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【内向直観は思い込みなの?】公式書籍を元に徹底解説③


連休の幸福感が体から抜け切らないふわふわなみなさん、こんにちは。

今回で3記事目となりましたが、「内向直観についてMBTI公式の記述に沿って私なりの考えや感じたことをまとめる」というテーマが、書けば書くほどもりもりになってしまい図らずもシリーズ化しております。

第一回目はこちらの記事で、MBTI公式書籍に書かれている「内向直観」についてまとめてきました。

第二回(前回)の記事ではタイトル通り、私が感じた「これが内向直観で説明できることかも」な話や、「内向直観タイプだからこそ言えそうな話」を展開してきました。

MBTI公式書籍を扱うということで、注意事項やこのnoteでの公式の位置付けなど、事前に読んでおいて欲しいことは全て第一回目の記事に書いてありますので、長々としていますがぜひご一読をお願いします

書いてある通り、こちらの記事はあくまで私個人がまとめ、考えたことをプラスしたものであり、絶対的に専門的な正しさが保証されたものではないことをご承知のうえお読みいただければ幸いです。

さて、今回は「内向直観」に対して以下のテーマで私の考えを綴ります。
「内向直観は思い込みなのか?」
「内向直観タイプは生きづらいのか?」
「自分の内向直観との上手な付き合い方」(ここのみメンバーシップ限定となります)

前回もそうだったのですが、今回の記事は書籍を用いてはいながらもますます私の持論色が濃くなっておりますので、「MBTI公式の内容をただ知りたい」という方はこちらの記事ではなくぜひ書籍に貴重な時間をお使いください。

逆に第一回、第二回目の記事を読んで、私の考えや感じていることに興味を持ってくださった方にはおすすめです。

それでは内容に入ります。



内向直観は「思い込み」なのか?


もし仮にですが、ある人が何か断定的な予言をし、それが「内向直観によるものであるから」という理由で信じることを強要してくる…なんてことがあったら「それは思い込みだよ」と言いたくなるのも十分頷けます。

では内向直観とは、「思い込み」なのでしょうか?

結論から先に言うと、内向直観それ自体は「思い込み」ではないと考えています

前回紹介した公式書籍の中にある唯一内向直観「機能」を説明していると考えられる説明文を引用します。

内向直観機能は、今後のことやものごとの可能性に興味を向ける。この機能は「どうなのか」よりも「どうなるのか」を見据える内なる目のようなものである。

MBTI®︎へのいざない

これを前々回私は最終的に「可能性を自分の中で見据えるもの」とまとめた通り、内向直観機能とは何かを断定する心の機能ではなく、ただ「可能性を見るもの」です。

それが人の心の中で何か他の機能と結び付けば、断定的な考えに至ったりすることもあり得ますが、内向直観機能そのものは、ただ見るだけのようです。

そのため、「内向直観は思い込みである」という言い方は、厳密には間違っていると思います。

では「内向直観によるひらめきは思い込みである」ならばどうでしょう。

これは、その「ひらめき」が「いちアイデア」として表現されているのならば思い込みとは言えませんし、逆に本人の中で確定事項となって他に疑いようがないと思っていることがはっきりしているのならば、思い込みであると言えると思います。

思い込むとは「深く信じ込むこと」なので、そうなれば思い込んでいるということでしょうし、ただ「ひらめいた」だけならば思い込みとは言えないでしょう。

私がそうなのですが、内向直観タイプは、自分のひらめきが100%真実ではないことを知っていながら、その湧き出すエネルギーの強さから行動を始めるということがあると思います。

それが周囲の目に唐突に映ると「思い込みで突っ走っている」と思われてしまうかもしれませんが、本人にとってはそれが「思い込み(間違い)であるかどうか」というのはあまり意味のない議論なんですよね。
(日頃から「こう思うんだけどどうなのかなあ」という抽象的かつ非断定的なことで頭が埋め尽くされているので)

それよりも湧き上がるエネルギーを元に動きながら、その先に待ち受ける試練と、さらにその遠く先にある到達点までを見据えているという感じがあると思います。

そのため周囲が比較的短期的に見て「間違い」としていることが、内向直観タイプ本人にとっては最終的に正解であることもあり得るように感じます。

(自分のひらめきを自分の中でどう捉えるかや、どれだけ先を見据えられるか、「最終」にまで至るかどうか、さらにはこうした行動が周囲に認められるかどうかなどについては、内向直観機能そのものの才能ではなく本人の知識量や能力、気力、運などによるものだと思います)


では、少し言い方を変えて、内向直観によるひらめきは、「事実」なのでしょうか?

