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牧歌的な目

おはようございます。今日のイギリスの天気は曇り、岡崎の心も曇りです。

最近は、完結せず、考えが拡散していき収縮を見せないので、なかなか一つの成果物として記事の形にすることが難しいと感じています。

さて、僕の子供時代を思い返してみると、親に庇護され、大人に慈しまれ、友達と無邪気に学びながら、多くの職業や人間に憧れていたな、と思い出します。子供は何にでも憧れます。それに対して僕は、今でも多くの高い目標を持ち続けていると感じます。これは一概にいいこととは言い難いです。

大人になるにつれて、生活の現実的な面が強く人生に圧し掛かってきて、人が持つ目標は少なくなり、人が自分の力について信じている可能性も少なくなっていきます。だからこそ大人は我が子に夢を託したりもします。

ある職業が大きなパラダイムの中で是とされているとき、それに批判的な考察を行ってもそれは穿った見方になりがちです。しかし、経済的には大抵そういうときにはその市場にはバブルがやってきていたり、労働条件が実は劣悪だったり、世間というのはそういういい加減なものです。そういう時、人は物事が見えていないのではなく、客観的には分かっていても自分を客観視することに不安が伴うので途中でやめてしまいます。

次回の記事で深く立ち入ることにしようと思いますが、平成初期の日本全体の不動産バブル景気であったり、リーマンショック寸前の社会全体の金融バブルであったり、近頃の世界のITバブル、コンサルバブルというような流行り廃りがあり、僕も例外ではなくその波に揉まれています。海外留学の流行もそのバブルの一部分だと思えます。

成長

多くの人は、社会人の家庭に生まれ、大学を卒業すると社会人になりますが、中学生から大学生の間に、真に勉強することの楽しみを知り、浪人生時代も含めて、教養の面白さに初めて触れることになります。予備校の先生というのは、学校教師や大学教授よりもうまく教養の面白さを学生に伝えることができる稀有な職業の一例だと思います。健康的な生活を維持するための看護師が「エッセンシャル・ワーカー」と呼ばれるならこちらは知的なエッセンシャルワーカーではないでしょうか。

よく、「大学は無駄だ」「やりたいならやりたいことをやればいい」という実業家がいますが、果たして本当にそうでしょうか。答えはグレーです。やりたいことがあるなら、大学など時間の無駄で、遊んでいる学生がいく場所なので、さっさと除籍して何かを始めればいいのかもしれません。それが優れた実業家の生き方かもしれません。

一方、研究したいという人もいます。自分の学部時代の研究を深めることに成功し、専攻分野が浮かんできて、一生を知的創造の研究に捧げる人種がいて、産業や人々の生活はそういった人々の作業による発見の積み重ねに支えられています。

そのどちらにも属さない人がいます。公務員、フリーター、日雇い労働者、お坊さんなどがその一例です。

この混濁とした世界の民衆は、そうして多様な人々によって形作られています。強い意志を持つ人も、流される人も、バブルに参入する人も、乗り遅れる人も、多くの人が群集の一部として暮らしながら、時々自分を群衆から切り離して世の中を見つめ、また群集の中に戻っては悩みながら生活を送っていきます。

そんな流れはありますが、幼稚園に始まり大学で終わる20年と退職するまでの40年の労働を比べると、二つは異なるステージに見えます。平均的な中産階級の人々は、前半で教養を身に着けて、後半で仕事人になるという流れを踏むことになります。

そんな中で、様々なハプニングに揉まれ、フラストレーションが溜まり、憧れへの牧歌的な目線を忘れるのが普通の現象です。社会の中でこういった職業にはこういう苦労がある、会社の人間関係が苦しいのでやはりこういった職業には絶対に就きたくない、という風な世知辛い冷たい視線が牧歌的な憧れの目にとって代わります。

『共同幻想論』考察

どんな社会においても存在する国家や宗教、法と言った共同幻想が人々の暮らす共同体にどのような位相で存在しているのかを分析した名著『共同幻想論』は、悩みに解決を与えはしないものの、鋭い角度からの洞察を投げかけます。

人には、「間違っている」と思っていることを間違っていると表明するという能力が備わっています。戦時下ファシスト政権の大日本帝国における一部の詩人や芸術家がわずかに存在しました。鋭い洞察的な意見は、吉本隆明が言うには、共同体の幻想と自己幻想の逆立構造を把握することで導き出せます。つまり、

吉本隆明が言う共同幻想への入眠幻覚とは、いわば洗脳です。通貨や自由経済、民主主義政権や義務教育と言った神話による群集心理による洗脳のどこに自分が位置しているのかを知ることはどのようにしてできるのでしょうか。

