【兎角が紡ぐ】三味線【徒然文筆家】

 お母さんが残した大切な三味線。
 お母さんが亡くなってから、一度も触れていないソレは、ずっと仏壇の傍に置いてあった。私には扱い方が解らなくて、ずっと触れられなくて。
 だから、それがいつの間にか居なくなっていることに気が付くのも時間がかかった。
―――
―――
―――
 夕暮れのオレンジが薄紫に染まろうとする空。
 光と闇の境界。意識しなければ輪郭を見失ってしまいそうな、儚い刹那の時。
 家の中は私一人だけ。
 お母さんは何年も前に亡くなった。お父さんは仕事ばかりで、家にはあまり帰ってこない。ましてや定時すら迎えない内に帰ってくるなんて、まずありえない。
 今日は金曜日。明日からは六日間に渡るGW。でもお父さんはきっと帰ってこない。お父さんが何処で何をしているかなんて、ちょっと考えてみればわかりそうなものだけど、私にとってはどうでも良いこと。
 一人きりのGW。友達と遊ぶ予定なんて無い。そもそも私に友達と呼べる人が居ない。それもどうでも良いこと。
 取り留めのない思惟。それは、お母さんが居なくなったあの日からずっと続いていること。あの日。でも、あの日って、いつだっけ。
 玄関の呼び鈴が鳴った。一度、二度、そして三度。
 答える人は私以外に居ないけど、私が出る必要もないから。
 呼び鈴が止んだ。帰ったかな……?
―――
―――
―――
 猫が一度鳴いた。それは遠くから。
 猫が二度鳴いた。それは近くから。
 猫が三度鳴いた。それは境界から。
―――
―――
―――
 猫……?
 猫の鳴き声だ。それは何処から?
 横たわっていたソファから身体を起こして、辺りを見渡す。でも、この家で猫なんて飼っていないから、家の中から聞こえるはずがない。
 灯りのない部屋に、暮れの陽が差す。視界が、物の輪郭が、歪む。曖昧に、曖昧に、境界を失って、溶けていく。
 ボーン、と。古めかしい振り子時計が鳴った。何時だろうと目を向ける。時計は6時を指していた。
―――
―――
―――
 一度、ボーンと鳴った。
 二度、ボーンと鳴った。
 三度、ボーンと鳴った。
 そして猫が鳴いた。
―――
―――
―――
 そういえば、この音はなんだろう。聞き覚えのある音色。三味線の音。そう、これは三味線の音色。猫の鳴き声に薄く被さるように、聞き慣れた音色が広がっていく。
 お母さんがよく聴かせてくれた曲。曲の名前は知らないけれど、小さい頃から何度も聴かせてくれた音色。
 猫が鳴く度、その音色が鼓膜を揺らす。音色が響く度、猫が鳴く。どうしてだろう。全く異なる音同士のはずなのに、不思議とそれは合わさって、空間に溶けていく。
 コトン、と音が鳴った。仏壇の方からだ。何だろうと目を向けるけれど、倒れるような物はないはず。それでも気になって、仏壇の前に立った。
 お母さんの遺影がある。でも、どんな表情をしているのかがわからない。目の焦点が合わない。頭を振って、視線を落とした先に、何かが落ちていた。
 それはメダルだ。観光地とかによくある記念メダル。私とお母さんの名前が刻まれた、メダル。でも、どうしてこんなところに?
 手に取る。それから、猫の鳴き声も三味線の音色も聞こえなくなった。
―――
―――
―――
 お母さんが残した大切な三味線。
 お母さんが亡くなってから、一度も触れていないソレは、ずっと仏壇の傍に置いてあった。私には扱い方が解らなくて、ずっと触れられなくて。
 だから、それがいつの間にか居なくなっていることに気が付くのも時間がかかった。
―――
―――
―――
 大切な大切な三味線。お母さんが残してくれたお守り。それは私の気が付かない間に消えていた。
 GWが終わって、学校へ行って、偶然知った。三味線の胴部分には、猫の皮が使われていると。
 それが何か関係あるのかはわからないけれど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?