そう聞かれれば、内向直観によるひらめきは「事実ではない」と言わざるを得ないと思います。

内向直観タイプの人がどれだけ強い確信を持ってひらめいたとしても、それを検証・実証しなければ、事実として認められません。

かといって、内向直観は無意味・無価値であるとか、嘘であるなどと判断するのも早計だと思います。

これを言ってはおしまいですが、「事実ではない(間違っているかもしれない)」ことは他の機能による推測や判断も同じです。

「感情機能」はあくまで一個人の感情であったり人の感情を読み取ったもので、それを事実だと証明する手立ては実際には存在しません。

「思考機能」は論理的な考えを生みますが、人間なので理論の組み立てや考察が間違う場合もあります。

「感覚機能」は現実を捉えますが、全てを把握しているとは限らず、他の見えにくい重要な事実を見逃す可能性もあります。

人間の心の中で働くものなので、間違うことがあって当然です。

前回もお話ししたように内向直観が「いちばん現実から遠い機能」であるが故に、その「事実ではないのに発言や行動がある様子」が浮き上がって見えるだけなのかなと思います。

このように、内向直観タイプであっても内向直観によるひらめきや推測は100%事実ではないことははっきりしているのですが、場合によっては真実に近いものであることもある理由を強いて挙げるとするならば、前々回まとめた

・「中心」や「本物」など自分なりに本質を見出そうとする

物事の本質を捉えている可能性が比較的高い

・ふわっとした概念や知識そのもの、人の知識の集合体などを知ることに喜びをおぼえる。また別の機会に応用するため覚えておく

自分の中に知識を蓄積している可能性が比較的高い

といった性質で説明できると思います。

今回は内向直観タイプにフォーカスしてこのように述べましたが、もしかしたら他のタイプでも同じように挙げられる事柄があるかもしれません。
内向直観タイプだけが特別、と言いたいわけではありません。


これは個人的な考えですが、内向直観機能によるひらめきや推測は、仮説として、のちに検証されるのを待つものもあるのかなと思います。

科学によって天動説が地動説に切り替わったように、この世界では誰か一人の推測だとしてもそれを仮説として検証して、証明されればそれが事実となります。そうやって世界はどんどん変わっていきます。

人が行うひらめきや推測には、子どもが行うようなファンタジックなものから、個人の希望的観測的によるものまで様々なものがありますが、上記のような理由から、内向直観的なひらめきや推測はそれらに比べると比較的検証の価値はあると考えても良いのではないかと思います(「内向直観的なひらめきや推測」という主語が大きいのでかなりふわっとした理論になりますが)。

私の日々感じていることも含めた推測ですが、このような側面があるため、内向直観タイプの行動は、ほぼ絶対的な判断によるものばかりでなく、真偽はわからずとも少し実験的なこともして、検証を重ねながら前に進んでいくようなところがあるのかなと思います。


ここまでお話ししてきたように、私は内向直観を「思い込み」とは捉えていません。しかし事実であるはずもなく、内向直観によるひらめきや推測を価値あるものとするにはもちろん自身の努力も必要だと思います。

少なくとも、自分の主機能を「無価値だ」とするよりは、得意分野に沿って可能性を感じながら前に向かって生きていく方が、ずっと楽しいんじゃないかなと思います。


内向直観タイプは「生きづらい」?


