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明日への逃避行 1話「Lovers sing⑥」

信哉は商学部棟の玄関ホールに立っていた。商学部は岡本学園大の中で最も歴史が古く、去年まではキャンパスの中で一番奥の区画に学部棟が立っていた。正門から徒歩20分かかる立地で学生からは僻地と呼ばれていたらしい。しかし、建物の老朽化により去年から新校舎が建てられた為、今は学内で一番きれいな建物だ。学部棟内にスタバがあるため、他の学部生も集う溜まり場となっている。
「お、細野おったやん。」
細野健吾は商学部の4回生だ。4回生ならゼミ関係のお知らせが玄関ホールに貼ってあることもあるため探しに来たのだが、案の定だった。堀江ゼミのレポート未提出者が貼り出されており、その中に細野健吾の名前があった。商学部の堀江教授といえば経済学部にも講義があるが、単位を取るのが難しいと聞き信哉は履修しなかった。レポートを出さない奴が悪いが名前が貼り出されるというのはなかなか恥ずかしい。
さて、ゼミが分かったとしてもそこからどうするかだ。聞き込みをしようにも今は夏休み期間でほとんど生徒はいない。大学の近くにあるフリースペースに行けば、就活や講義の話で議論している学生がいるはずだ。夏休みでもいるのかは分からないが、信哉はとりあえずそちらに行ってみた。

フリースペースに入ると5つの学生グループが来ていた。それ以外にもPCを開いてレポートのようなものを書いている学生や自習している付属高校の生徒など数名が座っている。
信哉はとりあえず入り口近くの席に座り、鞄から本を取り出した。中身はただの小説だが、この環境でスマホを弄っているだけだとかえって目立つから仕方がない。信哉は本を読むふりをしながら周囲を見渡した。すると会話の中から「堀江先生」というワードが聞こえた。再度耳を澄ませると一番奥の円卓で議論をしている4人組が「マーケティング」や「消費者心理」という言葉を頻繁に発している。単位が取りにくいとされていた堀江教授の講義は「消費者行動論」だったはずだ。
彼らが細野と同じ堀江ゼミの学生だったとしても、細野が彼女にDVをしている疑いがあるから知っていることを教えてくれ、などと話しかけたら明らかに不自然だ。信哉は言葉が浮かばずに考え込んでいると、4人は荷物をまとめ始めた。まだ考えはまとまらなかったが仕方がない。信哉は4人に近づいた。
「あの、すみません。細野さん見かけませんでしたか?」
4人はきょとんとした顔でこちらを見た。まずい、明らかに警戒されている。信哉は嫌な汗が噴き出しているのを感じながらも話を続けた。
「今日細野さんに呼び出されてここに来たんですけど、約束の時間になっても来なくて。LINEも返ってこないんでどうしようかなって。皆さん、細野さんと同じゼミの方ですよね。」
そこまで続けると、ようやく4人のうち一番手前にいた男が答えた。
「そうやけど。でも今日は見かけてへんな。というか細野ってもう全然大学来てへんから、しばらく会ってないよ。」
「君1回生?細野の知り合いなん?」
細野との関係を聞かれて信哉はとっさに答えた。
「今日バイトを紹介してもらえるって話やったんです。講義で隣に座った時に知り合って、僕が新しいバイト先探してるって言ったら紹介するよって言ってもらえたんですけど。」
もちろん作り話だが、完全な嘘ではない。信哉は入学してすぐに講義で隣に座った先輩と仲良くなり、その先輩が働いているカラオケ店でバイトをするようになった。嘘をつくときは本当の話を混ぜろとはよく言ったものだ。だがこの話をした途端、4人の顔がくぐもった。まずいことを言ったか、信哉は咄嗟に考えたが答えは出ない。
「君、細野のことよく知ってるん?」
左奥の男が口火を切った。後の3人はまだ微妙な表情で目を見合わせている。
「いえ、何回か講義で一緒になっただけですけど。」
「あんまり知らんのやったらバイトとか紹介してもらわん方がええと思うで。」
「細野さんって何か変なバイトしてるんですか。」
彼らの微妙な表情が気になったので信哉は大胆に聞いてみた。こうなったら当たって砕けろだ。
「さあ、ほとんどゼミ来てないし、よく知らんのよ。サークルには顔出してるみたいやけどね。」
何となく4人とも細野のことはあまりよく思っていないのか、関わりあいたくないという雰囲気だ。恋人に暴力を振るうような男とは誰だって関わりたくないだろうから、もしかするとそういう噂もある程度知っているのか。いずれにしてもそれを聞き出すのは難しそうだ。
「そうなんですね、細野さんってどこのサークル入ってるんですか。」
「ロクバニやで。軽音サークル。」
そこまで答えると4人はそそくさと荷物をまとめて出て行った。
「ロクバニ…。ROCK BUNNYか。」
信哉は入学当初の事を思い出した。

入学式の日、正門から会場の体育館に向かう道すがら大量のビラを渡された。サークルの勧誘が花道のように両脇に列をなしており、歩く新入生の目の前にビラを突き出していくのだ。1枚受け取ったら最後で後は手に持ったビラの上に積み重ねるように勝手に次々ビラを乗せられ、体育館に着いた時には片手では持ちきれないほどのビラを抱えていた。とても全部は見てられないので、信哉はその中から3枚だけ抜き取り、後は入口横のごみ箱に投げ入れて体育館に入ったのだった。
後日その3枚のビラのサークルの新歓に顔を出した。新歓は一つを除いてそれなりに楽しかったが、結局入学式で席が近かった和樹と翔といる方が楽しかったし、和樹がサークルを作ると言い出した為どれも入らなかったのだ。
その3つのうちの一つが『ROCK BUNNY』だった。唯一印象が悪かったサークルだ。新歓は3回生が中心になって行っていたため幹事メンバーは酒を飲んでいなかったが、2回生や幹事以外の3回生の飲み方がとにかく汚かった。最初はパートを聞かれたり好きな音楽の話なども話題に上がったが、段々と酔いが回り一気コールが沸き起こった。テンションが上がった新入生も数名参加し、グラスを倒したり料理をこぼしたりと乱痴気騒ぎだった。
飲んでいない幹事もさして顔色を変えていなかったため、おそらくいつもの光景だったのだろう。信哉は両親が酒飲みで高校時代から特別な日は家で酒を飲むこともあった。だから飲みの場が嫌いなわけではないが、酒の味も分からない連中が大勢で騒いで店を荒らす様子は見るに堪えなかった。大学公認のサークルではないため注意喚起が入りにくいというのはあとで聞いた話だ。
信哉はスマホでロクバニのTwitterを開いた。サークルの行事予定のところに今日は夏休みライブを開催と書いてある。場所は三宮のART STAGEだ。
「あー、行きたくないな。」
信哉は聞き込みのために重たい足取りで駅に向かった。

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