見出し画像

僕が手にするはずだった黄金について

『人は1日に4回嘘をつき、
  1日に200回嘘をつかれている。
  誰かを楽しませるホラ話。
  その場を乗り切る口から出まかせ。
  存在価値のでっちあげ。
  虚構に溢れたこの世界に、
  真実なんて無いのでしょうか。

最近、本当に色々な思考が頭の中を巡っていて。特に小説を読了した直後は脳内が騒がしい。自分が主人公だったらどうしたか?自身が筆者ならどのような結末で終わらせたか?この物語から得られる教訓は?それを受けて、これから僕はどう生きるのか?e.t.c.

つい先日読み終わった小説がとりわけ自分の内面を抉られた。普段読了後に感想文を紙のノートに手書きしているのだが、今回についてはこちらのnoteに所感を記録することにしよう。今後は知らん。


本作の概要 

「君が手にするはずだった黄金について」

 著者 : 小川哲 さん
 頁数 : 256 ページ
テーマ : 真実と虚構

「あなたの人生を円グラフで表現してください」
就職活動に励む(著者自身を彷彿とさせる)大学院生、主人公小川がエントリーシートの質問の回答に悩むシーンから物語が始まる。彼は院生から小説家になるまでに、多くの人間と出会う。青山で活動する怪しい占い師、自称80億円を動かすトレーダー、ロレックス・デイトナの偽物の腕時計を巻く漫画家。彼らとの関わりの中で、真実と虚構について思考を重ねていく。彼らは一体どこまで嘘をついているのか。嘘を物語にしている小川は、彼らと何が違うのか?成功への渇望、ねじ曲がった承認欲求。その先に待つ未来とは一体…。

読了後の所感

1. 2011年3月10日って、何してた?

2011年3月11日、皆さんは何をしていたか覚えているだろうか。そう、東日本大震災により日常が一変してしまったあの日である。当時未就学児でない限り、きっと多くの方が鮮明にその日のことを覚えていることかと思う。

僕は当時小学校6年生だったと思う。留年も浪人もしていないから、多分小6で間違いない。恐らく午前中は通常通り授業をしていて、午後からは卒業式の練習をしていたと思う。いつも通り家に帰ると、母親がおかえりの言葉もなく「日本大変なことになってるで」と一言。急いでテレビに向かうと、そこには上空から映された変わり果てた東北の姿があった。ニュース画面の右下には赤い輪郭で囲まれた日本地図(恐らく津波警報区域の表示だと思う)と鳴り止まない緊急通知音。どこか遠い世界の出来事のようで、実感の全く湧かない僕は、ただ画面をボーッと見ていたのを覚えている。

では、皆さんは震災の前日、2011年3月10日は何をしていたか覚えているだろうか?僕はほとんど覚えていない。多分授業と卒業式の練習をしていたのだろうが…放課後に何をしたのかも、何を考えていたのかもまったく覚えていない。きっと多くの人が当てはまるのではないだろうか。実際、小説の中の大学生数名も明確な記憶を持ち合わせていない。微かな記憶はあるのだが、よくよく調べてみると全員実は記憶が間違っていたというストーリーが記されている。

この小説の残酷なところは、第1章に本作のテーマである虚構を『自分』から『自分』に向けている事だ。自身の記憶は本物なのか?自身の記憶は虚像だらけではないのか?至るところに記憶の補正がかかっているのではないか?自分で自分の過去を信じられなくなる、何とも嫌な感覚に襲われた。更には、災害等の外的要因によってこんなにも記憶や印象の評価が変わってくることも痛感。或る1日は鮮明に記憶に残っているのに、別の1日は片鱗すら思い出すことすらできない。どちらも同じ、大切な1日であるはずなのに。

はたして、今日という1日を10年後も僕は覚えていられるのだろうか。

2. 僕らがSNSに投稿する理由。

最近はインスタグラムを開く回数も少なくなってきた。それでも1日何回かは皆のストーリーを閲覧する。そこには多くの幸せ、あるいは幸せに見せかけた「何か」が載せられている。綺麗に並べられたワイングラスやビール瓶。どこかの会場を背景に写した紙チケット。最近聞いてるプレイリスト。何回か取り直したであろう肉寿司。そこで何をしたのか、何を感じたのかを少しポエミーに書いてみる。店舗名をメンションしてみる。友人の姿をさりげなく入れ込んでみる。たまに音楽に乗せてリール動画を作ってみる。自分がその日充実した時間を過ごしたことを、画面の向こうにいる誰かさんにアピールしてみる。

はっきり言って、時折気持ち悪いと感じてしまうのは僕だけだろうか?ラーメンの写真も、桜の散り際も、誰かの満ちた時間も、所詮赤の他人にとってはどうでもいい事なのだ。他人の幸せを自分の幸せのように感じられるような聖人君子など、この世にそうそういない。でも、僕もストーリーに写真を投稿する。楽しかった1日を、自身の中にある無数の思考を、何故かみんなに見せたくなる。

では、何故僕らはSNSに投稿をしてしまうのだろうか。なんてことをよく考えたりする。この疑問は本当に頭から中々離れてはくれない。そして、今のところ出てきた答えは大きく2パターンに分けられる。「思い出を忘れないようにSNSに記録している」と「自分のことを誰かにみてほしい」である。もちろん異論は認める。