前回、内向直観について「わかりにくい」と言ったのですが、
ここまで述べてきたように内向直観タイプは独自性が強く複雑な思考を自然とするため、他のタイプと比べると理解されにくい部分があるということも予想できます。

では内向直観タイプは「生きづらい」のでしょうか?

私の考える結論から言うと、内向直観タイプは「社会的な理解の得られにくさや、自身への理解度が比較的深まりにくいことからくる生きづらさ」が生じる可能性はあると思っています。

理由は上記のことや、これまで述べてきたことからも言えます。

ただし、決して内向直観タイプだけが特別生きづらい、と言い切ることはできないとも思います。

実際、このシリーズで取り上げているMBTI公式書籍「MBTIへのいざない」には、「内向直観タイプは生きづらい」という記述は見当たりません

それに近いような、内向直観タイプが複雑とか理解されにくとか、現実社会に対応するのに大変なエネルギーを要するなどといった記述も一切ありません。

内向直観タイプだけ説明が長いということもなく、全てのタイプにほぼ等しい質と量の説明が書かれて、内向直観は8つのうちの1つとしてただ紹介されています。

そもそも「生きづらさ」というものは上記のもの以外にも、
自分の欲望を自分で認めることのできない生きづらさや、気持ちが抑えきれずに人とぶつかり合ってしまう生きづらさ、
近しい人や環境と相性が悪くて起こる生きづらさや、身体的な特徴からくる生きづらさなど、さまざまなものがあると思います。

そのうちの一つとして、内向直観タイプには「社会的な理解の得られにくさや、自身への理解度が比較的深まりにくいことからくる生きづらさ」が生じる可能性があるのかなと私は思っているということです。
(比較してどちらが大きいとかは、わからないとしか言いようがないです。)


人には「理解してもらえる人」が必要ですが、私が思うに内向直観タイプには特にその度合いが高いのではないかと感じています。
ここでいう「理解」とは、「考えや思想の理解」だけではなく、「どう接したら良いか(どんな言葉をかけ、時にはそっとしておくべきか)」などコミュニケーション判断も含めた全体的な理解です。

やはり表出するものと自身の内面という点で一般的に見るとギャップが大きいので、全員がとは言えませんが勘違いをされやすかったりするのですよね。

もちろんそのギャップの大きさやあるなし、どれくらい勘違いされやすいかされないかといった部分は個人の自己理解力やコミュニケーション力などこれまでの努力によるところでもあると思いますが、
内向直観タイプが人々の中で心地よく生きていくには、周囲の理解力やコミュニケーション力によるところも比較的大きいと思います。

でも逆に言えば周囲ができるのって「理解をする努力」までなんですよね。

いくら周囲が理解をする努力をしていても、内向直観タイプである本人が自己理解を深めなければ、周囲の努力も空回りになってしまう度合いが高まると思います。

こういうことを思っている人はあまりいないかもしれませんが、あえてはっきりさせておくために言うと、内向直観タイプは特別に支援が必要なタイプではないと思っています。

そもそもそこに何か歪んだ力関係があって当人が不利益を被っているとかであれば別ですが、
内向直観タイプのために社会が変わるべきとか、周囲は努力すべきとか、(そういうことを思っている人はほとんどいないと思いますが、)そういうことではないんです。

結局私たちは自分で自分のことをまずは知って、自分で自分に適した道を選ぶことを許し、動いていくしかないと思っています。

それに、内向直観タイプはそれができない人種では決してないと思います。

もし今生きづらいと思うのなら、今いる場所から遠ざかることは「逃げ」ではなく、自分に適した道を選ぶ第一歩とも言えると思います。


…では、この先この難しめな内向直観というやつと、どのように付き合っていけばうまく道が切り拓けるでしょうか。
あくまで私が考えてきたことですが、せっかくなので共有したいと思います。

ここからはメンバーシップの皆さんのみの閲覧となります。

メンバーシップ会員の方以外は、ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

ここまででも何かためになったりや共感されたことなどありましたら、ぜひ「スキ」ボタンを押していただけたら励みになります。

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ではメンバーシップの皆さんは以下に続きます。


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