出は簡単なものになりました。
 いわば、画面全体が均質化(マトリックス化)し、そこに任意にストーリーを配置するようになったと言えます。

 頂上決戦編のインペルダウン編からマリンフォード編にかけては、『ワンピース』全編でも屈指で盛り上がるところです。
 ですが、これは過去編のキャラクター全員の再登場という、作品の最終章に似た展開のためです。この展開は第1部の最終章というより、むしろ、作品の最終章を前倒ししたものです。
 ですので、演出だけでなく脚本も、じつはウォーターセブン編から散漫になっていたと言えます。ウォーターセブン編がそれほど悪くないのは、ロビンに関連するストーリーだけのためです。
 目立つところでは、ウォーターセブン編の悪役が、圧倒的に魅力のないスパンダムであることです。
 スパンダムの人物造形は、上昇志向の強い役人であることと、ドジが多いことから構成されています。そして、この2つの要素はまったく関係しません。いわば、ただ並べただけです。そのため、スパンダムは浅薄なキャラクターになっています。
 同じことは、スリラーバーク編から登場するブルックの、スケベという要素についても言えます。
 アラバスタ編の第213話では、アラバスタ国王のコブラが風呂の覗きをします。コブラが「ありがとう」と礼を言ったことでルフィたちが誤解し、そのひと悶着のあと、コブラはルフィたちに平身低頭します。諌めるイガラムに対し、コブラは言います。"「イガラムよ 権威とは衣の上から着るものだ …だがここは風呂場 裸の王などいるものか」"。
 脚本において、すべての要素が一体となり、どれも不可欠なものになっています。ときどき、脚本にストレスフルな展開は必要かということが話題になりますが、問題は「ストレスフルかストレスフリーか」ではなく、「ストレスフルかストレスフリーか、どちらでもかまわないほど作品が低質なのか」ということです。
 また、第213話には『ワンピース』で「宴」という言葉が使われる場面がはじめて登場します。ですが、ここではルフィたちの宴席での乱行に対し、謹厳な王宮のひとびとがはじめは身構え、やがて打ち解けるという脚本の構造があります。これに対し、空島編ではまだロビンのリアクションというストーリーがありますが、ウォーターセブン編、スリラーバーク編と、以後「宴」は儀礼化します。
 『ワンピース』の「宴」は、ミハイル・バフチンの言うカーニヴァルによって、出席者が混然一体となるものです。これと対照的なのが、『チェンソーマン』の飲み会です。『チェンソーマン』の飲み会では出席者が個性化されていて、そのあいだに緊張が生じています。この飲み会について、マキマさんは翌日に"「昨日のお酒美味しかった……」"と独白しています。この場面でマキマさんは襲撃計画を知っているように振舞っていて、珍しく気をゆるめているため、この独白はおそらく本心です。ここで思いだすのが、小津安二郎の『小早川家の秋』での送別会のあとで語られる"「ああ愉快やった」"という独白です。『チェンソーマン』や小津安二郎の映画において、ひととひととの交流は、静的なものとなったときに価値を高めるのです。
 なお、ブルックのスケベという要素は、ホールケーキアイランド編におけるビッグ・マムとのバトルで、ようやく効果的に機能します。
 他に分かりやすいところでは、エニエス・ロビー編におけるジャブラ、クマドリ、フクロウの登場場面です。ここではジャブラたちが「革命軍の3人を暗殺する指令に対し、23人も殺した」ということで、危険さを表現しています。ですが、こうした数字は任意のもので、脚本における設計は不要です。
 例えるなら、スモーカーが登場場面で「次は5段アイスを買うといい」というセリフによって善良さを表現したのに対し、「次は50段アイスを買うといい」というセリフなら10倍の善良さを表現できたと言うようなものです。
 ウォーターセブン編からは、いわば脚本がモジュール化し、そのときどきで任意に使用するようになったと言えます。

 なお、演出が平板化したことには、巨人族や巨大な登場人物も一因としてあるでしょう。
 これらは他の登場人物より巨大なことから、キャラクターデザインがデフォルメされたものになります。
 エニエス・ロビー編では巨人族のオイモとガーシー。スリラーバーク編では、巨大であり、七武海で断ラスの不人気であるゲッコー・モリアが登場します。
 また、これらの全身を描くときは、画面構成が必然的にロング・ショットになります。有名なスモーカーの登場場面は1ページに収まっています。これに対し、ビッグ・マムやカイドウの登場場面はページをまたぐ大ゴマを使用しています。しかも、それがロング・ショットという迫真性に欠けるものです。