前者はまだいい。自分の為にしているからだ。SNSではなく日記やメモアプリに記録していればいいじゃないかと思うこともあるが、今はその点については目を瞑っておこうと思う。問題は後者の理由だ。恥ずかしい話だが、僕が投稿する際の理由は完全にこちらである。自分の人生は誰かに劣っていない、自分の人生は充実している、そんな強がりがたった10秒前後の動画に詰め込まれている。誰かも分からない「誰か」に向かって必死にアピールしている。でも、そんな人は言葉にしないだけで結構多いんじゃないかと予想しているのである。ところで、かの有名な絵画モナ・リザ。あれは作者ダ・ヴィンチが女装した際の自画像なのではないかという説があるらしい。結局みんな、自分を見てほしい。

タチが悪くなると、嘘や誇張を交えて投稿をするようになる。小説の中では、片桐という男が富豪トレーダーを名乗っている。いかに自分が金持ちかをSNSでアピールしているのだが(投稿された画像は勿論ネットからの転載である)、そんな嘘にまみれた黄金のメッキは結局剥がれる。彼は最悪の末路を辿ることになるのだが、ここでは割愛させていただく。

でも、それに類似したことなどSNSにはよくあることなのだと思う。みんな、画面の中の容姿をイジる。顔をイジる。目を大きくし、顎のラインを細くしてみる。さらには数字をイジる。貯金額も年収も、ゴルフのスコアも少し盛ってみる(飛距離なんて、270ヤードでも240ヤードでも良いじゃないか)。脚色に脚色を重ねる。恐らく、自分も例には漏れない。現実と理想が乖離すればするほど、虚しさは積もるだけだというのに。画面の中で完成した偽物の自分を目にしたときに、果たして自分は何を思うのだろうか。みんなは何を思うのだろうか。それとも、何も思わないのだろうか。ここで、改めて考えてみる。

僕たちは、何の為にSNSに投稿をするのだろうか?

3. 道徳教育で学ぶ、たった2つのこと

「こころのノート」だろうが「生きる力」だろうがなんでもいいのだが、学校教育の中でも特に重要な位置付けがなされているのが道徳教育である。文章を読んで感想を書き、登場人物に寄り添って自分ならどう行動するかを考えさせる。そんな道徳だが、結局言いたいことや学ぶべきことは次の2つに集約されると思う。

①「自分がしてほしいことを相手にしましょう」
②「自分がしてほしくないことは相手にしてはいけません」

上記2つは道徳界において、それぞれ黄金律と銀色律と呼ばれているらしい。それほど重要な法則である。ただし、正解がなく無限の多様性がある現代において、この規律には一つ厄介なことがある。そう、してほしいことやしてほしくないことは、人それぞれなのである。

僕は、運転中に指図されるのが実は大嫌いである。「今の右やろ」「スピード速いで」「ここ車線変更やな」なんて、言われれば言われるほどテンションが下がっていく。信号が変わった瞬間に「青」なんて言われたときは、分かってんねんドアホと顔面を殴りたくなる。ただ、その人は悪意があって指図しているわけでは決してないのであろう。指示を出してあげた方がいい、と本気で思っているのだ。

困難にぶつかったとき、多くのアドバイスを受けたい人もいれば自分で解決策を模索したい人もいる。性的な話の一切を嫌悪する人もいれば、ち◯ちんおっ◯いと叫び倒す人もいる。ここまではしてほしいけど、ここから先は何もしてほしくない。境界線は人それぞれまったく異なるのだ

僕は境界線を他人に合わせるのが上手い(と思っている)。多少嫌なことでも相手に合わせられるし、一般的な親切も、相手にとってはお節介になる可能性を常に考えている。これはある面では長所で、ある面では決定的な短所だと思っている。他人軸で物事を考える自分のことが本気で嫌いになる時期も多くあった(今もそうなのだが)。

人と関わるということは、やじろべえのようにバランスをとり続けるということだ。そんな毎日に疲れてしまうことはよくあるのだけれど、面白いと感じることも時折ある。

他人のことはよく見なければいけないのだが、それ以上に自分自身に向き合わないと、どんどんおかしくなってしまう。これは、自分自身の一生の課題のように思われてならない。

最後に

僕たちは、その身が汚れていくことで大人になっていく。いや、大人になる過程で汚れていくのかもしれない。慈善事業が節税対策で行われている場合が殆どだということを知り、政治家の多くは世の中をよくするためにいるわけではないことを知り、コウノトリは赤ん坊を運んでこないことを知り、自分には大した才能などないことを知り、そんな社会の不純さを受け入れていく。名刺の渡し方を覚え、ノックの回数とお辞儀の角度を覚える。そうして僕たちは、幾つもの喜びや悲しみを忘れてしまった。

僕の人生にも、数多くの後悔がある。幼少期、学生時代、社会人、あぁ別の選択肢をとっていれば今頃別の道を歩んでいたのかも、と思うことはある。山ほどある。一つの黄金を手に入れるということは、本来手に入れるはずだった無数の黄金を手放すということだ。人生の分岐点で幾許かの栄光を手に入れ、多くの後悔を背に受けながら、僕たちは生きていくしかないのかもしれない

僕たちは手に入れることのできなかった無数の可能世界に想いを巡らせながら、日々局所的に進歩し、大局的に退化して生きている。きっと、そうすることでしか生きていけないのだと思う。

「君が手にするはずだった黄金について」より

 でも、だから世界は面白い。
 見栄を張り、話を盛り
 偽物の黄金に塗れた自分を、
 誰かを騙し騙される刺激的な毎日を、
 偽りだらけの世界を楽しめ』

この記事が参加している募集

#読書感想文

189,937件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?