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【honne】歴史は生きてる (2)

こんにちは。岡崎です。

この記事は、以下の記事の続きです。長いこと更新していませんでしたが久しぶりに国際政治らしいことを考えたので連番にしました。

今日は、偶然地下鉄に乗ってて拾ったMetro紙(2024年8月7日号)8面の記事『広島がロンドンだったら… 衝撃の地図が示す破壊の規模』について小さい考察を置いておきます。なんとなく、今日が偶然広島と長崎の原爆投下の中3日のうちの1日だし、考えてみたいな、と思ったので考えてみます。

もう書きたいことだけを書きます。あるまじきことかもしれませんが、著者のG. Krasteva氏がどういった人物なのかとか、言及されている原子力史家のA. Wellerstein氏が他に原爆についてどのような理論をお持ちなのかとか、すっ飛ばして内容について考察します。興味ある人はご自分で調べてみてください。

まず、一つ書いておきたいことなのですが、原爆について今週、日本やイギリスのみならず、世界中で平和についてのニュースやコラムなどが報じられているのは、とても大切なことです。原爆というカタストロフィについての言論活動は、平和学においても日々においても(平和学や安全保障では敢えて”everyday"という用語で人々の何気ない「日々」という概念を論じることがあります。安全保障において今まで焦点になってこなかった「日々」がとても大きいテーマだということです)かけがえのない意味を持ちます。

それを書きおいたうえで、内容について考えていきます。もしグラウンドゼロがウエストミンスターだったら、というのは、もしロンドンに津波が押し寄せたら、という類の他の自然現象のモデル検証とは異なり、第二次大戦の戦史について、また、平和を希求することについて、より人間社会にとって重要なテーマへと拡がる思考実験です。ガザ西岸の緊張、ロシアとウクライナの侵略戦争、イギリスの反移民暴動などが起こり続けている現在、一層考える必要と意味のあるテーマといえますね。

抽象的な文脈としては、様々な契機から平和の議論をし続け、言論活動の火を途絶えさせないことが平和学の中で積極的平和を議論するための前提として必要となります。これらの議論は途絶えてしまうと途端に市民社会から忘れ去られてしまう類の議論です。一度考えることを止められた平和は、再び正しい議論を取り戻すことが困難なまま戦争や紛争、テロといった取り返しのつかないシチュエーションに突入しがちだからです。

歴史にとって無知は敵です。このコラム記事が、広島平和記念式典を小さいながらも取り上げているのも、広島や長崎が平和を希求する都市としての役割を果たしていることも、日本が平和主義にここまでこだわっていることも、この無知との戦いの一環です。人間の知性が作り出す平和にとって、無知は暴力を呼び起こし戦火を再度呼び覚ます有害な偏りであり、それを正すために過去の事実を忘れない、風化させないことが必要です。

そして、平和という人類恒久のテーマは、上述したように、こうした言論活動の中に存在するだけではなく、私たちの「日々」の中にも煌々と灯り続けています。例えば日本人の僕であれば、中学生時代の平和学習の記憶を、この年になっても忘れることはないどころか、国際政治を勉強する中でその印象は日に日に強くなっています。

世界平和の礎となるのは、本当に、我々の日常生活の中に根付いている些細な平和への感覚であり、記憶であるのだなど感じます。原子爆弾がどれだけ人の肌を爛れさせ、放射能由来の癌で人を殺し、人そのものを蒸発させるのか、その戦争の兵器がもたらす異常な恐怖と非人道性は、伝聞を通して、語り手の感情として僕の中に根付いています。

これは、どの国の人にとってもそうだと思います。どんな国にも武力があって、戦争があって、記憶があって、語り手がいます。そしてアカデミックな、もしくはマスメディアを通した言説の構築としての平和希求があるのと並行して、伝聞を通じて人々の生活の中に根付いている戦争の記憶があって、それぞれが共に平和の灯となります。

僕はここでは、日本国憲法の武力放棄・戦力不保持・自衛隊・平和主義などの論考には踏み入りたくありませんが、結局平和という理念は、国内政治・そして国々の権力政治のリアリズムの狭間に抜け落ちて消えてしまう宿命なのか、それとも日本をはじめとする国際政治上の国々や国際連合は、標榜している平和の理想を形を変えつつ受け継いでいくことになるのか、今世紀の国際政治の変遷から目が離せません。

とにもかくにも、一度起こった歴史は、歪んで伝わるにしろ、正しく伝わるにしろ、無知の彼方に忘れ去られるにしろ、無かったことにはなりません。例えば国際政治における人種理論もこれと似た性質を持っているのですが、白人の人種差別史への「無知」こそが悪であるという見方が、欧米の人種理論においては主流の見方です。「無知」は、忘却や歴史修正とは異なります。歴史における無意識な、もしくは意図的な無知が再び想起され、議論されるとき、無知の対象として忘れ去られていた悪や暴力は、一層厳しく批判の対象になり、様々な角度か改められます。

そういう意味で、長期の苦痛と長引く痕跡を伴う非人道的な原子爆弾の使用された、広島と長崎における象徴的な事件は現在においても79年前と同じインパクトの強さをもって、人々の心に呼び覚まされるべきです。そしてそれを通して、人々はいま世界で起こっている戦争や紛争について考え、平和とは何かを考える義務を全うしなければならないと思います。
これは非常に難しいことではありますが、繰り返し主張しているように、公共言説での平和議論と日々の日常生活での議論は平和の存続にとって両方重要で大切です。国際政治を大学で選んでいなければ自分にとっても平和の議論は何処か遠い話だったと思いますが、一見何の意味も感じられないような、日々の生活の中で平和について思いを馳せる営為が、実は国際政治の平和の維持にとって大事な習慣なんだなあ、とぼんやり考えていました。

それでは、また。

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