 頂上決戦編は『ワンピース』で屈指の盛り上がりを見せるにもかかわらず、「敗北者……?」という『ワンピース』で屈指の迷場面がありますが、これが偶然でないことがお分かりいただけたと思います。

 新世界編からは、肩書きのタイポグラフィによって各話の登場人物が増加し、脚本のモジュール化はますます進みます。
 その結果のひとつが、ドレスローザ編の終盤での、対幹部戦の連続における「それぞれの話はいい話だが、それよりも、はやく次の話に進んでほしい」というマンネリです。
 また、言うまでもないことですが、「覇気」というギミックにより、悪魔の実の能力者のバトルは単純化します。

 なぜ、このような変化が生じたのでしょう。
 まず断っておかなければいけないのは、『ワンピース』はアラバスタ編から空島編までは優れた作品だということです。
 ここまで『ワンピース』は古典的な映画のスタイルをとっています。
 ハリウッドの黄金時代の作品について、ドゥルーズは以下のように述べます。

 "わたしたちは、アメリカン・ドリームに対してそれは夢にすぎないと言って非難することはできないだろう。というのも、まさに夢であることがアメリカン・ドリームの望みであり、おのれがひとつの夢であるということから、おのれの力のすべてを引き出すからである。"

(ジル・ドゥルーズ『シネマⅠ』p.259)

 ところが、ベトナム戦争、公民権運動、カウンター・カルチャー、アメリカン・ドリームの崩壊、メディアの増大、実験文学、ハリウッドの危機と、ジャンルの陳腐化によって、アメリカ映画は動揺します。
 『ワンピース』についても、メディアへの露出と、連載の長期化という、制作上の理由を指摘することはできます。ですが、本稿は作品そのものの検討に留めます。
 注目すべきなのは、頂上決戦編で、オーガの「エース君」やジンベエの「ルフィ君」など、急に登場人物が君付けしはじめることです。まるで『ワンピース』の世界が現代日本に移転したかのようです。

 ここで、社会関係について山岸俊男の『信頼の構造』を参照します。
 意外なことに、心理実験によれば、アメリカ人のほうが日本人より他人への信頼が際立って高いそうです。
 さらに、世間知を持つひとほど、他人への信頼が高いそうです。
 このことは、一般的信頼が必要とされるのは、社会的不確実性の大きい状況だというパラドックスで説明できます。
 高信頼者は相手のポジティブ情報、ネガティブ情報ともに敏感です。また、低信頼者は相手の選択に関係なく依存度を上げつづけます。そして、損害を受けると過剰に防衛的になります。つまり、高信頼者は一般的信頼と、情報依存的信頼がともに高いということです。
 日本人は信頼が大きいように思われていますが、実際に大きいのは「信頼」ではなく「安心」だということです。
 山岸は、自立した人間であるためには、①自己への信頼性(自信) ②一般的信頼の高さ ③社会的知性 の3つが必要だと言います。

 また、『信頼の構造』はコミットメントについても調査研究しています。
 コミットメントの強さは、感情と、一般的信頼の低さによります。また、社会環境の閉鎖性が高いほど、コミットメントは強くなります。
 コミットメントの効用尺度は日本のほうが、パーソナルな信頼尺度はアメリカのほうが高いです。つまり、日本人は内集団びいきの期待が大きく、人間関係的な信頼が低いということです。
 コミットメントと感情については、ロバート・フランクの『オデッセウスの鎖』が詳細に研究しています。なお、山岸はフランクに師事しています。
 『オデッセウスの鎖』の論点は、いわゆる「囚人のジレンマ」などの集合行為問題です。集合行為問題は、個々の参加者が自己利益最大化を行うと、その全員が損害を受けるというパラドックスのことです。
 つまり、合理的な選択をすると損害を受けるため、不合理な選択をしなければなりません。そのため、不合理な選択をするというコミットメントが必要になります。そのもっとも身近なものが感情です。
 フランクは合理主義者に対し、道徳心などの感情は、集合行為問題の解決のために必要だと言います。

