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母系社会のビッチとは、多様性の女神である

ビッチとは父系社会で生まれる言葉だ。母親は常に我が子と血がつながっているが、父親は自分の子に対して絶対の確信が持てない。かわいい我が子は、母親が他の男と作った子供の可能性があるのだ。

世界のほとんどの社会は父系社会だ。父系社会とは男が中心の社会だ。日本も例外ではなく一般的に「家」は男が継ぐものだし、家系図も男が中心となって続いていく。(ジェンダーの話は脇に置こう。天皇を見よ。)

では、母系社会はどうだろう?

母系社会とは女が中心になって続いていく社会だ。ここでは女が中心となって家系図が続いていく。あまり詳しくは書かれていないが、週間文春でもモソ族についての記事があった。興味がある方は記事の元になった本を読んでみるのが良いだろう。

ここで改めて今回のブログのタイトルを考えたい。先日、例の売春の本を読んでいる時に、「母系社会ではビッチという概念が成立しない」との指摘にハッとした。

母系社会において男は女の付属品になり、多くの男と性交をすることは多彩な遺伝子を取り入れ、種を繁栄させる素晴らしい行為だと見なされる、ららしい。貞操観念という考え方ですら父系社会の考えだと指摘をされた気がして興味深い。自分の子供か定かでない子供を立派に育て上げ、家を継がせるということは「普通の」男にとって受け入れがたい行為であるが、母系社会になるとこうした考え方は消える or 薄くなるようだ。なぜなら、家や集団の主は女であり、女が自分の子供と認識している以上父親の特定はあまり意味のない行為になるのだ。むしろ、乱交をしていれば誰の子供か特定できない状態が普通だろう。こうして子供は共同体のなかで育てられる。

備忘録的なブログになってしまったが、まとめておきたいと思う。

驚いたこと:

何が普通か。何が正しいか。そうした正しさは社会に規定される。

現代社会では蔑称として用いられる「ビッチ」という言葉。これすら父系社会が生み出しているというのは興味深い。性の安売りを批判する女性からの圧力でもあるはずだが、性を安売りするな、という戦略も女性にとっての父系社会での生存戦略だ。

何が正しいのかを考える時、その正しさで得をするのは誰か。

その正しさが変わった時、損をするのは誰か。

絶対的な価値観は存在せず、社会的な価値観があるということを忘れないでおきたい。

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