それが間違っている、と大っぴらに口にすることは一定の空気抵抗を伴うので、多くの人はある社会的真実について、空気を読んで黙っていることが普通です。

例えば学者や芸術家はサラリーマンに比べて自分の研究や表現を通じて世間に対して批判的なメッセージを送りがちですが、オフィスで働いている、つまり営利目的で活動する法人に所属し組織の一パーツとして経済を回し生活を成り立たせているホワイトカラーの労働者たちには間違いを指摘するインセンティブが存在していません。

なぜなら黙って洗脳されていたほうが給料が減らないからです。これはある一つの真理で、お金があれば生活が持つので、お金のために働くというのが大事であるということを否定するつもりは毛頭ありません。

そして、そこには権力者と民衆の畏怖で繋がれた関係性が存在することがしばしばあります。これを恐れずに勇敢につついていく力はどのように役に立つものなのでしょうか。一見、重箱の隅をつつくようなことを言うことは社会にとって害でしかないように思えます。

そればかりで成果を出さない人は、そのコミュニティから追放されてその先で苦しい目を見るのがオチです。それを指摘せずに組織としての結果を出していく人間のほうが今まである意味優秀とみなされてきました。命令を忠実に遂行する経営者の僕(しもべ)という図式です。上の人がビジョンを掲げてくれるからこそ頑張れるわけで、自分で目標設定をしてそれを乗り越えていく作業が苦手な人が今の社会にはたくさんいます。

反対に、黙って働いて成果を出していればいいものを、おかしいと思っていることが口をついて出ずにはいられない人が一定数世の中には存在します。

妄信的に組織や集団の価値観を受け入れてタブーを犯さず典型的な生活を送っていくというのは、良いことなのでしょうか。悪いことなのでしょうか。答えは、そのどちらでもない、です。

「おかしいと思っていることを逐次修正できる人」と「周りに流されず結果として組織の最善となる一手を選ぶことができる人」のどちらも組織には必要ですし、どんな人でもそのどちらかの傾向を強く持つと言えそうですが、どちらが良くてどちらが悪い、だからあなたはどうすべきだという答えはありません。ただ、人間と環境の分析を通して自分と社会の関係を見定めることはそう難しいことではありません。

人間の分析


どんな人でも自己分析を行う際に過去の自分を相対化して向かうべきベクトルを定めるという過程を踏みます。過去の自分は正しいと思った自分を貫くことができなかったから、これからはきちんと自分を表明できる人間になりたいと思っている、という風にその時々での自分と他者の関係性などを鑑みて自分を分析します。

しかるに、自分に見えている世界というのは刻々変化していますが、その中で措定される自我の像というのはある意味で自分そのものではなく想像上の他者です。

その段階では、自分が自分だと思っている誰かは他者なので、自分の欲望などをあげつらって「こんな風になりたい」などと考えてみてもそれは大した意味を持ちません。

ならば考えるべきは、自分の憧れや希望、幸せに感じることや悩みなどは置いておいて、とりあえず過去から未来の流れの中で自分がどのようになっていくのか想像するということくらいではないでしょうか。

「自分がどうしたいか」を突き詰めていくと障害を乗り越えると必要性が必然的に発生します。

「自分がどうなっていくか」を考えられる範囲で予想していくと、失敗も成功も含めて一種のギャンブルとしてどのようにして乗り越えていくべきかがわかります。大抵の場合、人ひとりにできることはそう多くありません。それが自分の人生であっても。だから、今いる立ち位置から足を踏み外さずに進んでいくくらいしかありません。

要は、自分の人生をギャンブルのように傍観して楽しむべきなのかもしれないということです。僕の目標は、調子がいい時と悪い時で掛ける文章量が変わってしまうこと、記事を書く作業の波が激しいことを修正することです。

まとめ

人間は、成長していく生き物で、記憶が衰えることはあっても、賢くなっていく一方、様々な辛酸を舐める中で、世界を見るときの牧歌的な温かい目線はつらい思い出の中で醒めたフラストレーションを含んだリアリスティックな目線になっていきます。

どんな社会でも共通して言えることは、組織を運営していく中で先頭に立って雄弁な言葉で仲間を導いていく人がいる一方で、それについていく人、それについていけずに疑問を呈す人がいて、その中で問題が修正されていくということです。きっとそのどちらも大切な役割なのではないでしょうか。

自我を見つめるという内省の活動は、自分を他者として客観的に見つめるという行為です。面倒な人生という作業の流れの中で、共同体と自我の関係性を見直して、自分の在り方と自己幻想と共同幻想の繋がりを意識して、時間性を考えることで未来の自分に向けてのベクトルがはっきりするのかもしれません。それにしても悩みは尽きません。

今日も一日、頑張りましょう。
それでは、次回の記事も、ごひいきに。

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