 『ワンピース』の東の海(イーストブルー)編は、ウソップがホラを吹く理由から、サンジが敵にも料理を食べさせる理由、ナミがココヤシ村を裏切り、泥棒を働く理由まで、感情のコミットメントと、その葛藤によってドラマが構成されています。
 こうした脚本により、読者は感動を与えられてきました。登場人物は善悪二元論で分けられ、物語はハッピーエンドで終わり、読者は満足感とともに「現実に帰っていく」。そうした作品は素晴らしいものです。
 ですが、上述のとおり、コミットメントの強さは社会環境の閉鎖性と相関します。
 物語の舞台が偉大なる航路(グランドライン)に広がり、社会環境が開放的になると、不合理な感情のコミットメントは正当化しにくくなります。
 閉鎖的な社会環境に慣れていて、コミットメントが強く、感情的な低信頼者は、一度裏切られると過剰に防衛的になります。こうした低信頼者は開放的な社会環境では無能です。
 こうした社会関係の法則により、『ワンピース』の登場人物は、偉大なる航路ではドラマを展開しにくいのでしょう。
 新世界編の魚人島編では、ラスボスのホーディ・ジョーンズは、背景である魚人族への差別が現実の社会問題を反映したものになっています。ですが、悪役としてまったく魅力がありません。ひるがえって東の海編は面白いですが、文化水準が低い後進地域である東の海で、魚人族への差別発言が連発されています。
 『ワンピース』に対し、嘘と裏切りが当然の世界観をもつのが冨樫義博『ハンターハンター』です。
 おおむねひとは『ワンピース』派と『ハンターハンター』派に二分します。傾向として、前者は閉鎖的な社会環境に適合的である感情的な低信頼者で、後者は開放的な社会環境に適合的である合理的な高信頼者だと言えます。もちろん、両者は性向が異なるだけで、優劣はありません。
 『ワンピース』派と『ハンターハンター』派と呼ぶと波風が立つので、以後、ワノ国の民とアラバスタ王国民と呼びます。

 「〈『ワンピース』を全巻読んでいる〉という会話がオタクでないことの証しだという俗説があるが、『ワンピース』を全巻読んでいるならオタクだ」という俗説があります。
 この俗説は簡単な心理実験で反証できます。

ネットミーム

 この俗説とともに、上掲の画像がしばしば引用されますが、この発言者のセリフを「ワンピースとか全巻彼氏から借りたし超好き!!」というように、第三者が登場する形に想像しなおしてください。
 その「彼氏」のイメージは、サラリーマンでもなければ大学生でもなく、ヤンキーのはずです。
 もしそうなら、「『ワンピース』を全巻読んでいるのはギャルやヤンキーというよりオタクだ」という心象が、まったくの自己欺瞞であり、本心ではそう思っていなかったことが実証されます。

 また、『一日外出録ハンチョウ』にも、自称マンガ好きの特徴として『ワンピース』の読者であることが挙がる場面があります。
 この場面についても、自称マンガ好きの「ワンピとかマジ100回以上読んだと思います!」というセリフを、「ハンタとかマジ100回以上読んだと思います!」に想像しなおして比較すれば、やはり『ワンピース』の読者はオタクでないだろうことが実証できます。

 ですが、北田暁大の『社会にとって趣味とは何か』における、2010年の「若者文化とコミュニケーションについてのアンケート」調査の統計分析によれば、すでに若者の大半は「オタク的趣味」に通じています。ですから、オタクかそうでないかという区分はほぼ無意味でしょう。
 『ワンピース』のファンとそれ以外の区分は、ワノ国の民かアラバスタ王国民かと言うべきです。

 『ワンピース』の新世界編からは、天竜人やゴア王国の貴族、ヴィンスモーク家など、「差別」がよくドラマの道具立てになります。
 ですが、『ワンピース』の「差別」は現実的なものではありません。なぜなら、差別がもっとも悪質になるのは、それが認識されていないときだからです。
 社会学者のピエール・ブルデューは、そうした差別の構造を象徴秩序と言います。
 ブルデューは『男性支配』で、女性差別について以下のように述べます。

