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指切りげんまんに7年

私は19歳。

彼は22歳。

彼と私は幼馴染。

川に行って魚を獲ったり、近所のレンコン畑でかくれんぼをしたりと、物心ついた頃から私は彼と一緒だった。

彼はこう言ってくれた。

「もどったら結婚しよう」

ごつごつした手を私の頭にのせ、小指をだして指きりげんまん。

1939年9月 第二次世界大戦

瞬く間に平穏な日々は消えた。

でもひとつだけ、私の心が安らぐときがあった。

彼の両親あてに届く、彼からの手紙。

文面の最後にいつも一言だけそえられている。

「”かれ”によろしくおつたえねがいます」

”かれ”とは私のこと。

それがなによりの安らぎだった。

その安らぎも戦争が激化していくとともに途絶えた。

空爆であたりは焼け野原。

食べるものなどない。

水で飢えをしのいだ。

友人・知人が亡くなっていく。

それでも私は必死に生きた。

彼にもう一度会うために。

そして、彼の手紙が途絶えて数年後。

1945年8月 終戦

たくさんの兵隊さんたちが生還してくる。

家族、友人、知人、婚約者が出迎えに行く。

生きてる姿を見て喜び泣きくずれる人もいれば、死の報告を聞き悲しみ泣きくずれる人もいる。

私は・・・。

終戦から1年が経った。

生存通知もこない。

死亡通知もこない。

もちろん彼からの手紙など。

くるのは縁談話しばかり。

20歳で結婚していなければ、行き遅れといわれてた時代。

26歳の、行き遅れの私に、何人かの方が結婚を申し込んでくださった。

ありがたかった。

でも私は全てお断りした。

彼が生きていると信じているから、彼と約束したから、指きりげんまんしたから。

私は彼以外と結婚する気はない!

寂しさで心が揺らぐときは、彼とよく行った須磨海岸のほとりに座って、地平線のむこうにいるだろう彼を思い出した。

終戦から1年半が経ったある日、ちょっとした朗報がきた。

各方面で生きていた兵隊さんたちは、全て帰還していた。

でも、スマトラ方面の兵隊さんたちだけが戦後処理のため、誰一人もどってきていなかった。

そのスマトラ方面の兵隊さんがもどってくるという。

彼はスマトラ方面にいた。

しかしそれは、最後の手紙に書いてあった6年以上も前のこと。

転戦してる可能性は高い。

スマトラから日本の神戸港に到着する船は4隻。

彼が生きているなら汽車で梅田までくるはず。

私はかすかな望みだけをもって待った。

最初の汽車が到着した。

再会で泣き崩れる人達。

私のように待ち人を探す人達。

2本目の汽車が、3本目の汽車が、そして最終の汽車が・・・。

船は全て日本に錨をおろしている。

出迎えでごった返していた梅田駅には静けさが漂う。

空を赤くそめる夕焼けが、泣きたくても泣けない、1人たたずむ私を照らしている。

そんな私に1人の兵隊さんが向かってくる。

真っ黒に焼けた顔、ボサボサの髪の毛、口がわからないくらいのヒゲ。

ボロボロの軍服を着て、使い物にならない”飯ごう”を持った兵隊さん。

その兵隊さんが私の前で立ち止まった。

そして、ごつごつとした真っ黒な手を私の頭において言う。

「ただいま」

付け加えて、

「父と母にあいさつしなければならない。どこかでヒゲを剃りたい」

・・・

2022年 某日

「こんな話をいつしたんだ?」彼が私に聞く。

私はニコニコしながらこう言う。

「20年くらい前かしら。京阪モールで一緒にケーキを食べているときに」

彼は眉間にしわを寄せて「こんな話をするんじゃない、恥ずかしい」と。

私は目じりをさげてこう返す。

「いいじゃないですか。遠い、遠い、昔の話しなんですから・・・うふふ」

”天国の縁側”に腰をおろし、茶をすすりながらこんな会話をしている2人を想像するのは、難くない。

孫として。

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