 "女性たちは、過小評価されたアイデンティティを社会的に割り振られているのに、たえず、そのアイデンティティに自然な根拠があるように見せることを余儀なくされる。男性たちが棹や斧でたたき落としたオリーヴの実や木の枝を地べたにしゃがんで拾うという、長くやりがいのない細かい仕事を引き受けさせられるのは女性たちである。家計の日々の管理という俗な心配事をまかせられ、計算・支払・損得という、名誉を重んじる男であれば無視すべきさもしい仕事をめぐって得々としているように見えるのは女性たちである。(わたしにはこんな思い出がある。子供時代、近所の知り合いの男たちは、朝、豚を殺すにあたって、短いあいだきまって少し見せびらかすような暴力を行使し――逃げ惑う豚の鳴き声、大きな包丁、流れる血など――、それから午後のあいだずっと、ときには翌日まで、のんびりとカード遊びに興じていて、せいぜい重すぎる鍋を持ち上げるくらいだった。そのあいだ家の女たちは、あちこちで、脂身と血の腸詰めや、さまざまな種類のソーセージやパテをつくるために忙しく動き回っていた。)男性たちは(そして女性たち自身も)知らずにいるほかないのだが、支配関係の論理によって、女性たちは、ありとあらゆる否定的な特性を(道徳が厳命する美徳とおなじようなものとして)押しつけられ、教え込まれてしまうのだ。ずる賢さや、もう少し好意的な特徴をとって、直観のような否定的な特性は、支配的な見方によって、女性たちの自然[本性]に備わっていることにされているのである。"

(ピエール・ブルデュー『男性支配』pp.51-2)

 文化資本を得れば、こうした象徴秩序を認識するようになります。
 ついでながら、いわゆるポリティカル・コレクトネスによる表現の是非がしばしば論点となるのも、このためでしょう。文化資本を十分に所持しているひとにとっては、差別的な表現も、あきらかに差別であるために影響力を感じられません。また、反差別的な表現も、ただ差別的な社会体制から派生したものにしか見えません。そのために表現規制は意味がないと言うひとびとは、自分より文化資本が乏しいひとびとが存在することに気づいていないのです。
 アラバスタ王国民は、ワノ国の民がなぜ『ワンピース』や細田守のアニメ映画を好むのか理解できませんが、それは文化資本の多寡によります。
 逆に、蓮實重彦は『ハリウッド映画史講義』や『ジョン・フォード論』で、ジョン・フォードの作品が古い価値観に基づいているように見えて、自立した構造をもち、歴史を超えた「良さ」をもつことに触れています。

 「差別」と並び、ドラマの道具立てになるのは天竜人の「権力」です。
 ですが、やはりこの「権力」も現実的なものではありません。
 ブルデューは『実践感覚1・2』で、象徴権力というものを提唱しています。
 哲学者のミシェル・フーコーも、権力について同様の理論を唱えています。
 『ワンピース』における「権力」が非現実的なことについては、フーコーの権力論に関する、社会学者の酒井隆史の解説が分かりやすいです。

 "そこでのフーコーにとって重要なことは、絶対王政が、通常イメージされる「任意性、濫用、気紛れ、好意、特権、例外、既成事実の継承」などといった諸特徴のもとに作動していたのでは必ずしもないということを示すことだった。"

(酒井隆史『完全版 自由論』p.88)

 ちなみに、文章がややこしいのですが、典拠にはこう書かれています。

 "権力という語によって私が表そうとするのは、特定の国家内部において市民の帰属:服従を保証する制度と機関の総体としての「権力」ではない。私のいう権力とは、また、暴力に対立して規則の形をとる隷属の仕方でもない。さらにそれは、一つの構成分子あるいは集団によって他に及ぼされ、その作用が次々と分岐して社会体全体を貫くものとなるような、そういう全般的な支配の体制でもない。権力の関係における分析は、出発点にある与件として、国家の主権とか法の形態とか支配の総体的統一性を前提としてはならないのだ。これらはむしろ権力の終端的形態にすぎない。権力という語によってまず理解すべきだと思われるのは、無数の力関係であり、それらが行使される領域に内在的で、かつそれらの組織の構成要素であるようなものだ。"

(ミシェル・フーコー『知への意志』p.119)

 つまり、『ワンピース』における「差別」や「権力」はワノ国の民が想像する差別や権力なのです。
 もっとも、ただの軍事力としての権力でも、モモンガやバスティーユ、メイナード、スモーカーなどが中将を務める現在の海軍で、バスターコールにそれほどの抑止力があるとは思えません。
 ウォーターセブン編では最終的な敵は、世界政府という公共そのものと巨大な官僚機構でしたが、新世界編では天竜人という少数のひとびとに矮小化します。ルッチはウォーターセブン編ではCP9に所属する政府のエージェントでしたが、新世界編ではCP0に転属し、ただの天竜人のボディガードになります。

 天竜人がすることと言えば、奴隷を虐待することくらいで、文化資本が乏しく、自由があるようにはとても見えません。
 そして、このことはルフィも同じです。また、ルフィは天竜人と同じくらい我意を通しています。
 ルフィの「治った〜!」は天竜人の「偉いんだえ〜!」と同じですし、ルフィの「肉〜!」は天竜人の「奴隷はどこかえ〜!」と同じです。天竜人は奴隷の奴隷ですが、ルフィは肉の奴隷です。
 ユーチューブの「ワンピース考察動画」を見るまでもなく、ルフィは天竜人なのです。

 『チェンソーマン』におけるデンジは、このような、自由に振るまっているようで、じつは自由がないことを問題にした主人公でした。
 ただし、より文化資本を得て、より象徴秩序を認識するようになればいいということではありません。この陥穽にはまったのが『チェンソーマン』のラスボスであるマキマさんでした。
 バリー・シュワルツの『なぜ選ぶたびに後悔するのか』は、選択肢が増えるほど満足感が下がるというパラドックスの研究です。シュワルツは、ハーバート・サイモンの『システムの科学』における意思決定理論を使用すべきだと言います。これは、最大化(マキシマイザー)であるより満足化(サティスファイアー)であるべき。つまり、情報を無限に探索し、選択肢を増やしつづけるより、現在の情報から選択すべきだということです。
 マキマさんの名前がマキシマイザーから採られたと主張するつもりはありませんが、少なくとも、「マキマから木を抜くとママになる」という由来よりはありえるでしょう。

 『ワンピース』の超新星編においては、ルフィが自由であることは、百計のクロや、陰謀をめぐらせるクロコダイルとの対比で意味をもっていました。
 ですが、新世界編になり、脚本が構造を失うと、「自由である」ということは物語で宙吊りになり、意味が空疎なものになりました。
 この混乱がよく表れているのが、一部のファンが、マザー・カルメルを『ワンピース』における悪人だと判断していることです。マザー・カルメルがしていることは善行ですが、子供たちの職業選択の「自由」を奪っているからだそうです。ですが、マザー・カルメルはあきらかに善人です。なぜなら喫煙者だからです。『ワンピース』における喫煙は、サンジ、ベルメール、スモーカーなど、「荒くれ者だが心は優しい」ことの象徴です。クロコダイルとベッジは悪人ですが、やはり心根は善良です。

 なお、しばしば中高年の「オタク」が「『チェンソーマン』は〈少年漫画〉らしくない」ということを言います。対比として意識しているのは、どうやら『ワンピース』とルフィの純粋さのようです。ですが、ラーメンを食べてブクブク太り、美少女キャラのイラストでオナニーをする独身の中年男性に語ることのできる「少年漫画」はギャグ漫画… それも、『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』や『ボボボーボ・ボーボボ』のようなナンセンス・ギャグ漫画だけでしょう。

 象徴秩序の複雑なところは、循環的に自己を再強化するところです。
 ブルデューは『ディスタンクシオンⅠ・Ⅱ』で、社会階級が上がるほど、性役割の差が小さくなることを述べます。労働者階級が誇ることができるのは、肉体の力と闘争力だけです。そのため、「男らしさ」と「男同士の連帯」に固執します。そこでは、どれほどわずかな個性化も、階級上昇を試みているとして許されません。
 同じ理由により、ワノ国の民も自分たちの好みに固執します。そうしてあえて文化資本を拒絶すれば、『週刊少年ジャンプ』から手を広げて、山上たつひこの『がきデカ』を読んで笑ったり、和月伸宏の『エンバーミング』を読んで感動することはできません。その代わりに、「『こち亀』は100巻からが面白い」や「『ワンピース』は超新星編より、いまの新世界編のほうが面白い」などとSNSに投稿して自尊心を守っているとすれば、悲しいことです。
 マイケル・ヤングは古典的な名著の『メリトクラシー』で、ひとびとが社会階級によって二極化することを警告しました。劣等感を抱え、資本をもつものに嫉妬と敵愾心をいだく大衆主義者(ポピュリスト)と、自分たちが資本を得たことは運によるにもかかわらず、実力と錯覚し、資本をもたないものに軽蔑と嫌悪感をいだく偽善者(ヒポクリシー)です。
 新世界編が超新星編より面白いと自己欺瞞したりせず、かといって新世界編に読む価値がないと独善に陥ったりもせずに、最大限に作品を楽しみたいものです。


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